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📚閑話集③

side talk:蓮の予知夢 ~見えない明日を歩く方法~

 『あねかみ』本編で描かれる神となった姉と、それを守る弟の物語。その始まりの約一週間前、市川市立妙典南高校いちかわしりつみょうてんみなみこうこうの屋上で、望月蓮もちづきれんが初めて「大きな異変」の予兆を見た日の記録である。


 五月の爽やかな風が、校舎の屋上を優しくでていく。昼休みのこの時間、ほとんどの生徒が教室や中庭で弁当べんとうを広げる中、一人の少年が空を見上げていた。


 銀髪ぎんぱつのその少年は、望月蓮もちづきれん。クラスでは「不思議系男子」として知られる存在だ。彼の眼差しは、今目の前にある青空よりもっと遠くを見つめているようだった。


「やっぱり、変な感じがするんだよなぁ...」


 蓮は小さくつぶやいた。昨夜見た夢のことが、まだ頭から離れない。いつもの「予知夢」とは違う、何か大きなものの気配けはいを感じる夢だった。


 屋上のドアが開く音がして、蓮は振り返った。


「あ、朝霧あさぎりくん」


 訪れたのは朝霧晴翔あさぎりはるとだった。クラスメイトではあるが、特に親しいわけではない。むしろ、蓮は彼に対して漠然とした畏怖いふの念のようなものを感じていた。


「望月か」晴翔は少し驚いたように言った。「珍しいね、ここにいるなんて」


「うん、ちょっと頭を冷やしたくて」蓮は軽く笑いながら答えた。


 晴翔は蓮の隣に立ち、遠くの景色を眺め始めた。少しの間、二人の間に沈黙が流れる。


「なぁ、朝霧あさぎりくん」蓮が突然口を開いた。「今、何か変わったこと、ない?」


「変わったこと?」晴翔は眉を寄せた。「どういう意味?」


「うーん...」蓮は言葉を探すように上を向いた。「なんていうか、空気が変わったっていうか...何か大きなことが始まりそうな感じ」


 晴翔の表情が一瞬、こわばったように見えた。しかし、すぐに普段の穏やかな表情に戻る。


「特に思い当たることはないけど...」晴翔はそう言いながらも、どこか警戒している様子だった。「なんで?」


「ん~、なんとなく」蓮は軽く肩をすくめた。「最近、変な夢を見るんだ」


◆◆◆


 蓮が「予知夢」を見ることは、クラス内ではちょっとした噂話うわさばなしになっていた。テストの問題を当てたり、天気を予言したり。本人は「たまたま」と言うけれど、当たる確率が高すぎるのだ。


