「うーん、なるほど……」
トヨの横に腰かけた梅井は、佐野の話を聞いて頷く。
「……佐野さんは、きっと自分を責めるあまり臆病になってるんですね」
「……」
佐野は何も返す言葉が無かった。梅井は静かに付け足す。
「確かに、競技の前にやってしまったことは意地の悪いことだなと思いますよ。許してもらえないかもしれない。けど、このまま早瀬さんとお話しできないで早瀬さんが卒業を迎えてしまったら、もっと後悔するんじゃないですか?」
早瀬は現在四年生。晩夏駅伝を終え、次は一月に開かれる『新春女子駅伝』をもって引退だ。残りおよそ4ケ月。その期間をどうやって過ごすのか、問われている。
「……そう、ですよね」
一年生で補欠一番手に選ばれるほどだ。佐野は高校時代から陸上競技界においては注目されている人物といって間違いなかった。早瀬から学びたいこともたくさんあっただろう。早瀬だって、期待の新人に教えたいことがまだたくさんあったはずだ。
「佐野さん、早瀬さんに許してもらいたいって思ってます……?」
梅井は静かに佐野の目をのぞき込んだ。梅井の黒い瞳は、一瞬どきりとするくらいに美しい。この緊張した場面でそんなことを思っている場合ではないのだが。トヨはこのすべてを見透かすような目が苦手で、けれど気に入っていた。彼でなければ、自分の右腕にはなりえなかっただろう。心の内を話したくなってしまう、まるで何か魔法がかかっているかのような瞳。射られるような瞳に、佐野は首を横に振った。
「できるなら許してもらえたらっては思うけど、違う……許してもらえるなんておもってないんです、ただ、早瀬先輩とまたお話したい。それって虫のいい話だってわかってるんだけど、でも」
「じゃあ、ひとつ教えますね。今の状況と、思い切って謝ってみた後の状況を比べてみたらいいんです」
「え……」
「今は、あなたはもやもやしてる。話せない、謝れない、犯人は私ですって言えてない」
「……はい」
「早瀬さんがどう思ってるかはわからないです。でも、俺なら『あの子だってなんとなく知ってる。でも、あの子謝ってくれないな』って感じかな。トヨ先輩はどう思います?」
急に話を振られて、トヨはえっ、と声を上げた。
「そうだな……許すかはともかく、なんでそんなことしたのか知りたいかもね」
早瀬の性格を把握しきっているわけではないので、彼女が何を望むかはわからない。あくまでも自分ならどう思うのか、という話しかできないけれど、と言って、トヨはティーカップの中の紅茶を見た。
梅井は更に話を続ける。
「謝罪した後のあなたは、恐らく少しはすっきりすると思います。俺たち以外に話せなかった『あの日の行い』についてを打ち明けることで、あなたが抱えるものは少しだけ減る。問題は早瀬さんですね」
佐野は押し黙ってしまった。
梅井の話がここで終われば、自分の罪を受け入れて抱え続けて、もう佐野とは話さずに終わることが佐野への誠意に繋がると取ることも出来たかもしれない。しかし、梅井はこう続けた。
「早瀬さんはあなたの謝罪を受け入れるかもしれない。でも、それで本当に許せたかどうかというのは早瀬さんにしかわからない。受け入れないかもしれない、そうすると、あなたはより落胆するかもしれない。早瀬さんの方は、あの日のあなたの行動をあなた自身の口から聞くことで、よりあなたに失望するかもしれない。逆に、正直に話したあなたと関係を修復したいと思うかもしれない」
ゆっくり、佐野がしっかりと聞き取れるように、飲み込めるように梅井は話す。佐野は小さく頷きながら梅井の声を聞いた。
「でも、これって全部憶測でしかないでしょ」
「……はい」
「ここまで話した内容は全部俺が想像し得る範囲の事です。どうなるかは話してみないとわからない」
「そう、ですよね」
「というか、俺、自分でやっておいてなんですけど相手の反応を予想しながらこっちの出方を考えるって結構卑怯ですよね」
トヨが即答する。
「それはそう」
「ま、でもそういうふうに生きる人間も結構いますよね」
「それもそう」
二人のやり取りが少しシュールで、佐野は笑ってはいけないのに少しだけ笑ってしまう。それをみて安心したように、梅井は笑った。
「だからね、どういう風に相手と接するのが自分の誠意かを、自分で決めるしかないんですよ」
そこから更に嫌われるのか、相手に不快な思いをさせるのか、納得してもらえるのか、それはすべてやってみないと起きてみないとわからないことだ。
「あなたは早瀬さんを更に傷つけそうで怖いって思ってるかもしれないけど、彼女、そんなに怒ってないと思いますし、それに、彼女の性格的には何が起きたのかを知って、それで前に進みたいんじゃないかって思います」
すごい、と佐野は呟いた。なにが? と問い返す梅井に、佐野は泣きそうな顔で答える。
「私なんかより、早瀬先輩の事、わかってる……」
「俺、観察眼にはちょっと自信あるんですよ」
そして、梅井は少しだけ険しい顔つきになって言葉を続けた。
「どうするかはご自身で決めるべきですけど、……その謝罪を自分のためだけにするのなら、やめといたほうがいいですね」
あなたが寂しいから、あなたが早瀬さんから教えを乞いたいからという理由で謝罪して早瀬に近づくのであれば、それは身勝手すぎるから、と。
佐野は下唇を軽く噛んで、俯く。
「……でもね、結局謝罪って相手に誠意を伝えることで相手の傷を少しでも軽くする、相手に反省の意思を伝えて相手に留飲を下げてもらう行為とは思うけど、最終的にはする側のエゴだと思うんです」
「!」
梅井の言葉に、佐野は顔を上げた。どうしてそんなことをいうの、と言わんばかりの目だった。
「だからね、どうせ傷つけてるのに変わりないんです。エゴはエゴでしかない。それなら自分なりのエゴを通してしまえばいいんじゃないですか」
そこに、少しでも相手につけた傷を拭いたいという意思があるのならば。これから時間をかけてでも、罪を償いたいという気持ちがあるのならば。
そう続けると、梅井はすっと立ち上がった。
「それじゃあ、俺は事務仕事を片付けるので、これで」
軽く会釈をして梅井は応接室を出ようとする。
「あの、梅井さん」
「はい?」
「ありがとう、ございます」
そう言った佐野の目は、来た時よりもずっとまっすぐで、揺れなくなっていた。