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side talk:委員長の秘密 ~千早理子のルール外れな恋心~

本編が始まる約三日前、市川市立妙典南高校いちかわしりつみょうてんみなみこうこうの教室で、千早理子ちはやりこが自分の心と向き合おうとしていた時の話である。


 放課後の教室は静寂に包まれていた。窓から差し込む夕日の光が、黒板と机に橙色だいだいいろ縞模様しまもようを描き出している。


 千早理子ちはやりこは一人で残り、クラス委員としての仕事に取り組んでいた。きちんと整えられた黒髪のロングヘア、完璧に着こなされた制服、真面目そうな表情。彼女は学年でも「堅物かたぶつ委員長」として知られる少女だった。


「明日の行事予定表、明後日の掃除当番表そうじとうばんひょう...」


 理子は小さく呟きながら、書類を丁寧に整理していく。しかし、いつもなら集中できるはずの作業が、今日はどうもはかどらない。


「もう...集中しなさい、理子」


 自分自身に言い聞かせるように呟く。だが、その視線は何度も教室の後方、ある席へと向かってしまう。朝霧晴翔あさぎりはるとの席だ。


「はぁ...」


 思わず溜息ためいきが漏れる。理子は慌てて周りを見回したが、誰もいないことを確認すると、少し緊張が解けた。


 彼女は引き出しから小さな手帳を取り出した。パスワードで保護ほごされたスマホのメモではなく、あえて古風な紙の手帳。理子らしい選択だった。


 ページをめくると、そこには「晴翔観察記録」と書かれていた。


◆◆◆


 それは一か月前に始まった。朝霧晴翔あさぎりはるとという少年に対する、何とも言えない気持ち。


 最初は単なる好奇心こうきしんだった。なぜ彼は、理子がどんなに校則や規律きりつについて語っても、決して反発せず、ただ穏やかに微笑むだけなのか。


 理子は「規則」に支えられて生きてきた。決められたことを守れば、世界は整然せいぜんと回る。そう信じていた。だが晴翔は違った。彼は規則を尊重しながらも、時に「大切なもの」のためには規則を柔軟に曲げるかいしゃくすることもいとわない。


 その矛盾した姿勢に、理子は最初苛立いらだちを覚えた。しかし、次第にその態度の裏にある芯の強さに気づいていく。学校の規則よりも大切な何か—それを持っている晴翔に、彼女は次第に心惹かれていった。


 手帳には、晴翔の日常の些細な仕草しぐさや言葉、表情の変化が克明に記録されていた。まるで研究者のように詳細に、しかし時々感情的な走り書きはしりがきも混じっている。理子にしては珍しく乱雑らんざつな部分だ。