 しかし蓮自身は、この能力を特別なものとは思っていなかった。彼にとっては、ただの「少し先の未来が見える」だけのこと。ちょっと厄介やっかいな特技のようなものだった。


「夢?」晴翔の声には、わずかな緊張感が混じっていた。


「うん」蓮はのんびりと答えた。「空が割れて、光の柱が立つんだ。その中心に女の子がいて...」


 蓮が言葉を続けようとした時、晴翔が突然彼の腕を掴んだ。


「それ以上、詳しく言わないでくれ」


 晴翔の表情は真剣そのものだった。蓮は驚いて目を丸くした。


「え? どうして...?」


「ただの勘だけど」晴翔は声を落とした。「その夢のこと、他の人には話さない方がいい」


 蓮は混乱した。晴翔がこんな反応をするとは思っていなかった。しかし、彼の眼差しには嘘がなさそうだ。


「わかった...」蓮は小さく頷いた。「でも、その夢の意味がわかるの?」


 晴翔は少し間を置いて答えた。


「わからない。だけど...」


 彼は言葉を選ぶように慎重に続けた。


「もし本当に何かが起きるなら、その時は力を貸してほしい」


 蓮は晴翔をじっと見つめた。二人はそれほど親しくなかったはずなのに、なぜか晴翔の言葉に強く惹かれるものを感じた。


「いいよ」蓮は自然に答えた。「僕にできることなら」


 晴翔の表情が少し和らいだ。


「ありがとう」


 屋上のチャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げる。


「授業に戻ろうか」晴翔は言った。


「うん」


 二人は並んで屋上を後にした。蓮には、これが何かの始まりのように感じられた。


◆◆◆


 その日の放課後、蓮は一人で江戸川えどがわ堤防ていぼうを歩いていた。夕日に照らされた川面が煌々こうこうと輝いている。


「あれ? 望月もちづきくん?」


 後ろから声がして振り返ると、朝霧天音あさぎりあまねが立っていた。晴翔の姉だ。蓮は学校で彼女を見かけたことはあったが、話したことはなかった。


「あ、こんにちは...朝霧あさぎりさん」


「こんにちは」天音はゆったりとした口調で答えた。「一人で散歩?」


「うん、頭を整理したくて」


「そっか」天音は蓮の隣に立ち、川を眺めた。「きれいな夕日だね」


 蓮は天音を横目よこめで見た。晴翔と似た優しい雰囲気があるが、彼女にはもっとおだやかな、どこか神秘的しんぴてきな空気が漂っている。


 そして、ふと気づいた。彼女の周りの空気が、わずかにゆがんでいるように見える。それは昨夜の夢で見た光の輪に似ていた。


「あの...」蓮は思わず口を開いた。


「ん?」


「朝霧さんは、最近変わったこと、ない?」


 晴翔に同じ質問をしたことを思い出す。天音は少し考えてから答えた。


「変わったこと...? うーん、特には...」


 彼女は首を傾げたが、すぐに笑顔になった。


「でもね、最近空を見るのが好きになったかな」


「空?」


「うん」天音は上を向いた。「なんだか空が、もっと近くに感じるんだ」


 蓮は彼女の言葉に、小さな震撼しんかんを覚えた。夢の中で見た光の柱と空が割れる光景。まさか...。


望月もちづきくん? どうしたの?」


 天音の声で我に返る。


「あ、ごめん」蓮は慌てて笑顔を作った。「ちょっと考え事してた」


「そっか」天音は気にした様子もなく微笑んだ。「あ、そういえば、はるとと同じクラスなんだよね?」


「うん、そうだよ」


「いつも弟がお世話になってるみたい」天音は優しく言った。「はると、友達のこといつも楽しそうに話すんだ」


 蓮は少し驚いた。晴翔が自分のことを話しているとは思わなかった。


「そうなんだ...」


「うん」天音はうなずいた。「特に望月もちづきくんのこと、『面白い』って言ってたよ」


「え?」蓮は思わず声を上げた。「僕のこと?」


 天音はくすくすと笑った。


「ええ。『未来なんて歩いてたら変わるって言うんだ』って」


 蓮は自分が言ったことを思い出した。確かにクラスで何度か、そんなことを口にしたかもしれない。でも、晴翔がそれを覚えているとは。


「そっか...」


 なぜか嬉しい気持ちになった。


 二人はしばらく無言で夕日を眺めていた。静かな時間が流れる。


「あのね、望月もちづきくん」天音が突然真剣な表情で言った。「もし...わたしが変わっちゃったら、はるとのこと、見守ってあげて」


「え?」


 突然の言葉に、蓮は驚いた。天音は何を言っているのだろう? 彼女自身も、自分の未来について何か感じているのだろうか。


「いや、なんでもない」天音はすぐに明るい声に戻った。「変なこと言っちゃって、ごめんね」


「ううん...」


 蓮は彼女の言葉の意味を考えていた。その時、彼の頭に昨夜の夢の続きのようなイメージが浮かんだ。光の中心にいた女の子の姿が、天音と重なった。


