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第3話 カゴの中の自意識


カレーと変装

佐藤悠斗、25歳。引っ越してきて数週間。大家さんの山田美津子さんとの最初の挨拶で、ホームズ好きを見抜かれ、年齢当てという奇妙な推理ゲームに巻き込まれたのは記憶に新しい。あの時は「49歳」と答えてなんとか場を和ませることができたが、内心は冷や汗ものだった。それ以来、美津子さんの前では気が抜けない。


そんな美津子さんに先日、「佐藤くん、最近ちゃんと自炊してる?栄養バランス考えないとダメよ。今度カレーでも作ってみたら?」と言われたのだ。美津子さんの言うことには何故か従いたくなる。悠斗は、早速最寄りのスーパーへと向かっていた。

カゴを手に、悠斗は慎重に店内を見て回る。目的はカレーの材料だ。玉ねぎ、人参、じゃがいも、そしてカレールー。しかし、どうも気が進まない。

カレールーをカゴに入れた瞬間に周囲から「今日はカレーか」と決めつけられるあの感じが、どうにも苦手だった。まるで思考を読まれたかのような、プライベートに踏み込まれたかのような、あの微妙な恥ずかしさ。カレールを手に取る時もどこかぎこちない動きになってしまう。

何か策はないものか…そこで悠斗は閃く。推理小説で、ホームズが変装して捜査するように、カレーを「変装」させるのだ。

「さてと、どうしようかな。今日の夕飯は...」

独り言を言ってまだカレーで確定してないぞというアピールをする。次に手に取ったのは牛肉だ。

「牛肉、と。これは...肉じゃが、の可能性もあるからな。ふむ。」

わざとらしく呟きながら、じゃがいもを手に取る。これも肉じゃがの材料と共通している。完璧だ。さらに、別の棚でシチュールーも発見した。

「よし、これでシチューの可能性も加わった。これで第三者からは、今日カレーを食べるヤツではない、と思わせることができるはずだ。」

心の中で小さくガッツポーズをする悠斗。カレールー、牛肉、じゃがいも、そしてシチュールーをカゴに入れた。

店員さんの視線が気になる。すれ違う他のお客さんのカゴもちらりと見てしまう。彼らは何を食べるのだろう?パスタソース?それともお惣菜か?彼らも「今日の夕飯、この人にバレたら恥ずかしい」なんて思っていないのだろうか?悠斗は、自分と同じような「夕飯バレしたくない民」がこのスーパーにどれくらいいるのか、無性に知りたくなった。これも一種の推理かもしれない。そんなこと考えながらレジに並んでいると、後ろに誰かが来た気配がした。視線を感じる。気のせいだろうか?いや、きっとカゴの中身を見られているに違いない。「カレー?シチュー?肉じゃが?一体何を作るんだ、こいつ?」と思われているに違いない。

緊張で背筋がピンと伸びる。カゴの中のカレールーが、やけに存在感を放っているように見える。頼むから、肉じゃがの材料もシチューの材料も、もっと自己主張してくれ!

その時、後ろから控えめな声が聞こえた。

「あら、佐藤くん。今日はお買い物ですか?」

心臓が跳ね上がった。美津子さんだ。なぜここに?そして、なぜこのタイミングで!

「あ、美津子さん。こんにちは。」

努めて平静を装い、振り返る。美津子さんはいつもの穏やかな笑顔で、悠斗のカゴを覗き込んだ。

「まあ、いろいろ買ってますね。あら、カレールー。今日カレー?」

美津子さんのまっすぐな質問に、悠斗の顔が一気に熱くなる。まさに、最も聞かれたくない質問だった。美津子さんに、一瞬にして「変装」が見抜かれてしまった。

「え、あ、はい、まあ、その...」

言葉がしどろもどろになる。肉じゃがもシチューも買っている、という事実を伝えるべきか?いや、それはそれで言い訳がましいか?

美津子さんは、そんな悠斗の様子を見て、さらに笑顔になった。

「ふふ。美味しくできるといいですね。玉ねぎはね、あめ色になるまでじっくり炒めるのがコツなのよ。」

美津子さんにとっては、ただの他愛ない会話なのだろう。しかし悠斗にとっては、自分の裸をみられてるような、なんとも居心地の悪い瞬間だった。

「あ、ありがとうございます。参考にします...」

なんとかそれだけ答えるのが精一杯だった。美津子さんはにこやかに会釈をして、別のレジへと向かっていった。

美津子さんの後ろ姿を見送りながら、悠斗は大きくため息をついた。結局、カレーを作ることがバレてしまった。変装のための肉じゃがもシチューも、全く意味をなさなかった。

「ホームズなら、この状況をどう切り抜けたんだろう...」

レジ袋に詰められたカレールーを見つめながら、悠斗はぼんやりと考えた。少なくとも、カゴの中身だけで今日の夕飯を悟られるようなヘマはしないだろう。

スーパーを出て、自宅への道を歩きながら、悠斗は今日の出来事を反芻した。カレーの材料を買うという些細な行為が、これほどまでに自分の心をざわつかせるとは思ってもみなかった。そして、美津子さんの何気ない一言に、こんなにも動揺する自分も発見した。

