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第74話

授業が終わる鐘が鳴り響く中、朝霧あさぎり晴翔はるとはノートを閉じながら深いため息をついた。目の前のページには英語の単語の代わりに、ぐるぐると描いた渦巻きが並んでいる。集中できないのも無理はない。教壇に立つカナエの姿を見るたび、彼の心は複雑な思いで攪拌かくはんされるのだから。


「朝霧くん、あんた全然聞いてなかったでしょ」


結城ゆうき美羽みうが隣の席から身を乗り出して小声で言った。彼女の目は心配でにじんでいる。


「あー、まあな」


「カナエ先生の授業、意外と分かりやすかったのに。損したね〜」


「敵の戦術を学ぶ気にはなれないよ」


晴翔は渋い顔で答えた。彼の視線はまだ教壇に向けられている。カナエは教科書を閉じ、さっとアルバの方を見た。二人の間に無言の了解があるようだ。


美羽が言いかけたとき、鴻上こうがみ直人なおとが後ろから声をかけた。


「朝霧、結城、行くぞ」


三人は無言で立ち上がり、教室を出た。廊下ろうかでは望月もちづきれんが既に待っていた。その表情は晴翔よりもさらに暗い。


「どうしたの?」


美羽が心配そうに尋ねた。


「ジンが…午後中ずっと私を監視していた」


蓮は不快感をにじませながら言った。


「まるで獲物を狙う猛禽類のような目で」


「あいつは危険だ」


晴翔が唇をみしめた。


「信用できない」


「私たちの力を測っているのかもしれませんね」


直人が眼鏡を上げながら言った。


「特に、蓮の予知能力は脅威だと判断しているのでしょう」


四人は静かに校舎を後にした。校門に向かう途中、上級生の教室から出てきた朝霧あさぎり天音あまねと合流した。彼女の隣には、ソフィアの優雅な姿があった。


「お姉ちゃん!」


晴翔が警戒心をむき出しにしながら近づいた。


「大丈夫?」


「ええ」


天音は微笑んだ。彼女の表情は意外にも穏やかだった。


「ソフィアさん、とても親切にしてくれたの」


「そうなの?」


美羽は半信半疑だった。


「ええ」


ソフィアはゆっくりと頭を下げた。その動作には年齢を感じさせない優雅さがある。


「天音さんとお話しできて、私もとても勉強になりました」


「勉強?」


晴翔はまだ疑いの目を向けている。


「そう…『神』についての理解を深めるのは、私の使命でもあるのです」


ソフィアの言葉には、どこか哀愁あいしゅうが込められていた。


「あなたは…特別な存在です」


「私にはまだよく分からないけど…」


天音はそう言いながらも、ソフィアに対して不思議な親近感を覚えていた。


一行は校門に向かって歩き出した。門の近くには、既にカナエとアルバ、そしてジンが待っていた。さらにその隣には、見慣れた顔―叶絵かなえの姿も。


「お待ちしていました」


叶絵はいつもの冷静さで挨拶した。彼女は黒いスーツに身を包み、まるで葬儀そうぎに向かうかのような出で立ちだ。


「何も言わないで、私についてきてください」


「どこへ行くの?」


美羽が好奇心を隠せずに尋ねた。


「安全な場所です」


叶絵はそれだけ言って、一行を率いて歩き始めた。


彼らが向かったのは、駅から少し離れた古びたビルだった。「アパートメント妙典」という看板が掲げられているが、どう見ても人が住んでいるようには見えない。びついた階段を上り、三階の一室に到着した。


「ここが…?」


晴翔が眉をひそめた。


「臨時作戦本部です」


叶絵が鍵を開けて中に入った。


驚いたことに、室内は外観とは裏腹に、近代的な設備が整っていた。大きなテーブルを中心に、壁一面のモニターやコンピューター機器が並んでいる。まるで映画に出てくるスパイの隠れ家かくれがのようだ。