「これじゃまるでストーカーすとーかーじゃないか...」


 理子は自分の行動に嫌悪感けんおかんを抱きながらも、ページをめくる手を止められなかった。


 教室のドアが突然開く音がして、理子は慌てて手帳を閉じた。


「あら、千早さん。まだ残ってたの?」


 入ってきたのは南雲奈央なぐもなおだった。温かみのある笑顔が特徴の、クラスのいやし系女子である。


「あ、南雲さん...」理子は少し緊張した声で答えた。「委員の仕事があって...」


「そう」奈央は優しく微笑んだ。「わたし、忘れ物を取りに来たの」


 奈央は自分の席に向かい、机の中から教科書を取り出した。


「ところで千早さん、何か悩みごと?」


 奈央の質問に、理子は思わず息を飲んだ。


「え? どうして...?」


「なんとなく」奈央は肩をすくめた。「いつもの千早さんより、少し物憂ものうげに見えたから」


 理子は言葉に詰まった。こんな風に自分の感情を見透かされるのは心地良くない。特に今の状況では。


「別に...大したことじゃないわ」


「そう?」奈央はにっこり笑った。「でも、何かあったら相談してね。実は私、人の話を聞くのが得意なんだ」


 理子は小さく頷いた。


「ありがとう」


 奈央が教室を出ていくと、理子はほっと息をついた。もう少しで秘密が露見ろけんするところだった。


◆◆◆


 翌日の昼休み。理子は図書室で本を読んでいた。といっても、本の内容はほとんど頭に入ってこない。彼女の思考は別のところにあった。


「やあ、千早さん」


 突然声をかけられ、理子は思わず本を落としてしまった。声の主は朝霧晴翔あさぎりはるとだった。


「あ、朝霧くん...」


 理子は慌てて本を拾おうとしたが、晴翔の方が早く手を伸ばし、本を取り上げた。


「『感情と理性の哲学てつがく』か」晴翔は本のタイトルを読み上げた。「難しそうだね」


「別に...研究のためよ」理子は少し素っ気そっけない態度を装った。


 晴翔は本を理子に返しながら微笑んだ。


「千早さんらしいね。いつも真面目で」


 その言葉に、理子のほおが少し熱くなった。


「当然でしょ。規則正しく生きることが大切だもの」


 理子は強がりながら言った。しかし心の中では、《彼に褒められた》と小さく喜んでいた。


「そうだね」晴翔は少し考えるような表情をした。「でも時々は、柔軟に行動することも必要かもしれない」


 理子はぎょっとした。まるで自分の心を読まれたかのような言葉だった。


「ど、どういう意味?」


「例えば...」晴翔は窓の外を見つめながら言った。「大切な人を守るためなら、規則を破らなくてはいけない事もあるよね」


 理子は言葉に詰まった。それは晴翔の信念だ。彼女が密かに憧れていた部分。


「それは...」


 言葉が続かない。理子の中の「規則を守る委員長」と「晴翔に惹かれる少女」の間で葛藤かっとうが続いていた。


「ごめん、変なこと言って」晴翔は苦笑いした。「千早さんを混乱させるつもりはなかったんだ」


「ううん...」理子は小さく首を振った。「規則を完璧に守った上で、できる行動を考えてみるわ」


 晴翔の表情が少し明るくなった。


「そうだ、今度お姉ちゃんのお菓子作りを手伝うことになったんだけど、千早さんも来ない?」


 突然の誘いに、理子は驚いた。


「え? わ、私も?」


「うん。南雲なぐもさんと結城ゆうきさんも来るんだ」


 理子は迷った。晴翔の家に行くなんて...しかも彼の姉と一緒に過ごすなんて。


「その...お邪魔じゃないかしら」


「全然」晴翔は笑顔で言った。「お姉ちゃんが『クラスメイトをたくさん連れてきて』って言ってたんだ」


 理子はまだ迷っていたが、この機会を逃すのはもったいない気がした。


「わかったわ。行くわ」


「やった」晴翔は嬉しそうに言った。「じゃあ、土曜日の午後二時に駅の改札前で」


「ええ」


 晴翔が図書室を出ていくと、理子はほっと息をついた。心臓が激しく鼓動こどうしていた。


◆◆◆


 土曜日の午後、理子は妙典駅みょうでんえきの改札前で待っていた。いつもより30分も早く家を出て、今日の服装に悩んだ末、彼女はシンプルなワンピースを選んだ。派手すぎず、かといって学校の制服のように堅苦しくもない。


