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side talk:直人の論理 ~計算できない感情の方程式~

朝霧天音あさぎりあまねが「神」として覚醒する直前の出来事。朝霧晴翔あさぎりはるとのクラスメイトであり、理論派の支援者となる鴻上直人こうがみなおとが、「理論では割り切れない感情」と初めて向き合った日の物語である。


 五月末の放課後、夕日に染まる市川市立妙典南高校いちかわしりつみょうてんみなみこうこうの教室に、一人の少年の姿があった。高身長でスラリとした体型、知的な印象を与える眼鏡めがねをかけた鴻上直人こうがみなおとは、数学の問題集に向かって黙々とペンを走らせていた。


 彼の周りには、すでに解き終えた問題集や参考書が何冊も積み上げられている。直人は静かに息を吐くと、最後の問題を解き終え、ペンを置いた。


「やっと終わった...」


 彼は天井を見上げながら小さく呟いた。窓の外からは、帰宅するクラスメイトたちの楽しげな声が聞こえてくる。直人はそれを聞きながら、どこか物思いに耽るような表情を浮かべた。


 教室のドアが開き、朝霧晴翔あさぎりはるとが顔を覗かせる。


「まだいたんだ、直人」


「ああ、晴翔か」直人は少し驚いたように振り返った。「部活は?」


「今日は早く終わったんだ」晴翔は教室に入ってきた。「直人こそ、まだ勉強してるの?」


「ちょうど終わったところだよ」


 晴翔は直人の机に近づき、問題集を覗き込んだ。


「おお、これ難しいやつだよね。さすが直人...」


「別に」直人は肩をすくめた。「論理的に考えれば、解けない問題なんてないさ」


 晴翔は微笑みながら隣の席に腰を下ろした。


「でも、世の中には論理じゃ解けないこともあるよね」


「それは単に、まだ解析するための十分なデータや方程式がないだけだよ」直人はクールに答えた。「いずれは全て数式化できる」


「そうかな...」晴翔は窓の外を見つめながら言った。「例えば、人の感情とか?」


 直人は少し考えてから答えた。


「感情も結局は脳内の化学反応だ。原理的には計算可能なはずさ」


 晴翔はどこか意味深な笑みを浮かべた。


「じゃあ、直人は自分の感情も全部理解してるの?」


 その質問に、直人は一瞬、言葉に詰まった。


「...それは、まだ研究中だ」


 晴翔は軽く笑った。


「なあ直人、これから徳願寺とくがんじによってかない? 姉と待ち合わせなんだ」


徳願寺とくがんじ?」直人は眉を上げた。「あの古いお寺か」


「うん。お参りに行くんだけど...」


「別に構わないけど」直人は立ち上がり、自分の荷物をまとめ始めた。「でも、晴翔が神社仏閣に行くなんて珍しいね」


「たまにはね」晴翔は曖昧に笑った。


 二人は教室を出て、夕暮れの校舎を後にした。


---


 徳願寺とくがんじは市川市妙典にある小さなお寺だった。古いくすのきの大木があり、静かな境内けいだいは不思議な雰囲気ふんいきに包まれている。


 直人と晴翔が到着すると、境内には人の姿はなく、ただ風に揺れる木々の音だけが聞こえていた。


「お姉さんは?」直人は周囲を見回した。


「もうすぐ来るはず」晴翔はくすのきの方へ歩いていった。「少し待とう」


 二人は大木の下に立った。夕日の光が木漏れ日となって、地面に美しい模様を描いている。


「この木、何年くらい経ってるんだろう...」直人は木の幹を見上げながら呟いた。


「三百年以上だって」晴翔は答えた。「この寺のご本尊ごほんぞんより古いらしいよ」


「へえ...」


 直人は感心したように幹に手を当てた。固い樹皮の感触。何百年もの時を生きてきた木の存在感そんざいかんに、少し畏怖いふの念を覚える。


「なんか...変な感じがするね」直人は小さく呟いた。


「変な感じ?」晴翔は興味深そうに尋ねた。


「うん...」直人は言葉を探した。「なんていうか、計算できない何かを感じる」


 晴翔は意外そうな表情をした。


「珍しいな、直人がそんなこと言うなんて」


「いや、科学的には説明できるはずだ」直人は急いで言い直した。「たぶん、古木から発せられるテルペン類フィトンチッドや、視覚的な威圧感いあつかんが脳に作用して...」


 晴翔は笑った。


「全部理論で説明しようとするんだね」


「そりゃそうさ」直人は眼鏡を直した。「感覚に頼るよりも、理論の方が確実だからね」


 その時、境内の入口から人の気配がした。振り返ると、朝霧天音あさぎりあまねが歩いてくるところだった。


「はると、ごめーん、遅くなっちゃった!」


 天音はのんびりとした口調で言いながら、二人に近づいてきた。ゆるく結んだ長い髪がふわりと風に揺れている。


「お姉ちゃん、待ったよ」晴翔は笑顔で言った。


「こんにちは、天音さん」直人は礼儀正しく頭を下げた。


「あ、鴻上こうがみくんも一緒なんだね」天音は親しげに微笑んだ。「待たせちゃってごめんなさい」


「いえ、大丈夫です」


 直人は天音を見つめながら、いつも不思議に思うことがあった。彼女はとてものんびりとした性格で、時々抜けたところがあるのに、周囲の人を自然と惹きつける魅力みりょくを持っている。それが論理的に説明できない点が、彼にとっては少し歯痒はがゆかった。