「朝霧さん」蓮は思い切って言った。「僕、たまに変な夢を見るんだ」


「夢?」


「うん」蓮は慎重に言葉を選んだ。「未来っぽいことが見える夢」


 天音は少し驚いたように蓮を見た。


「予知夢...みたいなもの?」


「そんな大げさなものじゃないけどね」蓮は照れたように笑った。「でも、最近見た夢は...今までと違う」


「どう違うの?」


「うーん...」蓮は空を見上げた。「もっと大きな、世界が変わるような感じがする」


 天音の表情が少し曇った。彼女も何か感じているようだ。


「そっか...」


 沈黙が流れた後、天音が小さく言った。


「怖くない?」


 蓮は驚いた。普通なら「本当に?」とか「詳しく教えて」と言われることが多い。でも天音は違った。彼女は蓮の気持ちを気にかけている。


「正直、少し怖いよ」蓮は素直に答えた。「でも、未来なんて歩いてたら変わるんだよ」


 天音の表情が明るくなった。


「そうだね」彼女は微笑んだ。「それ、いい言葉だね」


「ありがとう」


 夕日がほぼ沈み、薄闇うすやみが二人を包み始めていた。


「もう遅いから、帰ろっか」天音が言った。


「うん」


 二人は並んで堤防を歩き始めた。


◆◆◆


 その夜、蓮は再び「あの夢」を見た。


 空が割れ、巨大な光の柱が大地を貫く。その中心に立つのは朝霧天音あさぎりあまね。彼女の周りを渦巻うずまく光の波動はどうが、世界を変えていく。


 そして今回は、夢の続きも見えた。光の外側で必死に手を伸ばす晴翔の姿。彼の周りには、結城美羽ゆうきみう鴻上直人こうがみなおと千早理子ちはやりこ南雲奈央なぐもなお、そして自分自身の姿もあった。


 目が覚めると、蓮の頬は涙で濡れていた。夢の中の感情が残っているのだ。恐怖、不安、そして...希望。


「やっぱり...」


 蓮はベッドから起き上がり、窓を開けた。朝の空気が部屋に流れ込む。まだ薄暗い空には、最後の星がかすかに瞬いていた。


「未来は変えられる」


 蓮は小さく呟いた。夢がどんなに不吉ふきつでも、それは一つの可能性に過ぎない。大事なのは、今この瞬間に何を選ぶかだ。


 彼は決意した。晴翔の言葉を思い出す。「力を貸してほしい」。


「もちろん、力になるよ」蓮は空に向かって言った。「未来なんて、一人で作るものじゃないもんね」


 朝日がのぼり始め、新しい一日の始まりを告げていた。蓮には、これからの日々が大きく変わることが確かに感じられた。でも、もう怖くはなかった。


 見えない明日も、友達と一緒なら歩いていける。


 そう信じて、蓮は新しい朝に向かって歩き出した。


◆◆◆


 その日の放課後、蓮は校門で晴翔を待っていた。


「あれ、望月?」晴翔は少し驚いた様子で近づいてきた。


「よお」蓮はいつもの能天気のうてんきな笑顔で手を上げた。


「どうしたの?」


「あのさ」蓮は真剣な表情になった。「この前言ってたこと、覚えてる?」


 晴翔の表情が引き締まった。


「ああ」


「力になるって言ったよね」蓮は続けた。「その気持ち、変わってないよ」


 晴翔はしばらく蓮を見つめた後、小さく頷いた。


「ありがとう」


「それと...」蓮は少し躊躇ちゅうちょいながらも言った。「昨日、お姉さんと話したんだ」


「え?」晴翔は驚いた様子だった。


「偶然、堤防で会ってね」蓮は説明した。「天音さん、なんか...変わりそうなこと、感じてるみたい」


 晴翔の表情から血の気が引いた。


「何を話した?」


「詳しくは言えなかったけど」蓮は空を見上げた。「僕の夢のこと、少しだけ」


 晴翔はため息をついた。


「そうか...」


「でも大丈夫だよ」蓮は明るく言った。「未来は変えられるから」


 晴翔の表情が少し和らいだ。


「望月...いや、蓮」


 初めて名前で呼ばれ、蓮は少し驚いた。


「なに?」


「もし何かあったら...」晴翔は真剣な眼差しで言った。「その時は頼りにするよ」


 蓮は胸を張った。


「任せて! 未来予知の特典、フル活用だよ」


 晴翔は笑った。その笑顔には少し安堵の色が見えた。


「じゃあ、またね」蓮は手を振った。


「ああ」


 蓮が帰る途中、空を見上げると、雲の間からまぶしい光が差していた。


「きっと大丈夫」


 彼は小さく呟いた。未来がどう変わろうと、自分には友達がいる。たとえ神の力が世界を変えようとも、共に立ち向かう仲間がいる。


 それだけで十分だった。


 数日後、朝霧天音あさぎりあまねが神として覚醒し、世界が大きく変わり始める。その時、望月蓮もちづきれんの予知夢は現実となる。しかし彼は、もう未来を恐れてはいなかった。


 見えない明日を歩く方法は、一人ではなく、仲間と共に進むこと。


 蓮はそれを知っていた。


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