「すごーい!」


美羽は目を輝かせた。


「映画みたい!」


「座ってください」


叶絵はテーブルを囲む椅子を指し示した。


九人全員が着席すると、叶絵がモニターを操作し始めた。画面には複雑な図表や文字が表示される。


「では、状況説明を始めます」


彼女の声は引き締まっていた。


「まず、イシュタリア封印作戦は成功しました。しかし…」


彼女は一瞬口を閉ざし、重々しい表情で続けた。


「新たな動きが検知されています」


モニターには日本地図が表示され、いくつかの地点が赤く点滅していた。そのうちの一つが妙典の位置だ。


「これらの地点で、超常現象が報告されています」


「超常現象?」


直人が関心を持って前のめりになった。


「具体的には?」


「虹色の空、地震、そして…黒い影」


叶絵の言葉に、全員が息を飲んだ。


「これは…」


天音が小さな声で言った。


「イシュタリアと同じ…」


「正確には、別の旧神たちの活動痕跡です」


カナエが冷静に言った。


「組織の分析によれば、少なくとも三柱の旧神が現在、活動を開始していると思われます」


「三柱も…!」


晴翔は顔色を変えた。


「名前は?」


蓮が静かに尋ねた。


ヘカトールへかとーるマルドゥクまるどぅく、そして…フェンリルふぇんりる


ソフィアが古い記憶を紐解ひもとくように答えた。


「それぞれギリシャ、バビロニア、北欧の神話に登場する強大な存在です」


「でも、それらは単なる神話じゃないの?」


美羽が首を傾げた。


「実在するの?」


「神話はしばしば、実際の出来事の歪曲わいきょくされた記録です」


ソフィアは静かに説明した。


「古代の人々は、理解できない現象を説明するために神話を作り出しました。しかし、その核心には真実があるのです」


「それで、その旧神たちが…何をしようとしてるの?」


天音が恐る恐る尋ねた。


「あなたを狙っています」


カナエがきっぱりと言った。


「なぜなら、あなたは彼らにとって最大の脅威だからです」


「私が…?」


「そう、新たな『神』として」


アルバが珍しく真剣な表情で言った。


「君の力は、彼らを脅かすに十分なんだ」


「だから保護する必要がある」


ジンが短く言った。それは彼の口から発せられた最も長い文章だった。


「けど…私の力なんて、まだ…」


「だからこそ、今が重要なのです」


ソフィアが優しく天音の手を取った。


「あなたの力が完全に目覚める前に、彼らは行動を起こすでしょう」


「具体的な対策は?」


晴翔が実用的な質問をした。


「まず、常時監視体制を敷きます」


叶絵が答えた。


「四天王が学校内で、我々が校外で天音さんを守ります」


「それだけ?」


「いいえ」


カナエが続けた。


「最も重要なのは、天音さんの力を強化することです」


「強化?」


「はい」


ソフィアが頷いた。


「あなたの力をコントロールし、より強く、より安定させる必要があります」


「でも、どうやって…?」


「私が教えましょう」


ソフィアの言葉に、全員が驚いた表情を見せた。


「あなたが…?」


天音が目を丸くした。


「はい。実は…私もかつて『神』の力を持っていました」


「え!?」


衝撃的な告白に、部屋中が騒然となった。


「どういうことだ?」


晴翔が立ち上がって叫んだ。


「落ち着いてください」


叶絵が手を上げた。


「ソフィアさんは…特別な存在です。彼女の経歴は神狩り組織でも伝説とされています」


「説明してくれ」


晴翔は席に戻りながらも、ソフィアを鋭く見つめた。


ソフィアは深いため息をついた。彼女の目は、はるか遠い過去を見つめているようだった。


「それは…七十年前のことです」


「七十年…?」


美羽は驚いて声を上げた。


「そんなに昔…? ってことは、ソフィアさん、実際の年齢は…」


「九十歳です」


ソフィアは微笑んだ。若々しい外見からは想像もつかない年齢だ。


「私も若かりし頃、あなたと同じように『神』の力に目覚めました。しかし…」


彼女の表情が暗くなった。


「制御できませんでした。そして…大切な人たちを失いました」


重い沈黙が部屋を支配した。


「その後、私は神狩り組織に保護され…そして自分の力を封印ふういんすることを選びました」


「封印…?」


天音が小さな声で繰り返した。


「はい。力と引き換えに、寿命を得たのです」


「でも、それって…」


「それが私の選択でした」


ソフィアはきっぱりと言った。


「しかし、あなたはその必要はないでしょう。私の失敗から学び、力をコントロールすれば」


