本編が始まる約三日前、
放課後の教室は静寂に包まれていた。窓から差し込む夕日の光が、黒板と机に
「明日の行事予定表、明後日の
理子は小さく呟きながら、書類を丁寧に整理していく。しかし、いつもなら集中できるはずの作業が、今日はどうも
「もう...集中しなさい、理子」
自分自身に言い聞かせるように呟く。だが、その視線は何度も教室の後方、ある席へと向かってしまう。
「はぁ...」
思わず
彼女は引き出しから小さな手帳を取り出した。パスワードで
ページをめくると、そこには「晴翔観察記録」と書かれていた。
◆◆◆
それは一か月前に始まった。
最初は単なる
理子は「規則」に支えられて生きてきた。決められたことを守れば、世界は
その矛盾した姿勢に、理子は最初
手帳には、晴翔の日常の些細な
「これじゃまるで
理子は自分の行動に
教室のドアが突然開く音がして、理子は慌てて手帳を閉じた。
「あら、千早さん。まだ残ってたの?」
入ってきたのは
「あ、南雲さん...」理子は少し緊張した声で答えた。「委員の仕事があって...」
「そう」奈央は優しく微笑んだ。「わたし、忘れ物を取りに来たの」
奈央は自分の席に向かい、机の中から教科書を取り出した。
「ところで千早さん、何か悩みごと?」
奈央の質問に、理子は思わず息を飲んだ。
「え? どうして...?」
「なんとなく」奈央は肩をすくめた。「いつもの千早さんより、少し
理子は言葉に詰まった。こんな風に自分の感情を見透かされるのは心地良くない。特に今の状況では。
「別に...大したことじゃないわ」
「そう?」奈央はにっこり笑った。「でも、何かあったら相談してね。実は私、人の話を聞くのが得意なんだ」
理子は小さく頷いた。
「ありがとう」
奈央が教室を出ていくと、理子はほっと息をついた。もう少しで秘密が
◆◆◆
翌日の昼休み。理子は図書室で本を読んでいた。といっても、本の内容はほとんど頭に入ってこない。彼女の思考は別のところにあった。
「やあ、千早さん」
突然声をかけられ、理子は思わず本を落としてしまった。声の主は
「あ、朝霧くん...」
理子は慌てて本を拾おうとしたが、晴翔の方が早く手を伸ばし、本を取り上げた。
「『感情と理性の
「別に...研究のためよ」理子は少し
晴翔は本を理子に返しながら微笑んだ。
「千早さんらしいね。いつも真面目で」
その言葉に、理子の
「当然でしょ。規則正しく生きることが大切だもの」
理子は強がりながら言った。しかし心の中では、《彼に褒められた》と小さく喜んでいた。
「そうだね」晴翔は少し考えるような表情をした。「でも時々は、柔軟に行動することも必要かもしれない」
理子はぎょっとした。まるで自分の心を読まれたかのような言葉だった。
「ど、どういう意味?」
「例えば...」晴翔は窓の外を見つめながら言った。「大切な人を守るためなら、規則を破らなくてはいけない事もあるよね」
理子は言葉に詰まった。それは晴翔の信念だ。彼女が密かに憧れていた部分。
「それは...」
言葉が続かない。理子の中の「規則を守る委員長」と「晴翔に惹かれる少女」の間で
「ごめん、変なこと言って」晴翔は苦笑いした。「千早さんを混乱させるつもりはなかったんだ」
「ううん...」理子は小さく首を振った。「規則を完璧に守った上で、できる行動を考えてみるわ」
晴翔の表情が少し明るくなった。
「そうだ、今度お姉ちゃんのお菓子作りを手伝うことになったんだけど、千早さんも来ない?」
突然の誘いに、理子は驚いた。
「え? わ、私も?」
「うん。
理子は迷った。晴翔の家に行くなんて...しかも彼の姉と一緒に過ごすなんて。
「その...お邪魔じゃないかしら」
「全然」晴翔は笑顔で言った。「お姉ちゃんが『クラスメイトをたくさん連れてきて』って言ってたんだ」
理子はまだ迷っていたが、この機会を逃すのはもったいない気がした。
「わかったわ。行くわ」
「やった」晴翔は嬉しそうに言った。「じゃあ、土曜日の午後二時に駅の改札前で」
「ええ」
晴翔が図書室を出ていくと、理子はほっと息をついた。心臓が激しく
◆◆◆
土曜日の午後、理子は
「千早さーん!」
「おはよう」理子は少し緊張した様子で挨拶した。
「もう、朝じゃないよ」美羽はくすくす笑った。「千早って、本当に
「そ、そんなことないわ」
奈央は二人のやり取りを見て、優しく微笑んだ。
「千早さん、その服素敵だね」
「あ、ありがとう...」理子は少し
