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第2話 トイレの戦略家


# シャーロック・NEWHOMEズ:2章 〜トイレの戦略家〜 


佐藤悠斗、25歳。雑誌編集者として働く冴えない青年で『シャーロックホームズ』を敬愛している。前回、大家の山田美津子さんとの初対面で彼女の年齢を「49歳」と推測して好感度を稼いだ悠斗だが(実際は56歳)、「スマートに立ち回る」という目標はまだ道半ばだった。


 アイリーンとの取材


この日は重要な取材日。地元の公民館で開催される「地域交流イベント」を、先輩の相川愛理(28歳)と二人で取材する予定だ。


愛理は編集部で「できる女」として一目置かれる存在。どんな相手でも自然に会話を引き出す話術は、新人の悠斗にとって眩しいほどだった。編集会議では鋭い意見を述べながらも、新人には優しく接する先輩だ。


悠斗は彼女のことを「相川さん」と呼ぶが、心の中では密かに「アイリーン」と呼んでいた。『シャーロック・ホームズ』の物語に登場するアイリーン・アドラーにちなんで、彼女の知性と魅力に敬意を込めた二つ名だ。もちろん、本人にバレたら死ぬほど恥ずかしいので、墓まで持っていく秘密である。


「佐藤君、資料は頭に入ってる?」


デスクで愛理が冷静な声で尋ねた。手元には完璧に整理されたファイルが見える。タブには色分けされたインデックスまで付いている。対照的に悠斗のデスクは資料の山だ。


「はい!商工会主催で、昨年より規模拡大、模擬店は15から23店舗に増加、来場者予想は約500人です」


悠斗は昨夜遅くまで資料を読み込んでいた。『アイリーンにダメな後輩と思われたくなかった』のだ。情報を暗記し、手帳にもびっしりとメモしていた。


愛理は表情を変えずに軽く頷いた。「…流石メモ魔、カメラ忘れずに」

それだけ言うと、かすかに口角が上がるだけだった


愛理は常に一定の距離を保って接してくる。感情をほとんど表に出さないが、時折見せる微かな承認のサインには説得力があると思っていた。


愛理がスマホを確認する。「主催者からメール。開始時間が30分早まったわ。急ぐわよ」


愛理はスマホをしまうと、無駄のない動きでカバンを持ち上げ立ち上がった。流れるような動作が洗練されている。


悠斗は心の中で感嘆する。『さすがアイリーン、まるで嵐の中でも揺らがないベーカー街の灯台だ。』


 予期せぬ尿意


公民館に到着すると、会場は予想以上に賑わっていた。地元の農産物を売る露店、手作り雑貨、子供向けゲームコーナーと、色とりどりの店が所狭しと並んでいる。愛理は効率的に主催者に挨拶に行き、悠斗はカメラを構えて会場を撮影した。


「佐藤君、このあとのインタビューは私が行う。場の雰囲気を捉える写真を頼むわ」


愛理は短く指示を出し、人混みに迷いなく進んでいった。その後ろ姿には揺るぎない雰囲気が漂い、悠斗は一瞬目を奪われた。


悠斗は彼女の後ろ姿を見ながら、妄想にふけった。目の前に広がるのは人混みではなく、霧深いロンドンの街並み。アイリーンが事件の鍵を握る人物に会いに行き、自分は名探偵の相棒として証拠を集める――。


『今日の取材で素晴らしい写真を撮って、アイリーンを驚かせるんだ!』


悠斗は意気込んでカメラを構えた。そして会場で提供された無料のコーヒーを緊張をほぐすために飲み続けた。


取材は順調に進み、愛理のインタビューが始まった。しかし、そんな夢見心地の瞬間に突然の危機が訪れた。コーヒーを飲み過ぎたせいで、今、猛烈な尿意に襲われてしまったのだ。