「それじゃあ、お参りしよう」晴翔が言った。


 三人は本堂へと向かった。


◆◆◆


 お参りを終えた後、三人は境内のベンチに座っていた。夕暮れが深まり、辺りは薄闇うすやみに包まれ始めている。


「直人くんって、いつも理論的だよね」天音が突然言った。


「え?」直人は少し驚いた。


「うん、わたしから見ると、すごいなって思うの」天音は柔らかく微笑んだ。「わたしなんて、いつも感覚で動いちゃうから」


 直人は少し照れたように眼鏡を直した。


「いえ、別に...論理的に考えるのは当然のことですから」


「でも、世の中には論理じゃ説明できないこともあるんじゃない?」天音はまっすぐ直人を見た。「たとえば...この寺の空気感くうきかんとか」


 直人は一瞬、言葉に詰まった。さっき晴翔に言ったことと同じような話題だ。


「それは...まだ科学的に解明されていないだけです」直人は少し強張った声で言った。「いずれは説明できるようになります」


「そっか」天音は少し首を傾げた。「でもね、説明できなくても、感じることは大切だと思うの」


 晴翔は二人のやり取りを黙って聞いていた。


「直人くんは、何か説明できないことで困ったことない?」天音は無邪気に尋ねた。


 その質問に、直人の頭に一つの記憶が浮かんだ。彼はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「...一度だけあります」


「え?」晴翔も驚いたように直人を見た。


「実は...」直人は少しうつむいた。「父が会社をリストラされた時のことです」


 晴翔と天音は黙って聞いていた。直人がこんな個人的な話をするのは珍しかった。


「理不尽な理由でした」直人は続けた。「父は何も悪いことをしていなかった。むしろ成績は良かった。それなのに、上層部の派閥争いはばつあらそいに巻き込まれて...」


 直人の声には珍しく感情が滲んでいた。


「その時、僕は全てを『論理的に』理解しようとしました。なぜ父が選ばれたのか、どういう社内力学りきがくが働いたのか...でも」


 彼は一度深く息を吐いた。


「でも、どう考えても『合理的』な説明ができなかった。ただの『不条理』としか言いようがなかった」


 境内に静寂が流れた。夕闇が少しずつ深まっていく。


「それで?」晴翔が静かに促した。


「父は...落ち込みました」直人は続けた。「僕は何とか論理的な対処法を考えようとしました。新しい職探しの効率的な方法とか、家計の最適化さいてきかとか...」


 彼は苦笑いを浮かべた。


「でも、それは全く役に立ちませんでした。父に必要だったのは、論理じゃなかった」


「何だったの?」天音が優しく尋ねた。


「...ただの『共感』でした」直人は静かに言った。「母は何も言わず、ただ父の隣に座って手を握っていた。それだけで父は少しずつ元気を取り戻していった」


 晴翔と天音は黙って頷いた。


「その時に思いました」直人は空を見上げた。「人間の心は、完全に論理だけでは解けない方程式かもしれないと」


 三人の周りで、風が優しく木々を揺らした。


「直人くん...」天音は優しく微笑んだ。「それ、とても大切な気づきだね」


「でも」直人は急に普段の調子に戻ったように言った。「だからといって、論理が無意味だとは思いません。むしろ、感情と論理の両輪りょうりんが必要なんだと思います」


 晴翔は納得したように頷いた。


「その通りだね」


 その時、天音が突然空を指さした。


「あ、見て!」


 三人が見上げると、夕暮れの空に一つの星が輝き始めていた。


「きれい...」天音はうっとりと言った。


 直人は星を見上げながら、不思議な感覚に襲われた。この瞬間、この場所、この二人との時間—それは論理では説明できない心地よさがあった。


「なあ、直人」晴翔が静かに言った。「これから、いろんなことが起きるかもしれない」


「え?」


「その時は...論理だけじゃなく、感覚も大事にしてほしい」


 晴翔の言葉には、どこか切実なものが感じられた。直人は少し混乱したが、何か重要なことを言われているような気がした。


「わかった」直人はうなずいた。「できるだけ...心がけるよ」


 天音は二人を見て、優しく微笑んだ。


「二人とも、いい友達だね」


 三人は静かに夜空を見上げていた。まだ誰も知らない未来が、すぐそこまで迫っていることに。


◆◆◆


 翌日、学校の教室で直人は数学の問題を解きながら、昨日のことを思い出していた。


「おはよう、直人」


 晴翔が席に座りながら挨拶した。


「おはよう」直人も顔を上げて答えた。


「昨日は遅くまでありがとう」


「気にしないでくれ」直人は言った。「それより...」


「ん?」


「晴翔」直人は少し声を潜めた。「昨日の話、何か意味があったのか?」


 晴翔は一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。


「気にしすぎだよ」


「でも」直人は真剣な表情で言った。「なんか...これから何かが起きるような予感がする」


 晴翔は直人をじっと見つめた後、小さく頷いた。


「もし何かあったら...その時は力を貸してほしいんだ」


 直人は晴翔の表情から、これが単なる冗談ではないと感じた。彼は少し考えてから言った。


「わかった。約束する」


 そして直人は付け加えた。


「論理と感情の両方を使って、君をサポートするよ」


 晴翔は安心したように微笑んだ。


「ありがとう、直人」


 二人はそれ以上何も言わなかったが、この会話が二人の間で交わされた重要な約束だということを、互いに理解していた。


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