佐藤悠斗は新居に引っ越してきたばかりの25歳だ。
推理小説を読むのが趣味で、シャーロック・ホームズの鋭い観察眼に憧れる冴えない男だ。
そして推理力は遠く及ばないが、人付き合いが下手という点は一致している。
昔、バイト先で「賢くても愛想悪いとモテないよ」と笑われたことがあり、その言葉は今でも心の奥に鋭いナイフのように刺さっている。
引っ越しの荷物を整理しながら、悠斗は自分に言い聞かせていた。
「この新天地での新生活は、自分を変えるチャンスだ。ホームズみたいに、現状を分析してスマートに立ち回るんだ」と。
荷解きを終えた夕方、悠斗は少し緊張しながら大家さんの部屋に向かうことにした。
ドアをノックする前に、深呼吸して頭を整理する癖が発動する。
大家さんはどんな人物だろう?
アパートの管理状況から推測するに、几帳面で穏やかなタイプか?
いや、確かアパートは築30年ほどだ。それなら昔気質の厳しい可能性もある。
初対面の挨拶は第一印象を決める鍵だ。
ここで失敗したら、新生活の幕開けに暗い影が差す。
推理小説なら、主人公は相手の些細な仕草や持ち物からその人性格を読み取る。
悠斗もそのつもりで、目を凝らして観察する準備を整えた。
練習した挨拶を頭の中で反芻しつつ、意を決してドアをノックした。
出てきたのは、白髪がちらほら混じった髪をゆるくまとめた女性だった。
50代くらいだろうか。
花柄のエプロンが似合う、穏やかな雰囲気の山田美津子さんだ。
「はじめまして、佐藤です。今日からお世話になります」
練習した挨拶をなんとか無難にこなすと、美津子さんはにこやかに「ようこそ、いらっしゃい」と返してくれた。
ひとまず第一印象は悪くなさそうだ。
「せっかくだからお茶でも飲んでいきなさい」
部屋に招かれ、ソファに座ると自然と雑談が始まった。美津子さんの部屋には小さな観葉植物がいくつも並び、棚には家族写真が整然と並んでいる。四隅に置かれた古い置時計は、すべて同じ時刻を刻んでいた。
「このアパート、築30年になるのよ。昔は夫と一緒に住み始めたの」と、美津子さんが話し始める。
夫は現在単身赴任中で、成人した娘が二人いるらしい。
「近所のスーパーはね、野菜が新鮮で助かるの。佐藤くんも行ってみてね」
「はい、ありがとうございます」
そんな何気ないやりとりが続き、ようやく悠斗は肩の力を抜きかけていた。だが、そのタイミングだった。
美津子さんがふいにお茶を淹れ直しながら、口調を変えた。
「そういえば、私、来月誕生日なのよ。もう若くもないけど、まだまだ元気でいられるうちに趣味を楽しまないとね」
言葉は柔らかいが、どこか探るような視線を感じる。悠斗は思わず、彼女の指先に目を向けた。細い指に光る結婚指輪、微かに残る土汚れ、うっすらと浮かぶ手の甲のシミ。
そして次の瞬間、美津子さんが身を乗り出してきた。
「ねえ、佐藤くん。私って、いくつに見える?」
——空気がピンと張り詰めた。
「えっ、そんな急に言われても…」
冷や汗がにじむ。答えを誤れば地雷を踏む。悠斗は直感でそう悟った。
「だって、佐藤くん、ホームズの本が好きなんでしょ?」
「大家の年齢くらい、観察して推理できるわよね?」
その言葉には挑戦者を品定めするような圧が感じられる。
バッグから覗く『シャーロック・ホームズ全集』。見られていたのは自分だった。
「え、えっと…」悠斗は慌てて話題を変えようとする。
「お嬢さんたち、もう社会人なんですよね?」
「ええ。下の子も去年就職したの。子育ても一段落ね」
美津子さんは淡々と答えるが、微かに口角が上がる。余裕の笑みだ。
悠斗の頭が一瞬でフル回転する。
——下の子が22歳前後?母親は若く見積もっても45歳は超えている。
だが、美津子さんの肌にはまだ張りがある。白髪はあるが、姿勢は良い。
「で、いくつ?」
再度の追撃。悠斗は喉が渇き、唾を飲み込む。
(やばい、このままじゃ…)
もう後がない。
美津子さんの目は「答えなさい」と無言で圧をかけてくる。 声は穏やかだが、目が完全に笑っていない。その温和な仮面の裏に隠された狂気はまるでホームズの宿敵モリアーティのようだ。
悠斗の額に汗が滲む。
もっと確かな情報が欲しい。視線をさりげなく部屋の中に走らせたそのとき——
壁際のキャビネットに飾られた家族写真の中で、ひときわ大きな額縁が目に入った。
“祝・50歳”と書かれた金色のバナーが背景に写っている。
ケーキのろうそくは「5」と「0」。その中央で笑う美津子さん。娘たちと並んで映っている。
(これは…!)
写真の端には日付が印刷されていた。“2019.4.14”。
(ということは……今が2025年。あと数週間で56歳になるってことか)
悠斗は喉の奥でごくりと唾を飲んだ。ほぼ確定だ。
でも、何歳と答えるべきか、それが1番の難題だ。
お世辞と思われず、40代という響きを残す。導き出される最適解は…
「で、いくつだと思う?」
——来た。勝負の時だ。
悠斗はゆっくりと呼吸を整え、わざと若く言ってると悟られないように、すこし悩むような表情を作りながら答える。
「……49歳くらい、でしょうか」
美津子さんはぴたりと動きを止めた。
——空気が凍る。
だがすぐに、くすりと笑った。
「えっ、49歳!?実は来月でもう56歳なのよ。嬉しいこと言ってくれるじゃない、佐藤くん!」
ぱっと顔が綻び、場の空気が一気に和らぐ。悠斗は内心でガクンと膝をついた。命拾いした。
「でも、どうして49歳だと思ったの?」
鋭い質問。悠斗は、顔に出そうになる動揺を必死で押し殺した。
「え、いや……お肌のツヤとか、笑顔の印象で」悠斗は心の中で写真の中のケーキとバナー感謝した。
美津子さんは満足そうに頷く。「やっぱり推理好きは違うのね」
その言葉で、悠斗はまるでホームズになったような気分に浸っていた。
「ふっ、初歩的な推理だよ、ワトソンくん。観察と計算があれば、この程度の問題、朝飯前さ」と自画自賛が止まらない。
すると、美津子さんの背後から、ふわふわの毛並みの小型犬がトコトコと現れた。
白と茶色が混じったポメラニアンで、愛らしい顔がこちらを見上げている。
美津子さんは犬を抱き上げて、にっこり笑った。
「ねえ、この子、何歳だと思う?」
悠斗の頭がまたフル回転を始めた瞬間だった。