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side talk:空模様と柿の実 ~晴翔と天音の約束の木~

本編の舞台である市川市妙典の平穏な日常が始まる前、朝霧天音あさぎりあまねが「神」として力を発揮する約一週間前の、とある休日の出来事である。


 五月のまだ爽やかな風が、朝霧家あさぎりけの庭にそびえる柿の木の葉を優しく揺らしていた。二階の窓からその様子を眺めていた朝霧晴翔あさぎりはるとは、物思いに耽っていた。


「はーるとー、ちょっと来てくれないかなー」


 一階からのんびりとした姉の声が響いてくる。十六歳の少年は窓から離れると、姉の呼び声に応えるように階段を降りた。


 リビングに入ると、朝霧天音あさぎりあまねがソファでぼんやりとテレビを見ていた。十七歳とは思えないほどのんびりとした彼女の姿に、晴翔は思わず苦笑した。


「なに? お姉ちゃん」


「あのね、柿の木の手入れをしようと思って」


 天音は晴翔を見上げながら言った。彼女の褐色かっしょくの瞳には、どこか懐かしさと期待が混じっていた。


「えっ、急に?」


「うん。昨日お父さんが『そろそろ剪定しないと』って言ってたから、わたしたちでやってみようかなって」


 天音はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。いつものようにだらしない格好で、ワンピースの裾がしわくちゃになっている。本当に神になる存在とは思えない、とても普通の女子高生だった。


「今日は両親、出かけてるし」


「まあ、いいけど」晴翔は肩をすくめた。「剪定なんて、やったことないけど」


「大丈夫、大丈夫」天音は軽く手を振った。「Youtubeユーチューブで見たから」


「それは心配だな...」


 晴翔は思わずため息をついた。姉の「Youtubeユーチューブで見た」は、たいてい途中で投げ出すか、とんでもない失敗に終わるパターンだったからだ。


◆◆◆


 二人は庭に出た。五月の陽光が眩しく感じられる。


 庭の中央に立つ柿の木は、朝霧家あさぎりけが代々住むこの家を見守ってきた。晴翔の記憶の中で、この柿の木はいつも特別な存在だった。


「覚えてる?」天音が柿の木の幹に手を当てながら言った。「わたしたちが小さい頃、ここで約束したこと」


 晴翔は柿の木を見上げながら、ぼんやりと過去を思い出した。


「うん...たしか小学生の頃だったよね」


「そう、はると四年生、わたし五年生の時」


 天音は木の根元に腰を下ろした。青い空と緑の葉が織りなす光と影の中で、彼女の姿はまるで絵画のように美しく見えた。


「お姉ちゃんがいじめられてた時だよね」晴翔は静かに言った。


 幼い頃の記憶。天音が学校でいじめられていたこと。それを知りながら、何もできなかった自分の無力さ。すべては柿の木の下での約束から始まった。


「そうそう。はるとが初めて、わたしのために立ち上がってくれた日」


 天音は微笑んだ。それは懐かしさと感謝の表情だった。


「でも実際は何もできなかったじゃん...」晴翔は申し訳なさそうに言った。


「何言ってるの」天音は優しく首を振った。「あの日、はるとがわたしに言ってくれた言葉が、どれだけ支えになったか」


 晴翔は柿の木の幹に目をやった。そこには今でも、かすかに見える傷跡があった。二人が小さな小刀こがたなで刻んだ『ヤクソクの木』という文字。


「はるとがね、『お姉ちゃんが一番すごいよ』って言ってくれたんだよ」


 天音の声は柔らかく、風のように優しかった。


「覚えてる...」晴翔はうなずいた。「『僕がお姉ちゃんを守る』って約束したんだ」


「そうそう!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「それでわたし、すごく勇気が出たんだよ」


◆◆◆


 二人は剪定バサミを手に取り、柿の木に向き合った。


「どこから切ればいいんだろう?」晴翔は首を傾げた。


「えっとね...」天音はスマホを取り出して、急いで動画を探し始めた。「あったあった!まず、枯れた枝から切るんだって」


「ほんとに大丈夫?」


「だいじょーぶ、だいじょーぶ」


 天音の「大丈夫」に、どれだけの信頼性があるのか。晴翔は眉をひそめながらも、姉の言うとおりに手伝い始めた。


 しばらく作業をしていると、天音が突然立ち止まった。


「あ、はると」


「ん?」


「見て、あそこ」


 天音が指差す方向を見ると、柿の木の枝に小さな実がついていた。まだ青く、硬そうな実。


「へえ、もう実がついてるんだ」


「うんうん、でもまだ全然小さいよね」天音は目を細めて言った。「こんな小さな実が、秋には大きな柿になるんだから、すごいよね」


 晴翔は黙って頷いた。心の中で、その言葉が別の意味を持つように感じた。姉もまた、知らない間に大きく成長して...そして神になる運命を背負うことになるのだから。


「...お姉ちゃん」


「なに?」


「この柿の木、ずっと見守っていこうよ」


 晴翔の言葉に、天音は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに温かい笑顔になった。


「もちろん! これはわたしたちの約束の木だもん」


 天音はそう言うと、小さな実に優しく触れた。


「実がなるのって、ちょっと魔法みたいだね」


「魔法?」


「うん。ほら、何もないところから、こうして命が生まれて育つんだよ?」天音は楽しそうに言った。「見えない力が働いてるみたいで、神秘的じゃない?」


 晴翔は空を見上げた。まるで天音の言葉が予言よげんのように思えた。見えない力。神秘。神。


 けれど今はまだ、二人は普通の兄妹だった。


◆◆◆


 作業を終えた二人は、柿の木の下に並んで座った。汗ばんだ額を拭いながら、晴翔は姉を横目で見た。


「お姉ちゃん、この先どうなると思う?」


「え? 柿の実?」


「いや、進路のこと」


 天音は少し考え込むような表情をしたが、すぐに明るい声で答えた。


「うーん、わたしはね...ただ普通に過ごせたらいいなって思う」


「普通か...」


「はるとは?」


 晴翔は空を見上げて言った。


「俺は...お姉ちゃんが笑っていられるなら、それでいい」


 天音は照れたように髪を耳にかけた。


「もう、かっこつけちゃって」


「かっこつけじゃないよ」晴翔は真剣な表情で言った。「ただ...お姉ちゃんが悲しんでるところ、もう見たくないだけ」


 沈黙が二人の間に流れた。それは重たいものではなく、心地よい静けさだった。


「ねえ、はると」天音が静かに言った。「もし...わたしが変わっちゃったら、どうする?」


 その質問が何を意味するのか、晴翔には分からなかった。それでも彼は迷わず答えた。


「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。どんなに変わっても」


 晴翔の言葉に、天音の目に涙が浮かんだ。


「ありがとう...」


 彼女は小さく呟いた。まるでこれから起こる何かを予感しているかのように。


 その時、空で雲が流れ、二人の上に影を落とした。一瞬だけ、天音の瞳が不思議な光を放ったように見えた。しかし晴翔がもう一度見た時には、いつもの姉の優しい目があるだけだった。


「よし! あとは水をあげて終わりにしよう!」


 天音は元気よく立ち上がった。


「ああ」


 晴翔も立ち上がり、姉の後を追った。


 まだ彼らは知らない。一週間後に世界が変わること。天音が神として覚醒すること。そして晴翔が姉と世界を守るために立ち向かうことになることを。


 今はただ、青い空の下、柿の木と二人の約束だけがあった。それは世界が変わっても、決して揺るがない絆の象徴だった。


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