「まずい、このタイミングで」 


額に汗が滲む。膀胱からの圧力が徐々に強くなっていく。


愛理はインタビュー真っ最中で、悠斗のカメラが必要な場面だ。地元の老舗商店主が語る情熱的な言葉を、愛理は熱心にメモしている。クライマックスだ。


『ホームズなら膀胱の限界を計算して最適なタイミングで…』


尿意はそんな悠斗の空想を容赦なくかき消した。10秒、20秒…時間の感覚が歪み始める。


頭の中で警告音が鳴り響く。いますぐトイレに行かなければ、アイリーンの信頼を失うどころか、もっと悲惨な事態になりかねない。


「あの、すいません、ちょっとトイレ…」


愛理が振り返る。その眼差しは冷ややかだった。


「今?」


愛理の声音に変化はないが、眉間にわずかに寄ったシワが不快感を物語っていた。ほんの一瞬だったが、その微妙な表情変化を悠斗は見逃さなかった。


「急いで戻ってきて」


愛理はすぐに無表情に戻り、簡潔に言った。その冷静さの裏に微かな失望を感じた悠斗は、『アイリーンを失望させるわけにはいかない!』と焦りながら返事した。


「はい、すぐ戻ります!」


そそくさとカメラを握りしめ、悠斗は会場を後にした。心臓がバクバクと鳴り、ホームズの冷静さとは程遠い自分が情けなかった。


## 男子トイレの暗黙のルール


公民館のトイレは、イベント日とあって混雑していた。悠斗が到着したとき、男子トイレの前には短い列ができていた。待っている間も、膀胱との戦いは続く。


数名の集団がトイレから出て行き、やっと悠斗の番が来た。トイレのドアを開けると、使用済みの紙タオルが床に散らばり、蛇口からは滴る水の音が聞こえる。子供が手を洗うために蛇口を占領し、父親らしき男性が「早くしろよ」と急かす声。明らかに回転率の高いトイレだ。


小便器エリアを見ると、壁に沿って5つの小便器が並んでいる。入口から順に1番、2番、3番、4番、5番。このとき、幸い、丁度全ての便器が空いた瞬間だった。


「今がチャンスだ!」


焦りに任せて前進しようとした瞬間、悠斗の脳内でホームズが低く渋い声で囁いた。


《ワトソン、ここは戦場だ。》


「えっ、戦場…ですか?」


悠斗の足が一瞬止まる。頭の中の空想上のホームズが、パイプを咥えながら淡々と語りかけてくる。


《状況をよく見ろ。これは"囚人のジレンマ"だ。皆が最適解を求めた結果、最悪の展開になることもある》


その声にハッとする。

男子トイレには暗黙のルールが存在する。


それは"隣り合ってはいけない"ということだ。トイレ中は無防備な状態であり、パーソナルスペースを守るのが紳士なマナーだ。


『……これは、思考ゲームだ。心理戦なんだ……!』


悠斗はごくりと唾を飲み込み、改めて目の前の便器たちに向き直った。


『慌てて決めるな、しかし急げ』という矛盾した命題に脳が沸騰する。


「一瞬だけでいい、考えるんだ…」


## 小便器選びの戦略


「急ぎつつも慎重に」—この矛盾した状態で、悠斗は小便器エリアを見渡す。


悠斗の脳内で即座にシミュレーションが始まる。眼前に広がる5つの小便器は、ただの陶器ではなく、戦略的な選択肢だ。


1番と5番(端)は安心感はあるが、窮屈。

3番(真ん中)は論外。両サイドに挟まれる危険地帯。

2番か4番——ここが狙い目だが…


悠斗の視線がトイレ全体を素早くスキャンする。ふと、視界に大便器の個室が映る。


確かに個室に入れば安心だが、出るタイミングを失って下手に長引けば「うんこ認定」されかねない。愛理を待たせるわけにはいかない、なにより悠斗のプライドがそれを許さない。——却下だ。


『勝負は小便器だ。ホームズならそう判断する』


タイムリミットは刻一刻と迫っていた。膀胱はもうアラートレッドゾーン。愛理はインタビュー中、カメラは自分持ち、逃げ道はない。


過去の経験から、壁側に近い4番目を「最も落ち着く安全なポジション」だと確信している悠斗。入口からの視線も遮られ、かつ壁があることで心理的な安心感がある。


『オレのホームグラウンドは4番だ!』


 予想外の展開


悠斗が4番に近づこうとした瞬間、別の男がトイレに入ってきた。40代くらいの作業着姿の男性だ。汚れた作業用手袋をポケットにしまいながら、キョロキョロと周囲を見回している。眼光が鋭く、迷いなく小便器に向かう雰囲気が漂う。


