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side talk:奈央のお菓子 ~伝えられない気持ちのレシピ~

 『あねかみ』本編の物語が始まる直前、朝霧天音あさぎりあまねが「神」として目覚める約四日前。南雲奈央なぐもなおが自分の気持ちをり込んだお菓子を作り、それが思わぬ形で「神の力」に影響を与えた小さな物語。


 五月の爽やかな風が、市川市立妙典南高校いちかわしりつみょうてんみなみこうこうの家庭科室の窓から入り込んでいた。放課後の静かな時間、一人の少女が真剣な表情で生地きじねている。


 南雲奈央なぐもなおは、クラスの「癒し系お姉さん」として知られる女子高生だ。優しい笑顔と包み込むような柔らかな物腰で、誰からも好かれる存在。しかし今、彼女の表情には、いつもの穏やかさの中に、どこかうれいをおびびた影が見えた。


「よし、この配合でいこう」


 奈央は小さく呟いた。手元のレシピノートには、何度も修正された数字と材料の名前が並んでいる。「特製マドレーヌ」と題された独自どくじのレシピだ。


 ドアが開く音がして、奈央は振り返った。


「あ、朝霧あさぎりさん」


 入ってきたのは朝霧天音あさぎりあまねだった。一学年上の先輩で、朝霧晴翔あさぎりはるとの姉だ。


「あら、南雲なぐもさん」天音はのんびりとした口調で言った。「こんな時間まで何してるの?」


「マドレーヌを焼いてるんです」奈央は微笑んだ。「明日のお茶会用に」


「へぇ~、すごいね」天音は興味深そうに近づいてきた。「わたしもお菓子作り好きなんだ。でも、あんまり上手くないんだよね~」


 天音はそう言いながら、奈央の横に立ち、作業を覗き込んだ。


「先輩も料理部なんですか?」奈央が尋ねた。


「ううん、趣味でね」天音は首を振った。「はるとがいつも『姉ちゃんの作るケーキは形は悪いけど味はいい』って言ってくれるの」


 奈央は微笑んだ。朝霧兄妹の仲の良さは、学校でも有名だった。


「朝霧くん、優しいんですね」


「うん、はるとはね」天音は柔らかな表情で言った。「ちょっと心配性だけど、本当に優しい子なの」


 天音の言葉に、奈央の胸が少しめ付けられる感覚があった。それは羨ましさなのか、それとも...。


「あ、これマドレーヌの型?」天音が作業台を指さした。


「はい」奈央は頷いた。「今日は少し特別なレシピで作ってみようと思って」


「特別?」


「はい...」奈央は少しずかしそうに言った。「私、お菓子には作る人の気持ちが入ると思ってるんです」


 天音の目が輝いた。


「わかる! わたしもそう思うの!」彼女は熱心に言った。「だから姉ちゃんの作ったケーキが好きって、はるとは言ってくれるんだと思う」


 奈央は嬉しそうに頷いた。心が通じ合う感覚があった。


「それで、どんな気持ちを入れるの?」天音が無邪気に尋ねた。


 奈央の頬が赤くなった。


「それは...秘密です」


 天音はくすくす笑った。


「いいよいいよ。秘密、守るね」


 奈央は感謝の笑顔を向けた。そんな天音を見て、なぜか彼女にも何か特別なものを感じた。言葉では表現できない、不思議な存在感そんざいかん


「あの、先輩」奈央は思い切って言った。「よかったら、一緒に作りませんか?」


「えっ、いいの?」天音は驚いたように目を丸くした。


「はい」奈央は頷いた。「私、作るの楽しいけど、誰かと一緒だともっと楽しいなって」


「うん! やってみたい!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「でも、あんまり上手くないよ?」