「千早さーん!」


 結城美羽ゆうきみうの元気な声が聞こえてきた。振り返ると、美羽と南雲奈央なぐもなおが一緒に歩いてくるところだった。


「おはよう」理子は少し緊張した様子で挨拶した。


「もう、朝じゃないよ」美羽はくすくす笑った。「千早って、本当に几帳面きちょうめんだね」


「そ、そんなことないわ」


 奈央は二人のやり取りを見て、優しく微笑んだ。


「千早さん、その服素敵だね」


「あ、ありがとう...」理子は少しずかしそうに答えた。


 三人が話していると、晴翔が朝霧天音あさぎりあまねと一緒に現れた。


「お待たせ」晴翔は手を上げた。


「みんな、来てくれてありがとう」天音はのんびりとした口調で言った。


 理子は緊張した面持ちで天音を見た。晴翔の姉は彼とは違って、どこかゆるやかな雰囲気を持つ女性だった。しかし、そのおだやかな瞳の奥に、何か特別なものを感じる。


「初めまして、千早理子ちはやりこです」理子はきちんと頭を下げた。


「はるとのクラスメイトだよね」天音は優しく微笑んだ。「いつも弟がお世話になってるみたい」


「い、いえ...」理子は少しうつむいた。「朝霧くんの方こそ、クラスのみんなを助けてくれています」


 晴翔は少し照れたように後ろ頭を掻いた。


「そんなことないよ」


「じゃあ、行こっか」天音は手袋をめながら言った。「材料、買い忘れがないように確認しないと」


 五人は一緒にスーパーに向かった。


◆◆◆


 朝霧家あさぎりけのキッチンは、思ったより広かった。


「えーっと、小麦粉はここで...」天音はたなを開けながら言った。「あれ? 砂糖がない...」


「だから、買い物リスト作ったのに」晴翔は呆れたように言った。


「ごめんごめん」天音は気にしていない様子で笑った。


 理子はその兄妹のやり取りを見て、少しうらやましくなった。彼女には兄弟姉妹がいない。いつも一人で何でもこなしてきた。


「千早さん、卵をいてくれる?」晴翔が声をかけてきた。


「え? あ、はい...」


 理子は慌てて卵を手に取った。普段は料理も完璧にこなす彼女だが、今日は妙に緊張して手が震えている。


「ボウルに割って、泡立て器あわだてきでよく混ぜてね」晴翔は優しく説明した。


「わかってるわ」理子は少しねたように言った。


 晴翔は笑いながら他の作業に戻った。


 美羽と奈央はチョコレートを刻む作業を担当していた。理子は卵を割りながら、時々晴翔の方をぬすみ見ていた。エプロン姿の彼は、普段と違うたよもしさを感じさせる。


「千早さん、その卵、もう少し強く混ぜた方がいいよ」


 突然、天音が理子の横に立っていた。理子は思わずビクッとして、卵をこぼしそうになった。


「あ、すみません...」


「いいよいいよ」天音は優しく微笑んだ。「ところで、はるとのこと、よく見てるね」


 理子の顔が一気に赤くなった。


「え? わ、私は別に...」


 天音はクスクス笑いながら、小さな声で言った。


「秘密にしておくよ」


 理子は何も言えず、ただ卵を混ぜ続けた。まさか晴翔の姉に見透かされるとは...。


◆◆◆


 お菓子作りが一段落し、みんなでクッキーのき上がりを待っている間、理子はこっそりキッチンから抜け出した。緊張しっぱなしだったので、少し息抜いきぬきが必要だった。


 廊下を進むと、壁には朝霧あさぎり兄妹の写真が飾られている。小さい頃の晴翔と天音の笑顔。学校の制服姿。家族旅行の思い出。


 理子は一枚の写真の前で立ち止まった。小学生くらいの晴翔が、何かを必死に守るように立っている写真だ。その横には涙を流している小さな天音の姿。


「あれは小学校のとき」


 背後から声がして、理子は振り返った。晴翔が立っていた。


「朝霧くん...」


「お姉ちゃんがいじめられてた時の写真だよ」晴翔は少し遠い目をして言った。「僕はその時、何もできなかった」


 理子は写真をもう一度見た。確かに晴翔の表情にはしさが滲んでいる。


「でも、その後お姉さんを守ったんでしょう?」


 晴翔は少し驚いたように理子を見た。


「どうして...?」


「だって」理子は小さな声で言った。「朝霧くんは、大切な人を絶対に守る人だから」


 晴翔の表情が柔らかくなった。


「ありがとう、千早さん」


 理子は少し勇気を出して言った。


「理子...でいいわ」


「え?」


「私のこと、理子って呼んでくれていいから」


 理子のほおが赤くなるのを感じた。でも、もう隠すのはめようと思った。


「そっか」晴翔は優しく微笑んだ。「理子さん」


 その瞬間、彼女の心臓が高鳴った。名前を呼ばれただけなのに、こんなにも嬉しい。


「はると、千早さーん! クッキー焼けたよー!」


 美羽の声がキッチンから聞こえてきた。


「行こうか」晴翔は理子に手を差し出した。


 理子は一瞬躊躇ちゅうちょしたが、思い切ってその手を取った。たった数秒の接触だったが、彼女にとっては大きな一歩だった。


◆◆◆


 帰り際、玄関で靴を履いていると、天音が理子に近づいてきた。


「千早さん、今日はありがとう」


「いえ、私こそ楽しかったです」理子は正直に答えた。


 天音はふと、真剣な表情になった。


「千早さんは、規則を大切にする人だよね」


「え? まあ...そうですね」


「でもね」天音は優しく言った。「時には規則よりも大切なものがあるって、わかってる人だと思う」


 理子は天音の言葉に驚いた。まるで自分の心の中を見透かされているようだった。


「朝霧さん...」


「これからも、はるとのこと、見守っていてね」天音は小さく微笑んだ。「何かあったら...理解してあげてほしいの」


 理子には、その言葉が何か重要な意味を持っているように感じられた。しかし、具体的に何を意味するのかはわからない。


「はい...できる限り」


 理子はそう答えるしかなかった。


◆◆◆


 その日の夜、理子は自分の部屋で手帳を開いていた。


「今日の出来事」というページに、彼女は丁寧に文字を綴っていく。


『朝霧家でのお菓子作り。晴翔くんの優しさ、手の感触。初めて「理子さん」と呼ばれた喜び...』


 書き終えると、理子は深く息をついた。


「でも、あの姉弟の間に入る隙間はなかったな…」


 理子は窓から見える夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。


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