三人が話していると、晴翔が
「お待たせ」晴翔は手を上げた。
「みんな、来てくれてありがとう」天音はのんびりとした口調で言った。
理子は緊張した面持ちで天音を見た。晴翔の姉は彼とは違って、どこかゆるやかな雰囲気を持つ女性だった。しかし、その
「初めまして、
「はるとのクラスメイトだよね」天音は優しく微笑んだ。「いつも弟がお世話になってるみたい」
「い、いえ...」理子は少し
晴翔は少し照れたように後ろ頭を掻いた。
「そんなことないよ」
「じゃあ、行こっか」天音は手袋を
五人は一緒にスーパーに向かった。
◆◆◆
「えーっと、小麦粉はここで...」天音は
「だから、買い物リスト作ったのに」晴翔は呆れたように言った。
「ごめんごめん」天音は気にしていない様子で笑った。
理子はその兄妹のやり取りを見て、少し
「千早さん、卵を
「え? あ、はい...」
理子は慌てて卵を手に取った。普段は料理も完璧にこなす彼女だが、今日は妙に緊張して手が震えている。
「ボウルに割って、
「わかってるわ」理子は少し
晴翔は笑いながら他の作業に戻った。
美羽と奈央はチョコレートを刻む作業を担当していた。理子は卵を割りながら、時々晴翔の方を
「千早さん、その卵、もう少し強く混ぜた方がいいよ」
突然、天音が理子の横に立っていた。理子は思わずビクッとして、卵を
「あ、すみません...」
「いいよいいよ」天音は優しく微笑んだ。「ところで、はるとのこと、よく見てるね」
理子の顔が一気に赤くなった。
「え? わ、私は別に...」
天音はクスクス笑いながら、小さな声で言った。
「秘密にしておくよ」
理子は何も言えず、ただ卵を混ぜ続けた。まさか晴翔の姉に見透かされるとは...。
◆◆◆
お菓子作りが一段落し、みんなでクッキーの
廊下を進むと、壁には
理子は一枚の写真の前で立ち止まった。小学生くらいの晴翔が、何かを必死に守るように立っている写真だ。その横には涙を流している小さな天音の姿。
「あれは小学校のとき」
背後から声がして、理子は振り返った。晴翔が立っていた。
「朝霧くん...」
「お姉ちゃんがいじめられてた時の写真だよ」晴翔は少し遠い目をして言った。「僕はその時、何もできなかった」
理子は写真をもう一度見た。確かに晴翔の表情には
「でも、その後お姉さんを守ったんでしょう?」
晴翔は少し驚いたように理子を見た。
「どうして...?」
「だって」理子は小さな声で言った。「朝霧くんは、大切な人を絶対に守る人だから」
晴翔の表情が柔らかくなった。
「ありがとう、千早さん」
理子は少し勇気を出して言った。
「理子...でいいわ」
「え?」
「私のこと、理子って呼んでくれていいから」
理子の
「そっか」晴翔は優しく微笑んだ。「理子さん」
その瞬間、彼女の心臓が高鳴った。名前を呼ばれただけなのに、こんなにも嬉しい。
「はると、千早さーん! クッキー焼けたよー!」
美羽の声がキッチンから聞こえてきた。
「行こうか」晴翔は理子に手を差し出した。
理子は一瞬
◆◆◆
帰り際、玄関で靴を履いていると、天音が理子に近づいてきた。
「千早さん、今日はありがとう」
「いえ、私こそ楽しかったです」理子は正直に答えた。
天音はふと、真剣な表情になった。
「千早さんは、規則を大切にする人だよね」
「え? まあ...そうですね」
「でもね」天音は優しく言った。「時には規則よりも大切なものがあるって、わかってる人だと思う」
理子は天音の言葉に驚いた。まるで自分の心の中を見透かされているようだった。
「朝霧さん...」
「これからも、はるとのこと、見守っていてね」天音は小さく微笑んだ。「何かあったら...理解してあげてほしいの」
理子には、その言葉が何か重要な意味を持っているように感じられた。しかし、具体的に何を意味するのかはわからない。
「はい...できる限り」
理子はそう答えるしかなかった。
◆◆◆
その日の夜、理子は自分の部屋で手帳を開いていた。
「今日の出来事」というページに、彼女は丁寧に文字を綴っていく。
『朝霧家でのお菓子作り。晴翔くんの優しさ、手の感触。初めて「理子さん」と呼ばれた喜び...』
書き終えると、理子は深く息をついた。
「でも、あの姉弟の間に入る隙間はなかったな…」
理子は窓から見える夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。