「ソフィアさんは…私を導いてくれるの?」


「はい。それが今の私の使命です」


天音はしばらく考え込んだ後、決意を固めたように顔を上げた。


「お願いします、ソフィアさん。力の使い方を教えてください」


ソフィアは優しく微笑んだ。その笑顔には、どこか母親のような温かさがあった。


「喜んで」


ようやく緊張が解けたのか、美羽が大きく伸びをした。


「ふぅ〜、なんだか重苦しい雰囲気だったけど…これで少し安心したかも」


「まだ安心は早いわ」


カナエが冷静に言った。


「旧神たちの動きは予測不能です」


「それに」


アルバが珍しく真面目な表情で付け加えた。


「彼らにも『使者』がいる。人間の姿をした、危険な存在たち」


「使者…」


晴翔は眉をひそめた。


「理子のように、器になる人間ってこと?」


「いいえ、もっと危険です」


ジンが言った。


「旧神の力を宿した人間ではなく、初めから旧神に忠誠を誓う者たち」


「そして、彼らはすでに動いています」


叶絵はモニターに新しい画像を表示した。それは妙典みょうでん駅の防犯カメラ映像だった。そこには不自然なほど背の高い男性が映っている。黒いコートを着て、顔をおおい隠している。


「これは三日前の映像です」


「何者なの…?」


「分析の結果、ヘカトールへかとーるの使者と思われます」


カナエが説明した。


「まだ他の二柱の使者は確認されていませんが、彼らも必ず現れるでしょう」


「じゃあ、もうすぐ戦いが…」


晴翔の言葉は重かった。


「そうなる前に、天音さんの訓練を急がねばなりません」


ソフィアが言った。


「明日から始めましょう。放課後、ここで」


「はい」


天音は決意を込めて頷いた。


「でも、学校は…」


「心配ありません」


カナエが言った。


「私が教師として、全て手配します」


「それは助かるけど…」


晴翔はまだ四天王に対する不信感を完全には拭えないようだった。


「いいかい、朝霧くん」


アルバが珍しく真剣な調子で言った。


「僕たちはもう敵じゃない。同じ目的を持つ仲間だ」


「仲間…か」


「ただ命令に従っているだけだ」


ジンは相変わらず無表情だった。


「だが…任務は天音を守ること」


「それじゃあ、明日からは『天秤の守護者』と『四天王』の共同作戦ということね!」


美羽は明るく言った。彼女の前向きさは、重苦しい雰囲気を少し和らげた。


「その通りです」


叶絵が頷いた。


「協力して初めて、旧神に立ち向かえるのです」


「分かりました」


晴翔もようやく頷いた。


「俺たちもベストを尽くします」


「素晴らしい」


ソフィアが満足げに微笑んだ。


「では、今日はここまでにしましょう。皆さん、お疲れ様でした」


会議は終わり、それぞれ帰路につく準備をした。しかし、部屋を出る前に、ソフィアが天音を呼び止めた。


「少しよろしいですか?」


「はい?」


天音が振り返ると、ソフィアは小さな水晶すいしょうのペンダントを差し出した。


「これを」


「これは…?」


「力のコントロールを助ける護符ごふです」


「ありがとう…」


天音はペンダントを受け取った。それは不思議と温かく、手に馴染むような感触だった。


「毎日身につけていてください。そして、時々閉じた目でそれを思い浮かべてください」


「はい、わかりました」


「そして…」


ソフィアは周りに誰もいないことを確認してから、小声で続けた。


「どうか、力を恐れないでください」


「恐れない…?」


「そう。恐れこそが、力の暴走を招くのです」


天音は深く考え込んだ。


「でも…この力が危険なのは…」


「力そのものに善悪はありません」


ソフィアは優しく言った。


「それをどう使うかが問題なのです」


「どう使うか…」


「あなたはきっと、正しく使えるでしょう」


ソフィアの目には確信があった。


「なぜなら、あなたには愛する人たちがいるから」


「晴翔や、みんなのこと?」


「ええ。あなたの心は純粋だし、友人や家族を大切にしている」


ソフィアは微笑んだ。


「その心があれば、力は必ず味方になります」


「ありがとう、ソフィアさん」


天音は思わず頭を下げた。初めて会った日は敵だと思っていた相手が、今は頼もしい師となっている。世界は不思議に満ちている。


「さあ、弟さんが待っていますよ」


「ええ」


天音はペンダントを首にかけ、部屋を出た。


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