幸いなことに、学校側は晴翔の申し出を許可してくれた。この異常事態の中、生徒の不安を和らげることが優先されたのだろう。
午後の授業中、晴翔は天音の隣の空き席に座り、静かに見守っていた。姉は普段通りに授業を受け、ノートを取り、時折友人と小声で話し合う。パッと見れば、いつもの天音と変わりない。
だが、注意深く観察すると、彼女の周りの空気が少し歪んでいるように見える。まるで熱で揺らめく空気のように。他の生徒たちは気づいていないようだが、晴翔には見えた。
(叶絵の言ってたこと、本当なんだな...)
晴翔のポケットには、叶絵から渡された
授業が終わると、天音と晴翔は一緒に下校した。校門を出たところで、美羽が走ってきた。
「二人とも、待ってー!」
「美羽ちゃん」
「一緒に帰りましょう!」
三人で歩き始めると、美羽が興味深そうに尋ねた。
「朝霧くん、どうして天音先輩のクラスにいたんですか?」
「ああ、ちょっと姉の様子が心配でね。特別に許可をもらったんだ」
「そうなんだ...確かに、先輩昨日具合悪そうでしたもんね」
美羽は天音の顔をじっと見た。
「でも今日は元気そうですね! 良かった!」
「ありがとう」
天音は微笑んだ。その笑顔は純粋で優しく、まるで神々しささえ感じられる。
「あ...」
美羽が突然足を止めた。
「どうしたの?」
「今、先輩の周り...なんか、光ってる...?」
晴翔と天音は顔を見合わせた。美羽にも見えるようになったのか。
「え? 何のこと?」
天音が平静を装う。
「いや...気のせいかな」
美羽は首を傾げた。
「なんか一瞬、先輩の周りがキラキラしてるように見えたんですけど...疲れてるのかな」
「そうかもね。みんな疲れてるよ、この状況で」
晴翔が会話を流そうとする。
「そうかも! じゃあ、今日はちゃんと休みます!」
美羽は元気に言った。
「あ、私はここで曲がります。また明日ね!」
美羽が別れ道へと向かう。姉弟は気が抜けたように立ち尽くした。
「見えちゃったんだね...美羽ちゃんにも」
天音が小さな声で言った。
「うん...でも、気のせいだと思ってくれたから良かった」
「このままじゃ...どんどん周りに気づかれちゃう」
晴翔は姉の手を握った。
「大丈夫だよ。俺がついてるから」
「うん...」
二人は黙って歩き始めた。夕暮れの空が、虹色の
「綺麗...」
天音が空を見上げた。
「そうだね」
「私のせいで、空がこうなっちゃったんだよね...」
「でも、美羽も言ってたじゃない。『綺麗』だって」
「そうだけど...」
「何でも悪いことばかりじゃないよ。お姉ちゃんの力が、美しいものを生み出すこともあるんだ」
天音は少し表情を明るくした。
「そう、かな...」
「うん、きっとそうだよ」
二人が歩いていると、突然、暗い路地から黒い影が現れた。
「!」
晴翔は反射的に天音の前に立った。
影からゆっくりと現れたのは、黒いスーツを着た男だった。細身で小柄、無表情な顔立ちが印象的だ。
「
冷たい声が、夕暮れの空気を切り裂いた。
「君は...誰だ?」
晴翔が問いかける。
男は答えず、右手を上げた。その手には小さな
「排除対象、確認」
機械的な口調で男が言った瞬間、晴翔の中の何かが切り替わった。これは危険だと直感的に理解した。
「逃げるぞ、お姉ちゃん!」
晴翔は天音の手を引いて走り出した。男も即座に追いかけてくる。
「だめだ...速い!」
男の足音が迫ってくる。このままでは追いつかれる。
「晴翔...」
走りながら、天音の声が震えていた。
「私、どうすれば...」
「力を使うな!」
晴翔は必死に叫んだ。
「でも...」
「大丈夫だ、俺がなんとかする!」
しかし、その言葉とは裏腹に、男との距離は縮まっていた。あと数秒で追いつかれる。
「晴翔!」
天音の叫び声と同時に、晴翔は振り返った。男が飛びかかってくる。避ける時間はない。
「くっ...!」
晴翔は目を閉じた。しかし、予想された衝撃は来なかった。
「え...?」
目を開けると、男が宙に浮いていた。いや、正確には空中で動きを止められていた。
「なんだ...?」
晴翔が驚いていると、別の声が聞こえた。
「危ないところだったな」
振り返ると、そこには
「望月...?」
「早く逃げろ。僕は長くは止められない」
蓮の額から汗が流れている。何か強い力を使っているようだ。
「でも...」
「行け!」
蓮の叫びに、晴翔は決断した。
「お姉ちゃん、行こう!」
二人は全力で走り出した。後ろから蓮の苦しそうな呼吸音が聞こえる。遠くなるにつれ、男の怒声も聞こえ始めた。蓮の力が弱まったのか。
「ここだ!」
晴翔は道を曲がり、人通りの多い大通りへと出た。ここなら安全だろう。
二人は肩で息をしながら、振り返った。追ってくる気配はない。
「あれは...一体...」
天音が震える声で言った。
「多分...叶絵の言ってた『神狩り』の一人だ」
「私を...殺そうとしてた?」
「たぶん...」
晴翔は恐怖で硬直する姉の肩を抱いた。
「大丈夫だよ。もう安全だから」
「でも、あの人...望月くんは...?」
「あいつも何か特殊な力を持ってるんだ。敵じゃないって言ってたのは本当だったみたいだね」
晴翔はポケットの中の抑制装置を握りしめた。使わずに済んで良かった。でも、次は使わざるを得ない状況になるかもしれない。
「家に帰ろう、お姉ちゃん」