本編の舞台である市川市妙典の平穏な日常が始まる前、
五月のまだ爽やかな風が、
「はーるとー、ちょっと来てくれないかなー」
一階からのんびりとした姉の声が響いてくる。十六歳の少年は窓から離れると、姉の呼び声に応えるように階段を降りた。
リビングに入ると、
「なに? お姉ちゃん」
「あのね、柿の木の手入れをしようと思って」
天音は晴翔を見上げながら言った。彼女の
「えっ、急に?」
「うん。昨日お父さんが『そろそろ剪定しないと』って言ってたから、わたしたちでやってみようかなって」
天音はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。いつものようにだらしない格好で、ワンピースの裾がしわくちゃになっている。本当に神になる存在とは思えない、とても普通の女子高生だった。
「今日は両親、出かけてるし」
「まあ、いいけど」晴翔は肩をすくめた。「剪定なんて、やったことないけど」
「大丈夫、大丈夫」天音は軽く手を振った。「
「それは心配だな...」
晴翔は思わずため息をついた。姉の「
◆◆◆
二人は庭に出た。五月の陽光が眩しく感じられる。
庭の中央に立つ柿の木は、
「覚えてる?」天音が柿の木の幹に手を当てながら言った。「わたしたちが小さい頃、ここで約束したこと」
晴翔は柿の木を見上げながら、ぼんやりと過去を思い出した。
「うん...たしか小学生の頃だったよね」
「そう、はると四年生、わたし五年生の時」
天音は木の根元に腰を下ろした。青い空と緑の葉が織りなす光と影の中で、彼女の姿はまるで絵画のように美しく見えた。
「お姉ちゃんがいじめられてた時だよね」晴翔は静かに言った。
幼い頃の記憶。天音が学校でいじめられていたこと。それを知りながら、何もできなかった自分の無力さ。すべては柿の木の下での約束から始まった。
「そうそう。はるとが初めて、わたしのために立ち上がってくれた日」
天音は微笑んだ。それは懐かしさと感謝の表情だった。
「でも実際は何もできなかったじゃん...」晴翔は申し訳なさそうに言った。
「何言ってるの」天音は優しく首を振った。「あの日、はるとがわたしに言ってくれた言葉が、どれだけ支えになったか」
晴翔は柿の木の幹に目をやった。そこには今でも、かすかに見える傷跡があった。二人が小さな
「はるとがね、『お姉ちゃんが一番すごいよ』って言ってくれたんだよ」
天音の声は柔らかく、風のように優しかった。
「覚えてる...」晴翔はうなずいた。「『僕がお姉ちゃんを守る』って約束したんだ」
「そうそう!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「それでわたし、すごく勇気が出たんだよ」
◆◆◆
二人は剪定バサミを手に取り、柿の木に向き合った。
「どこから切ればいいんだろう?」晴翔は首を傾げた。
「えっとね...」天音はスマホを取り出して、急いで動画を探し始めた。「あったあった!まず、枯れた枝から切るんだって」
「ほんとに大丈夫?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
天音の「大丈夫」に、どれだけの信頼性があるのか。晴翔は眉をひそめながらも、姉の言うとおりに手伝い始めた。
しばらく作業をしていると、天音が突然立ち止まった。
「あ、はると」
「ん?」
「見て、あそこ」
天音が指差す方向を見ると、柿の木の枝に小さな実がついていた。まだ青く、硬そうな実。
「へえ、もう実がついてるんだ」
「うんうん、でもまだ全然小さいよね」天音は目を細めて言った。「こんな小さな実が、秋には大きな柿になるんだから、すごいよね」
晴翔は黙って頷いた。心の中で、その言葉が別の意味を持つように感じた。姉もまた、知らない間に大きく成長して...そして神になる運命を背負うことになるのだから。
「...お姉ちゃん」
「なに?」
「この柿の木、ずっと見守っていこうよ」
晴翔の言葉に、天音は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに温かい笑顔になった。
「もちろん! これはわたしたちの約束の木だもん」
天音はそう言うと、小さな実に優しく触れた。
「実がなるのって、ちょっと魔法みたいだね」
「魔法?」
「うん。ほら、何もないところから、こうして命が生まれて育つんだよ?」天音は楽しそうに言った。「見えない力が働いてるみたいで、神秘的じゃない?」
晴翔は空を見上げた。まるで天音の言葉が
けれど今はまだ、二人は普通の兄妹だった。
◆◆◆
作業を終えた二人は、柿の木の下に並んで座った。汗ばんだ額を拭いながら、晴翔は姉を横目で見た。
「お姉ちゃん、この先どうなると思う?」
「え? 柿の実?」
「いや、進路のこと」
天音は少し考え込むような表情をしたが、すぐに明るい声で答えた。
「うーん、わたしはね...ただ普通に過ごせたらいいなって思う」
「普通か...」
「はるとは?」
晴翔は空を見上げて言った。
「俺は...お姉ちゃんが笑っていられるなら、それでいい」
天音は照れたように髪を耳にかけた。
「もう、かっこつけちゃって」
「かっこつけじゃないよ」晴翔は真剣な表情で言った。「ただ...お姉ちゃんが悲しんでるところ、もう見たくないだけ」
沈黙が二人の間に流れた。それは重たいものではなく、心地よい静けさだった。
「ねえ、はると」天音が静かに言った。「もし...わたしが変わっちゃったら、どうする?」
その質問が何を意味するのか、晴翔には分からなかった。それでも彼は迷わず答えた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。どんなに変わっても」
晴翔の言葉に、天音の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう...」
彼女は小さく呟いた。まるでこれから起こる何かを予感しているかのように。
その時、空で雲が流れ、二人の上に影を落とした。一瞬だけ、天音の瞳が不思議な光を放ったように見えた。しかし晴翔がもう一度見た時には、いつもの姉の優しい目があるだけだった。
「よし! あとは水をあげて終わりにしよう!」
天音は元気よく立ち上がった。
「ああ」
晴翔も立ち上がり、姉の後を追った。
まだ彼らは知らない。一週間後に世界が変わること。天音が神として覚醒すること。そして晴翔が姉と世界を守るために立ち向かうことになることを。
今はただ、青い空の下、柿の木と二人の約束だけがあった。それは世界が変わっても、決して揺るがない絆の象徴だった。