五月末の放課後、夕日に染まる
彼の周りには、すでに解き終えた問題集や参考書が何冊も積み上げられている。直人は静かに息を吐くと、最後の問題を解き終え、ペンを置いた。
「やっと終わった...」
彼は天井を見上げながら小さく呟いた。窓の外からは、帰宅するクラスメイトたちの楽しげな声が聞こえてくる。直人はそれを聞きながら、どこか物思いに耽るような表情を浮かべた。
教室のドアが開き、
「まだいたんだ、直人」
「ああ、晴翔か」直人は少し驚いたように振り返った。「部活は?」
「今日は早く終わったんだ」晴翔は教室に入ってきた。「直人こそ、まだ勉強してるの?」
「ちょうど終わったところだよ」
晴翔は直人の机に近づき、問題集を覗き込んだ。
「おお、これ難しいやつだよね。さすが直人...」
「別に」直人は肩をすくめた。「論理的に考えれば、解けない問題なんてないさ」
晴翔は微笑みながら隣の席に腰を下ろした。
「でも、世の中には論理じゃ解けないこともあるよね」
「それは単に、まだ解析するための十分なデータや方程式がないだけだよ」直人はクールに答えた。「いずれは全て数式化できる」
「そうかな...」晴翔は窓の外を見つめながら言った。「例えば、人の感情とか?」
直人は少し考えてから答えた。
「感情も結局は脳内の化学反応だ。原理的には計算可能なはずさ」
晴翔はどこか意味深な笑みを浮かべた。
「じゃあ、直人は自分の感情も全部理解してるの?」
その質問に、直人は一瞬、言葉に詰まった。
「...それは、まだ研究中だ」
晴翔は軽く笑った。
「なあ直人、これから
「
「うん。お参りに行くんだけど...」
「別に構わないけど」直人は立ち上がり、自分の荷物をまとめ始めた。「でも、晴翔が神社仏閣に行くなんて珍しいね」
「たまにはね」晴翔は曖昧に笑った。
二人は教室を出て、夕暮れの校舎を後にした。
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直人と晴翔が到着すると、境内には人の姿はなく、ただ風に揺れる木々の音だけが聞こえていた。
「お姉さんは?」直人は周囲を見回した。
「もうすぐ来るはず」晴翔は
二人は大木の下に立った。夕日の光が木漏れ日となって、地面に美しい模様を描いている。
「この木、何年くらい経ってるんだろう...」直人は木の幹を見上げながら呟いた。
「三百年以上だって」晴翔は答えた。「この寺の
「へえ...」
直人は感心したように幹に手を当てた。固い樹皮の感触。何百年もの時を生きてきた木の
「なんか...変な感じがするね」直人は小さく呟いた。
「変な感じ?」晴翔は興味深そうに尋ねた。
「うん...」直人は言葉を探した。「なんていうか、計算できない何かを感じる」
晴翔は意外そうな表情をした。
「珍しいな、直人がそんなこと言うなんて」
「いや、科学的には説明できるはずだ」直人は急いで言い直した。「たぶん、古木から発せられる
晴翔は笑った。
「全部理論で説明しようとするんだね」
「そりゃそうさ」直人は眼鏡を直した。「感覚に頼るよりも、理論の方が確実だからね」
その時、境内の入口から人の気配がした。振り返ると、
「はると、ごめーん、遅くなっちゃった!」
天音はのんびりとした口調で言いながら、二人に近づいてきた。ゆるく結んだ長い髪がふわりと風に揺れている。
「お姉ちゃん、待ったよ」晴翔は笑顔で言った。
「こんにちは、天音さん」直人は礼儀正しく頭を下げた。
「あ、
「いえ、大丈夫です」
直人は天音を見つめながら、いつも不思議に思うことがあった。彼女はとてものんびりとした性格で、時々抜けたところがあるのに、周囲の人を自然と惹きつける
「それじゃあ、お参りしよう」晴翔が言った。
三人は本堂へと向かった。
◆◆◆
お参りを終えた後、三人は境内のベンチに座っていた。夕暮れが深まり、辺りは
「直人くんって、いつも理論的だよね」天音が突然言った。
「え?」直人は少し驚いた。
「うん、わたしから見ると、すごいなって思うの」天音は柔らかく微笑んだ。「わたしなんて、いつも感覚で動いちゃうから」
直人は少し照れたように眼鏡を直した。
「いえ、別に...論理的に考えるのは当然のことですから」
「でも、世の中には論理じゃ説明できないこともあるんじゃない?」天音はまっすぐ直人を見た。「たとえば...この寺の
直人は一瞬、言葉に詰まった。さっき晴翔に言ったことと同じような話題だ。
