授業が終わる鐘が鳴り響く中、
「朝霧くん、あんた全然聞いてなかったでしょ」
「あー、まあな」
「カナエ先生の授業、意外と分かりやすかったのに。損したね〜」
「敵の戦術を学ぶ気にはなれないよ」
晴翔は渋い顔で答えた。彼の視線はまだ教壇に向けられている。カナエは教科書を閉じ、さっとアルバの方を見た。二人の間に無言の了解があるようだ。
美羽が言いかけたとき、
「朝霧、結城、行くぞ」
三人は無言で立ち上がり、教室を出た。
「どうしたの?」
美羽が心配そうに尋ねた。
「ジンが…午後中ずっと私を監視していた」
蓮は不快感を
「まるで獲物を狙う猛禽類のような目で」
「あいつは危険だ」
晴翔が唇を
「信用できない」
「私たちの力を測っているのかもしれませんね」
直人が眼鏡を上げながら言った。
「特に、蓮の予知能力は脅威だと判断しているのでしょう」
四人は静かに校舎を後にした。校門に向かう途中、上級生の教室から出てきた
「お姉ちゃん!」
晴翔が警戒心をむき出しにしながら近づいた。
「大丈夫?」
「ええ」
天音は微笑んだ。彼女の表情は意外にも穏やかだった。
「ソフィアさん、とても親切にしてくれたの」
「そうなの?」
美羽は半信半疑だった。
「ええ」
ソフィアはゆっくりと頭を下げた。その動作には年齢を感じさせない優雅さがある。
「天音さんとお話しできて、私もとても勉強になりました」
「勉強?」
晴翔はまだ疑いの目を向けている。
「そう…『神』についての理解を深めるのは、私の使命でもあるのです」
ソフィアの言葉には、どこか
「あなたは…特別な存在です」
「私にはまだよく分からないけど…」
天音はそう言いながらも、ソフィアに対して不思議な親近感を覚えていた。
一行は校門に向かって歩き出した。門の近くには、既にカナエとアルバ、そしてジンが待っていた。さらにその隣には、見慣れた顔―
「お待ちしていました」
叶絵はいつもの冷静さで挨拶した。彼女は黒いスーツに身を包み、まるで
「何も言わないで、私についてきてください」
「どこへ行くの?」
美羽が好奇心を隠せずに尋ねた。
「安全な場所です」
叶絵はそれだけ言って、一行を率いて歩き始めた。
彼らが向かったのは、駅から少し離れた古びたビルだった。「アパートメント妙典」という看板が掲げられているが、どう見ても人が住んでいるようには見えない。
「ここが…?」
晴翔が眉をひそめた。
「臨時作戦本部です」
叶絵が鍵を開けて中に入った。
驚いたことに、室内は外観とは裏腹に、近代的な設備が整っていた。大きなテーブルを中心に、壁一面のモニターやコンピューター機器が並んでいる。まるで映画に出てくるスパイの
「すごーい!」
美羽は目を輝かせた。
「映画みたい!」
「座ってください」
叶絵はテーブルを囲む椅子を指し示した。
九人全員が着席すると、叶絵がモニターを操作し始めた。画面には複雑な図表や文字が表示される。
「では、状況説明を始めます」
彼女の声は引き締まっていた。
「まず、イシュタリア封印作戦は成功しました。しかし…」
彼女は一瞬口を閉ざし、重々しい表情で続けた。
「新たな動きが検知されています」
モニターには日本地図が表示され、いくつかの地点が赤く点滅していた。そのうちの一つが妙典の位置だ。
「これらの地点で、超常現象が報告されています」
「超常現象?」
直人が関心を持って前のめりになった。
「具体的には?」
「虹色の空、地震、そして…黒い影」
叶絵の言葉に、全員が息を飲んだ。
「これは…」
天音が小さな声で言った。
「イシュタリアと同じ…」
「正確には、別の旧神たちの活動痕跡です」
カナエが冷静に言った。
「組織の分析によれば、少なくとも三柱の旧神が現在、活動を開始していると思われます」
「三柱も…!」
晴翔は顔色を変えた。
「名前は?」
蓮が静かに尋ねた。
「
ソフィアが古い記憶を
「それぞれギリシャ、バビロニア、北欧の神話に登場する強大な存在です」
「でも、それらは単なる神話じゃないの?」
美羽が首を傾げた。
「実在するの?」
「神話はしばしば、実際の出来事の
ソフィアは静かに説明した。
「古代の人々は、理解できない現象を説明するために神話を作り出しました。しかし、その核心には真実があるのです」
「それで、その旧神たちが…何をしようとしてるの?」
天音が恐る恐る尋ねた。
「あなたを狙っています」
カナエがきっぱりと言った。
「なぜなら、あなたは彼らにとって最大の脅威だからです」
「私が…?」
「そう、新たな『神』として」
アルバが珍しく真剣な表情で言った。
「君の力は、彼らを脅かすに十分なんだ」
「だから保護する必要がある」
ジンが短く言った。それは彼の口から発せられた最も長い文章だった。
「けど…私の力なんて、まだ…」
「だからこそ、今が重要なのです」
ソフィアが優しく天音の手を取った。
「あなたの力が完全に目覚める前に、彼らは行動を起こすでしょう」
「具体的な対策は?」
晴翔が実用的な質問をした。
「まず、常時監視体制を敷きます」
叶絵が答えた。
「四天王が学校内で、我々が校外で天音さんを守ります」
「それだけ?」
「いいえ」
カナエが続けた。
「最も重要なのは、天音さんの力を強化することです」
「強化?」
「はい」
ソフィアが頷いた。
「あなたの力をコントロールし、より強く、より安定させる必要があります」
「でも、どうやって…?」
「私が教えましょう」