明日の夕飯は何にしよう?カレーはもうバレた。次は...。

悠斗は、またしても「夕飯を悟られないための買い物戦略」を密かに練り始めるのだった。


お菓子と密かな自意識

佐藤悠斗、25歳。仕事帰り、つい足はスーパーやコンビニに向かってしまう。今日の狙いは、ちょっとした甘いものだ。個包装のケーキや、見るからに大人向けのチョコレートなどは問題ない。堂々とカゴに入れられる。しかし、悠斗には密かに「買うのが恥ずかしい」と感じる種類のお菓子があった。

それは、カラフルな知育菓子や、キャラクターの形をしたビスケット、動物のイラストが描かれた箱のクッキーなどだ。どれも子供向けであることは明白で、良い年をした成人男性が一人で買うには、なんだか気恥ずかしい。

(これをレジに持っていく俺を、店員さんはどう思うだろう?「うわ、こいつ、こんな子供っぽいもん食うんだ」って思われてないか?)

悠斗の「推理好き」の気質は、こんな時にも発動する。相手の視線や態度から、自分の内面を読み取ろうとしてしまうのだ。特に若い女性店員の前では、その恥ずかしさが増幅される気がする。

その日、悠斗は誘惑に負けて、色とりどりのカラフルな知育菓子の箱を手に取ってしまった。あの独特の混ぜたり固めたりする工程と、完成した時の妙な達成感がたまに無性に恋しくなるのだ。しかし、手に取った瞬間から、周囲の視線が突き刺さるような気がする。

《いや、誰も俺のことなんて見てない。これは自意識過剰だ。落ち着け、ワトソン》

心の中でホームズの声を再生し、自分を落ち着かせようとするが、効果は薄い。カラフルな知育菓子の箱をカゴに入れるのにも躊躇してしまう。まるで爆弾を仕掛けるスパイのような気分だ。


知育菓子の箱をカゴの底に隠し、日用品でカモフラージュ。「これでバレない…はず」。だが、レジで店員がそれを掘り起こす瞬間を想像し、悠斗の顔が熱くなる。

悠斗は考える。もし自分が30代、40代、あるいは美津子さんのような50代になったら、このお菓子を買う時の羞恥心はどうなるのだろう?年齢を重ねれば、自然とこういう子供っぽいものは卒業できるのだろうか?それとも、むしろ開き直って買えるようになるのか?

いや、きっとその頃には別のハードルが生まれるに違いない。例えば、職場の同僚や、あるいは将来もし結婚して子供ができたりしたら...。

(「これ?ああ、これは子供のためにね!」って、さりげなくアピールするのか?いや、待てよ、逆に不自然か?いかにも「子供のために買ってますよ」感が出過ぎると、それはそれで怪しまれる。ホームズなら、どうやってこの状況を乗り切る?)

理想は、まるで当然のように、あるいは仕事で必要だから買っているかのように振る舞うことだ。例えば、「この知育菓子の構造を編集部の企画で研究する必要があって」「このクッキーの動物の形が、新しいデザインの参考になるんだ」などと、心の中で言い訳を組み立てる。

レジに並んでいると、前に並んでいる小さな子供がお母さんにねだって、悠斗が手にしているのと同じカラフルな知育菓子をカゴに入れていた。その親子の自然な様子を見て、悠斗はさらに気恥ずかしくなる。そうだ、本来このお菓子は、子供が親にねだって買ってもらうものなのだ。

別のレジに並んでいる同年代くらいの女性、カゴには高級チョコとワイン。「エレガントな晩酌か」と推理しつつ、悠斗は自分の知育菓子を握り潰しそうになる。「俺のカゴだけ、なぜこんなに子供っぽいんだ…」

自分の番になり、カゴの中身がベルトコンベアに乗せられていく。日用品、そして...カラフルな知育菓子。店員さんは若い女性だった。悠斗は努めて無関心を装う。店員さんの表情を読み取ろうとしてはならない。『今だけは出てこないでくれホームズ』と祈る。

無。ひたすら無になるのだ。


会計を済ませ、袋を手にスーパーを出る。カレーも知育菓子も、結局バレた(気がする)。「ホームズなら、こんなことで心を乱さない。堂々と振る舞うはずだ」。帰路で悠斗は考える。なぜ、こんな小さな買い物で心がざわつくのか。カレーがバレるのも、子供っぽいお菓子を買うのも、全部「他人にどう見られるか」の自意識のせいだ。

ふと、ホームズの言葉が脳裏に浮かぶ。《無駄なものを削ぎ落とせ。真実だけが残る》悠斗は苦笑する。「真実は、俺がカレーと知育菓子が好きってことか。バレたって、別にいいよな」。袋を軽く振り、夕暮れの道を歩く。次は堂々とカゴに入れよう。そんな小さな決意が、胸に芽生えた。

その夜、悠斗がカレーを煮込みながら知育菓子を組み立てていると、インターホンが鳴った。ドアを開けると、美津子さんがニコニコ立っている。「佐藤くん、カレーのいい匂いね!ついでに、これ、娘が昔好きだったお菓子。食べる?」差し出されたのは、なんと知育菓子の別バージョン。悠斗は赤面しつつ、笑った。「…いただきます!」

「ふっ、初歩的なことだ、ワトソンくん」と心の中で呟きつつ、悠斗は美津子さんと共に知育菓子を広げた。自分の自意識なんて、誰も気にしてない。この小さな謎解きを、ホームズもきっと笑ってくれるだろう。




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