「それは...まだ科学的に解明されていないだけです」直人は少し強張った声で言った。「いずれは説明できるようになります」
「そっか」天音は少し首を傾げた。「でもね、説明できなくても、感じることは大切だと思うの」
晴翔は二人のやり取りを黙って聞いていた。
「直人くんは、何か説明できないことで困ったことない?」天音は無邪気に尋ねた。
その質問に、直人の頭に一つの記憶が浮かんだ。彼はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「...一度だけあります」
「え?」晴翔も驚いたように直人を見た。
「実は...」直人は少し
晴翔と天音は黙って聞いていた。直人がこんな個人的な話をするのは珍しかった。
「理不尽な理由でした」直人は続けた。「父は何も悪いことをしていなかった。むしろ成績は良かった。それなのに、上層部の
直人の声には珍しく感情が滲んでいた。
「その時、僕は全てを『論理的に』理解しようとしました。なぜ父が選ばれたのか、どういう社内
彼は一度深く息を吐いた。
「でも、どう考えても『合理的』な説明ができなかった。ただの『不条理』としか言いようがなかった」
境内に静寂が流れた。夕闇が少しずつ深まっていく。
「それで?」晴翔が静かに促した。
「父は...落ち込みました」直人は続けた。「僕は何とか論理的な対処法を考えようとしました。新しい職探しの効率的な方法とか、家計の
彼は苦笑いを浮かべた。
「でも、それは全く役に立ちませんでした。父に必要だったのは、論理じゃなかった」
「何だったの?」天音が優しく尋ねた。
「...ただの『共感』でした」直人は静かに言った。「母は何も言わず、ただ父の隣に座って手を握っていた。それだけで父は少しずつ元気を取り戻していった」
晴翔と天音は黙って頷いた。
「その時に思いました」直人は空を見上げた。「人間の心は、完全に論理だけでは解けない方程式かもしれないと」
三人の周りで、風が優しく木々を揺らした。
「直人くん...」天音は優しく微笑んだ。「それ、とても大切な気づきだね」
「でも」直人は急に普段の調子に戻ったように言った。「だからといって、論理が無意味だとは思いません。むしろ、感情と論理の
晴翔は納得したように頷いた。
「その通りだね」
その時、天音が突然空を指さした。
「あ、見て!」
三人が見上げると、夕暮れの空に一つの星が輝き始めていた。
「きれい...」天音はうっとりと言った。
直人は星を見上げながら、不思議な感覚に襲われた。この瞬間、この場所、この二人との時間—それは論理では説明できない心地よさがあった。
「なあ、直人」晴翔が静かに言った。「これから、いろんなことが起きるかもしれない」
「え?」
「その時は...論理だけじゃなく、感覚も大事にしてほしい」
晴翔の言葉には、どこか切実なものが感じられた。直人は少し混乱したが、何か重要なことを言われているような気がした。
「わかった」直人はうなずいた。「できるだけ...心がけるよ」
天音は二人を見て、優しく微笑んだ。
「二人とも、いい友達だね」
三人は静かに夜空を見上げていた。まだ誰も知らない未来が、すぐそこまで迫っていることに。
◆◆◆
翌日、学校の教室で直人は数学の問題を解きながら、昨日のことを思い出していた。
「おはよう、直人」
晴翔が席に座りながら挨拶した。
「おはよう」直人も顔を上げて答えた。
「昨日は遅くまでありがとう」
「気にしないでくれ」直人は言った。「それより...」
「ん?」
「晴翔」直人は少し声を潜めた。「昨日の話、何か意味があったのか?」
晴翔は一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。
「気にしすぎだよ」
「でも」直人は真剣な表情で言った。「なんか...これから何かが起きるような予感がする」
晴翔は直人をじっと見つめた後、小さく頷いた。
「もし何かあったら...その時は力を貸してほしいんだ」
直人は晴翔の表情から、これが単なる冗談ではないと感じた。彼は少し考えてから言った。
「わかった。約束する」
そして直人は付け加えた。
「論理と感情の両方を使って、君をサポートするよ」
晴翔は安心したように微笑んだ。
「ありがとう、直人」
二人はそれ以上何も言わなかったが、この会話が二人の間で交わされた重要な約束だということを、互いに理解していた。