ソフィアの言葉に、全員が驚いた表情を見せた。
「あなたが…?」
天音が目を丸くした。
「はい。実は…私もかつて『神』の力を持っていました」
「え!?」
衝撃的な告白に、部屋中が騒然となった。
「どういうことだ?」
晴翔が立ち上がって叫んだ。
「落ち着いてください」
叶絵が手を上げた。
「ソフィアさんは…特別な存在です。彼女の経歴は神狩り組織でも伝説とされています」
「説明してくれ」
晴翔は席に戻りながらも、ソフィアを鋭く見つめた。
ソフィアは深いため息をついた。彼女の目は、はるか遠い過去を見つめているようだった。
「それは…七十年前のことです」
「七十年…?」
美羽は驚いて声を上げた。
「そんなに昔…? ってことは、ソフィアさん、実際の年齢は…」
「九十歳です」
ソフィアは微笑んだ。若々しい外見からは想像もつかない年齢だ。
「私も若かりし頃、あなたと同じように『神』の力に目覚めました。しかし…」
彼女の表情が暗くなった。
「制御できませんでした。そして…大切な人たちを失いました」
重い沈黙が部屋を支配した。
「その後、私は神狩り組織に保護され…そして自分の力を
「封印…?」
天音が小さな声で繰り返した。
「はい。力と引き換えに、寿命を得たのです」
「でも、それって…」
「それが私の選択でした」
ソフィアはきっぱりと言った。
「しかし、あなたはその必要はないでしょう。私の失敗から学び、力をコントロールすれば」
「ソフィアさんは…私を導いてくれるの?」
「はい。それが今の私の使命です」
天音はしばらく考え込んだ後、決意を固めたように顔を上げた。
「お願いします、ソフィアさん。力の使い方を教えてください」
ソフィアは優しく微笑んだ。その笑顔には、どこか母親のような温かさがあった。
「喜んで」
ようやく緊張が解けたのか、美羽が大きく伸びをした。
「ふぅ〜、なんだか重苦しい雰囲気だったけど…これで少し安心したかも」
「まだ安心は早いわ」
カナエが冷静に言った。
「旧神たちの動きは予測不能です」
「それに」
アルバが珍しく真面目な表情で付け加えた。
「彼らにも『使者』がいる。人間の姿をした、危険な存在たち」
「使者…」
晴翔は眉をひそめた。
「理子のように、器になる人間ってこと?」
「いいえ、もっと危険です」
ジンが言った。
「旧神の力を宿した人間ではなく、初めから旧神に忠誠を誓う者たち」
「そして、彼らはすでに動いています」
叶絵はモニターに新しい画像を表示した。それは
「これは三日前の映像です」
「何者なの…?」
「分析の結果、
カナエが説明した。
「まだ他の二柱の使者は確認されていませんが、彼らも必ず現れるでしょう」
「じゃあ、もうすぐ戦いが…」
晴翔の言葉は重かった。
「そうなる前に、天音さんの訓練を急がねばなりません」
ソフィアが言った。
「明日から始めましょう。放課後、ここで」
「はい」
天音は決意を込めて頷いた。
「でも、学校は…」
「心配ありません」
カナエが言った。
「私が教師として、全て手配します」
「それは助かるけど…」
晴翔はまだ四天王に対する不信感を完全には拭えないようだった。
「いいかい、朝霧くん」
アルバが珍しく真剣な調子で言った。
「僕たちはもう敵じゃない。同じ目的を持つ仲間だ」
「仲間…か」
「ただ命令に従っているだけだ」
ジンは相変わらず無表情だった。
「だが…任務は天音を守ること」
「それじゃあ、明日からは『天秤の守護者』と『四天王』の共同作戦ということね!」
美羽は明るく言った。彼女の前向きさは、重苦しい雰囲気を少し和らげた。
「その通りです」
叶絵が頷いた。
「協力して初めて、旧神に立ち向かえるのです」
「分かりました」
晴翔もようやく頷いた。
「俺たちもベストを尽くします」
「素晴らしい」
ソフィアが満足げに微笑んだ。
「では、今日はここまでにしましょう。皆さん、お疲れ様でした」
会議は終わり、それぞれ帰路につく準備をした。しかし、部屋を出る前に、ソフィアが天音を呼び止めた。
「少しよろしいですか?」
「はい?」
天音が振り返ると、ソフィアは小さな
「これを」
「これは…?」
「力のコントロールを助ける
「ありがとう…」
天音はペンダントを受け取った。それは不思議と温かく、手に馴染むような感触だった。
「毎日身につけていてください。そして、時々閉じた目でそれを思い浮かべてください」
「はい、わかりました」
「そして…」
ソフィアは周りに誰もいないことを確認してから、小声で続けた。
「どうか、力を恐れないでください」
「恐れない…?」
「そう。恐れこそが、力の暴走を招くのです」
天音は深く考え込んだ。
「でも…この力が危険なのは…」
「力そのものに善悪はありません」
ソフィアは優しく言った。
「それをどう使うかが問題なのです」
「どう使うか…」
「あなたはきっと、正しく使えるでしょう」
ソフィアの目には確信があった。
「なぜなら、あなたには愛する人たちがいるから」
「晴翔や、みんなのこと?」
「ええ。あなたの心は純粋だし、友人や家族を大切にしている」
ソフィアは微笑んだ。
「その心があれば、力は必ず味方になります」
「ありがとう、ソフィアさん」
天音は思わず頭を下げた。初めて会った日は敵だと思っていた相手が、今は頼もしい師となっている。世界は不思議に満ちている。
「さあ、弟さんが待っていますよ」
「ええ」
天音はペンダントを首にかけ、部屋を出た。