「大丈夫です」奈央は優しく笑った。「コツを教えますから」


 そうして二人の「マドレーヌ作り共同作業」が始まった。


◆◆◆


 混ぜ合わせた生地を型に流し込みながら、奈央は天音と会話を続けていた。


「それで、先輩はどうしてお菓子作りを始めたんですか?」


「うーん」天音は考え込むように言った。「小さい頃、はるとが泣いてたときに、お母さんが作ったクッキーであやしてたのを見てからかな」


「へえ」


「あのとき思ったの」天音は真剣な表情で続けた。「お菓子って、人を笑顔にする力があるんだって」


 奈央は静かに頷いた。それは彼女自身の思いとも重なっていた。


「南雲さんは?」天音が尋ね返した。


「私は...」奈央は少し遠い目をした。「兄がいたんです。小さい頃に亡くなったんですけど...」


「あ、ごめん...」天音の表情が曇った。


「いえ、大丈夫です」奈央は優しく微笑んだ。「兄は病気で長くせっていたんですけど、いつも『奈央のお菓子が食べたい』って言ってくれて...」


 奈央は生地を丁寧に型に流し込みながら続けた。


「それで、母に教えてもらいながら、いろんなお菓子を作って。兄が笑顔で食べてくれるのが、私の幸せだったんです」


 天音は黙って聞いていた。彼女の瞳には、深い理解の色が浮かんでいた。


「最後に食べてくれたのは、このマドレーヌだったんです」奈央は小さく続けた。「だから、私にとって特別なお菓子なんです」


 天音はそっと奈央の手に触れた。


「素敵な思い出だね」


 奈央は頷いた。そして、少し勇気を出して言った。


「実は...今日作るのは、誰かに届けたい気持ちがあって」


「誰か...」天音は意味ありげな笑みを浮かべた。「もしかして、はると?」


 奈央は目をつむり、首を横に振る。


 天音は残念そうに呟く。「じゃあ、やっぱり...鴻上こうがみくんかな」


 奈央の顔が一気に真っ赤になった。


「……誰にも、知られていないと、思って…いたんですが。」


「ふふ、わたし、けっこう勘がいいんだよ」天音は楽しそうに言った。「南雲さんが鴻上こうがみくんを見る目が、特別なんだもん」


 奈央は言葉を失った。そんなに分かりやすかったのだろうか。


「大丈夫、誰にも言わないよ」天音は優しく微笑んだ。「それにしても、鴻上こうがみくんは難しそうだね...あんなに理論的で」


「そこが...素敵なんです」奈央は小さな声で言った。「喧嘩はするんですが、いつも筋道立てて考えて、でも本当は優しくて...」


 天音は感心したように頷いた。


「南雲さんは人の良いところをよく見つけるね」


「実は...今日作るのは、鴻上こうがみくんに届けたい気持ちがあって」


「それで、どんな気持ちを込めるの?」天音は優しく尋ねた。


「『少し休んでほしい』という気持ちです」奈央はレシピノートを見つめながら言った。「鴻上こうがみくんって、いつも理論的に考えすぎて...休まないんです」


 天音は興味深そうに頷いた。


「たしかに、鴻上こうがみくんはそんな感じだね」


「でも、休むことも大切だって...伝えたくて」奈央は続けた。「言葉じゃなくて、お菓子の味で」


 天音の表情が優しく、そして少し物憂ものうげになった。


「素敵な気持ちだね...」


 彼女は窓の外を見つめながら続けた。


鴻上こうがみくんも、はるとも、いつも頑張り屋さんだから」


 奈央には、天音の言葉に何か深い意味があるように感じられた。何か大きな問題を抱えているような...。


「先輩...何かあったんですか?」


 天音は少し驚いたように奈央を見た後、柔らかく微笑んだ。


「ううん、なんでもないよ」彼女は首を振った。「ただ最近、なんだか変な夢を見るんだ」


「夢?」


「うん」天音は少し遠慮えんりょがちに言った。「空が割れて、光が降ってくる夢...」


 奈央は思わず手を止めた。なぜだか、彼女の言葉に強く惹かれるものを感じた。


「それって...」


「変な話でごめんね」天音はすぐに明るい声に戻った。「さ、オーブン温まったみたいだよ」


 奈央は話題が変わったことに少し残念さを覚えつつも、続きを聞くのは控えた。天音が話したくないことなら、無理に聞くべきではない。それが彼女の「癒し系」としての直感だった。


「そうですね」奈央は笑顔を取り戻した。「焼きましょう」


◆◆◆


 オーブンからマドレーヌを取り出すと、教室に甘い香りが広がった。


「わぁ、いい香り...」天音は目を閉じて深く香りを吸い込んだ。


「うまくできたみたいですね」奈央も嬉しそうに言った。


 二人が作ったマドレーヌは、天音の作った方はやや形が崩れていたが、奈央の作った方は完璧な貝殻型に膨らんでいた。


「やっぱり下手だなぁ、わたし」天音は自分のマドレーヌを見て苦笑いした。


「いえ、色合いは素敵ですよ」奈央は慰めるように言った。「それに大事なのは形よりも...」


「気持ち、だよね」天音が言葉を継いだ。


 奈央は頷いた。


「冷めたら食べてみましょう」


 二人は片付けをしながら、マドレーヌが冷めるのを待った。


「そうだ」天音が突然言った。「明日、はるとたちとうちでお菓子作りする予定なんだけど、南雲さんも来ない?」


「え?」奈央は驚いた。「私も、いいんですか?」


「もちろん!」天音は明るく笑った。「結城ゆうきさんと千早ちはやさんも誘ってるんだ。鴻上こうがみくんも呼ぶつもりだよ」


 奈央の心臓が高鳴った。朝霧家でお菓子作り...しかも直人も一緒に。


「ぜひ行きたいです」奈央は笑顔で答えた。


「やった!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「鴻上こうがみくんに会えるね」


「そ、そうですけど...しばらくは、静観していてくださいね......」奈央は天音をまっすぐ見つめた。


 天音はクスクス笑った。


「あ、もうマドレーヌ冷めたかな?」気をそらすように天音が言った。


 二人は焼きたてのマドレーヌを小皿に取り分けた。


「いただきます」


 奈央と天音は同時に一口かじった。


「おいしい!」天音の目が輝いた。「南雲さんのマドレーヌ、すごく優しい味がする」


「ありがとうございます」奈央は嬉しそうに微笑んだ。「先輩のも、とても温かみがあって美味しいですよ」


「ほんと?」天音は照れたように笑った。「よかった...」


 奈央は天音のマドレーヌをもう一口。確かに形は不格好だけど、味には不思議なぬくもりがあった。それは単なる焼き菓子の味を超えた何かを感じさせる。


「先輩...」


「ん?」


「素敵です」奈央は真剣に言った。「先輩の作るお菓子には、本当に愛情が詰まってます」


 天音の目に、小さな涙が浮かんだ。


「ありがとう...」彼女は少しふるえる声で言った。「そう言ってもらえて嬉しい」


 二人は黙ってマドレーヌを味わった。窓から差し込む夕日が、教室を橙色だいだいいろに染めていた。



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