『まずい、ライバルだ』


悠斗は警戒心から一瞬出遅れる。頭の中で改めて戦略を組み立て直そうとする瞬間、作業着の男が迷いなく「2番」に立った。


作業着の男は何も考えていないように見える。ただ空いている便器に立っただけだ。しかし悠斗の頭の中では、複雑な心理戦が展開されていた。


『…2番? 悪くないが、リスクは高いぞ…』


作業着の男は黙々とファスナーを下ろし、用を足し始める。彼にとっては日常の何気ない行為だが、悠斗にとっては緊張する駆け引きの瞬間だった。


『1番は入口に最も近い。高齢者や子連れの"すぐ済ませたい派"が直行しやすい上、無意識に選ばれる"初手"だ』


悠斗は眉間にシワを寄せて分析を続ける。


『つまり、利用率が高い=次に来るのは1番の可能性が高い…そしてそのとき、2番は…ゲームオーバーだ!作業男よ…貴様、まさかそれを計算してないのか…!』


作業着の男は悠斗の複雑な思考など知る由もなく、ただ淡々と用を足している。そのリラックスした背中に、悠斗は妙な敵意を感じていた。


悠斗は希望通りの4番に滑り込む。小便器の前に立ち、ファスナーに手をかける。


『作業着の男が2番派だったおかげで助かったな』と安堵し、ファスナーを下ろそうとしたその瞬間、トイレのドアが再び開いた。


鈍い音を立てて開くドア。悠斗の指がファスナーの上で一瞬固まる。


## 老人の登場


白髪まじりの老人、70代後半か。右手に杖をつき、ゆっくりだが堂々とした足取りで入ってくる。子供の声も蛇口の水音も一瞬遠のき、トイレ全体に緊迫感が漂う…と、少なくとも悠斗にはそう感じられた。


作業着男がチラリと老人を窺い、悠斗も思わず身構えた。まるで戦場に新たな挑戦者が現れたかのようだ。


『この状況で一体どこに来る気だ…?』


悠斗の頭がフル回転する。

2番(作業着男)と4番(自分)が埋まっている。3番は両側に挟まれる最悪のポジションで論外だ。選択肢は1番か5番しかない。老人は杖をついており、脚が悪いはず。移動距離を最小限にするならーー


『入口に最も近い1番が最適解だ』


老人はゆっくりと小便器エリアに向かって歩いてくる。杖を突く音がトイレに響く。カツン、カツン、カツン…


老人は迷いなく3番に立った。


「3番!? マジか!?」


悠斗の指がファスナーの上で再び固まる。頭がフリーズする。脳内のホームズが《これは予想外だ、ワトソン》と呟く。


3番は、この状況において最悪のポジションだ。トイレの暗黙のルールでは、隣を避けるのが鉄則。


『…なぜ3番だ。空いてる1と5を無視して、あえて地雷を踏みにきたのか?』


悠斗の「1番を選ぶ」という推理は、見事に外れた。これは通常の論理では説明できない。頭の中でホームズが眉をひそめている。


 敗北と教訓


老人は悠斗の動揺など気にもせず、堂々と用を足し始める。その姿勢には一切の迷いや恥じらいがない。便器の前に立ち、両手を腰に当て、軽く息を吐きながらリラックスしている。あたかも「ここが俺のテリトリーだ」と言わんばかりの貫禄だ。


悠斗は隣に立つ老人の存在感に圧倒され、一瞬、尿意すら忘れるほどだった。老人の横顔を観察する。深いシワ、年季の入った手の甲、少し曲がった背筋。多くの人生経験を重ねてきた風格がある。


作業着男も動揺しているように見えた。彼は老人の方をチラリと見てから、少し体を斜めにして距離を取ろうとしている。


悠斗と作業着男の視線が一瞬交錯する。悠斗は互いに『何だこの爺さん…』と無言で共感していると感じた。さながら戦場で敵に奇襲された二人の兵士のようだ。その一方で、老人は何事もなかったかのように平然としている。


緊張感が漂う小便器の戦場で、老人だけが悠然と振る舞っている。「お前たちの決めたルールなど通用せん」と言わんばかりの威厳に、悠斗は無言の敗北を噛みしめる。


老人が気にしていない様子を見て、悠斗は恥ずかしささえ感じ始めた。『俺だけが深刻に考えすぎているのか?』という疑問が脳裏をよぎる。


悠斗は必死にプライバシーを守ろうと体を少し斜めにし、作業着男も同様だ。悠斗は、互いに無言の連帯感から『俺たちはこの戦場を共に生き残るのだ』という奇妙な絆が生まれた気がした。


そんな思いを知ってか知らずか、作業着男は素早く用を足し、手を洗わずに戦場から撤退した。一方、悠斗と老人は依然として隣同士だ。悠斗の頭の中で、ホームズの声がこだまする。


《ワトソン、想定外の侵入者が全てを覆すことがある》


老人は満足げに微笑みながらトイレを後にした。その背中には長年の経験が刻んだ「勝者」の余裕が漂っていた。悠斗は不思議と敗北感の中に、何か大切なことを教わったような感覚を覚えた。


『単純なルールじゃ割り切れない…人生の複雑さってやつか…』


## アイリーンとの再会


悠斗は老人が出ていった後、ようやく用を足し終え、急いで手を洗い、公民館の喧騒に戻ったが、深い敗北感に苛まれていた。


『俺の4番…完璧なポジションだったのに…あの老人には敵わなかった…』


普通の人から見れば、ただのトイレタイムでしかなかったが、悠斗にとっては人生の教訓を学ぶ場となった。老人は何も考えずに自然体で行動しただけだろうが、悠斗の中では一大事件だった。


悠斗が取材中の愛理のもとへ戻ると、彼女が感情を抑えた声で言った。


「戻ったわね。次のインデビューまで時間ないよ」


愛理は目線を落としたまま、淡々と手帳にメモを取り続けていた。


「え、いや、すいません…混んでて…」


悠斗は言い訳をするが、自分の声が小さくなっているのを感じた。まず老人の3番奇襲に敗れ、次に「アイリーン」の信頼を裏切ってしまった。愛理の言葉は単なる事実の指摘だったが、今の悠斗には『お前はいつも遅い』と言われているように感じられた。


「写真は問題なく撮れている?しっかり記録しておいて」


愛理がそっけなく言った。無駄のない指示だったが、悠斗の過敏な心は、その言葉に『お前は信用できない』というメッセージを感じ取り、さらに落ち込んだ。


「は、はい、もちろんです!」


悠斗はどうにか元気よく返事するが、内心では老人との心理戦の敗北が尾を引いていた。カメラを構え直し、愛理のインタビューを撮影し始める。表情は真剣そのものだが、頭の中では3番の小便器に堂々と立つ老人の姿がちらついていた。


 意外な選択


取材を終え、公民館の喧騒も落ち着いた頃、愛理が悠斗に声をかけた。


「佐藤君、掲載写真の候補だけど」


カメラの液晶画面を見せながら、愛理は冷静に続けた。「会場全景、模擬店の様子、インタビューのカット...4番目が最適だと思うわ」


愛理は写真を次々とスライドし、編集眼で厳選したものを指さした。4番目の写真は、インタビュー対象の商店主が話している様子を捉えたもので、構図も明るさも申し分ない。


「4番...」


その言葉を聞いた瞬間、悠斗の脳裏に3番の小便器に堂々と立つ老人の姿が浮かんだ。『4番が正解とは限らない』という気づきが、突然彼の中に生まれた。


「いや、真ん中のやつにしましょう」


思わず口をついて出た言葉に、悠斗自身が驚いた。いつもなら論理的に考え抜くはずなのに、今回は直感で選んでいた。3番目の写真は、会場の熱気と人々の笑顔が自然に収まったショットだった。技術的には4番目に劣るかもしれないが、なぜか心を惹かれた。


愛理はわずかに眉を上げ、「理由は?」と簡潔に尋ねた。


悠斗の顔をじっと見る愛理の視線には、感情は見えないが、明らかな興味が宿っていた。普段は彼女の意見に従うことが多い後輩が、突然自分の意見を持ったことに、わずかな反応を示している。


「なんか...しっくりくるというか...」悠斗は誤魔化すように微笑んだ。言葉で説明するのは難しい。老人から学んだ教訓とも言えない。ただ、「常に論理的な最適解を求める」という固定観念から少し自由になった感覚だった。


「論理派の佐藤君が直感で選ぶとは…」そう言いながら、愛理は小さく頷いた。「いいね、そういうの意外と嫌いじゃない。今回は任せてみるよ」


愛理の言葉に、悠斗は少し誇らしい気分になった。「あのアイリーン」の論理的選択ではなく、自分の直感的な判断が採用されたのだ。


愛理は手際よく悠斗のカメラを受け取り、写真をチェックし始めた。


「撮影データをまとめて、月曜の会議で提出して」


愛理は無駄なく動作しながら言った。取材は予定より早く終わり、外はまだ明るかった。公民館を出ると、夕暮れ前の柔らかな光が辺りを包み込む。


「お疲れ様」


愛理がシンプルに言い、悠斗は「お疲れ様です」と返した。二人はいつものように駅へ向かって歩き始めた。


「今日の選択は意外だった」と愛理が静かに言った。「普段なら完璧な構図の4番を選ぶと思っていたわ」


「あ、はい…」悠斗は少し照れながら答えた。「なんというか、今日はちょっと気分を変えてみようかなって」



 告白と教訓


帰り道、愛理から写真選びの理由を細かく問われ、悠斗は仕方なく語った。トイレでの心理戦、小便器選びの戦略、そして老人との「対決」について。


話し終えると、愛理は一瞬無表情だった。そして、突然、プッと吹き出し、普段の冷静さが崩れて大笑いした。


「佐藤君、そんなことで頭いっぱいだったの?」愛理は抑えきれない笑いを漏らした。その瞬間、普段は決して見せない表情が溢れ出す。


悠斗は一瞬驚いた。これまで編集会議で鋭い意見を述べる時、後輩に指示を出す時、どんな場面でも感情を抑えて接していた愛理が、今、心から楽しそうに笑っている。


「ごめんなさい」愛理は笑いを少し抑えながら言った。「実は私も細かいこと考えすぎる時があって…」彼女は少し言葉を選ぶように間を置き、「学生時代は『ロボット』なんて呼ばれてたの。だから、あなたの話がすごく…身近に感じられて」と少し照れたように髪を耳にかけた。


「でも、それで写真の選び方が変わったって興味深いわね」


「は、はい…」悠斗は顔を赤らめながら答えた。「なんか、あの老人に、ルールに囚われすぎるなって教えられた気がして」


彼女はいつもの表情にもどりながらも、親しみを感じる口調で「それ、取材の本質かもしれないわね」と言った。


「型にはまった見方じゃなくて、直感が捉えた一瞬の輝きを大事にする。良い写真にはそれが必要」


悠斗は驚いた。単なる恥ずかしい失敗談のつもりが、意外な共感を得たのだ。


 新たな視点


「月曜の編集会議では3番の写真を使う」愛理がキッパリと言った。普段の冷静さを取り戻したが、その声には微かな温かみがあった。「確かにイベントの雰囲気を一番捉えているのはそれね」


「本当ですか?」


「ええ。佐藤君の言う『しっくりくる』感覚、理解できるわ」愛理はわずかに表情を和らげた。


駅に着くと、電車の時間が近づいていた。愛理は改札へ向かいながら言った。


「佐藤君、これからもその視点で撮影を続けて」と愛理は言い、歩みを止めた。


彼女は少し迷うような仕草を見せ「でも、次はトイレに長居しすぎないように」そう言って、彼女は決心したように一歩近づき、ポンと悠斗の肩に手を置いた。


普段、接触を避け、ユーモアなんて言わない「アイリーン」からの意外なスキンシップに、心臓が早鐘を打った。「は、はい!」悠斗は力強く返事した。


愛理が電車に乗り込む姿を見送りながら、悠斗はホームズの声を聞く《常識に囚われず、観察し、時には直感を信じろ》と。


 帰路での予感


帰りの電車。悠斗は窓に映る自分の姿を見つめながら、今日の出来事を思い返していた。


「トイレでは完敗したけど、おかげで写真選びはうまくいったな...それに、あの冷静なアイリーンが笑ってくれた」


小さく微笑んだ瞬間、電車が駅に停まった。開くドア。そして——


カツン、カツン。杖の音が車内に響く。


「まさか...」


視界の端に、見覚えのある足元が映る。そのまま迷いなく、老人は悠斗の隣に腰を下ろした。空いている他の席には目もくれず、あまりにも自然に。


悠斗は息を呑んだ。


あの時と同じだ。ルールも常識も通じない"侵入者"が、また隣に来た。


横顔を見ないようにしながら、チラ、と視線を送る。


老人の口角がニヤリと上がる。トイレの戦場でみせた、全てを見透かすような、あるいは楽しんでいるような、勝者の余裕がそこにはあった。


悠斗の頭の中では、またしても警報が鳴っていた。

『だけど、今度は負けない……かもしれない』


電車がガタンと揺れ、まるで新たな謎の幕開けを告げるように次の駅へ走り出した。

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