『あねかみ』本編の物語が始まる直前、
五月の爽やかな風が、
「よし、この配合でいこう」
奈央は小さく呟いた。手元のレシピノートには、何度も修正された数字と材料の名前が並んでいる。「特製マドレーヌ」と題された
ドアが開く音がして、奈央は振り返った。
「あ、
入ってきたのは
「あら、
「マドレーヌを焼いてるんです」奈央は微笑んだ。「明日のお茶会用に」
「へぇ~、すごいね」天音は興味深そうに近づいてきた。「わたしもお菓子作り好きなんだ。でも、あんまり上手くないんだよね~」
天音はそう言いながら、奈央の横に立ち、作業を覗き込んだ。
「先輩も料理部なんですか?」奈央が尋ねた。
「ううん、趣味でね」天音は首を振った。「はるとがいつも『姉ちゃんの作るケーキは形は悪いけど味はいい』って言ってくれるの」
奈央は微笑んだ。朝霧兄妹の仲の良さは、学校でも有名だった。
「朝霧くん、優しいんですね」
「うん、はるとはね」天音は柔らかな表情で言った。「ちょっと心配性だけど、本当に優しい子なの」
天音の言葉に、奈央の胸が少し
「あ、これマドレーヌの型?」天音が作業台を指さした。
「はい」奈央は頷いた。「今日は少し特別なレシピで作ってみようと思って」
「特別?」
「はい...」奈央は少し
天音の目が輝いた。
「わかる! わたしもそう思うの!」彼女は熱心に言った。「だから姉ちゃんの作ったケーキが好きって、はるとは言ってくれるんだと思う」
奈央は嬉しそうに頷いた。心が通じ合う感覚があった。
「それで、どんな気持ちを入れるの?」天音が無邪気に尋ねた。
奈央の頬が赤くなった。
「それは...秘密です」
天音はくすくす笑った。
「いいよいいよ。秘密、守るね」
奈央は感謝の笑顔を向けた。そんな天音を見て、なぜか彼女にも何か特別なものを感じた。言葉では表現できない、不思議な
「あの、先輩」奈央は思い切って言った。「よかったら、一緒に作りませんか?」
「えっ、いいの?」天音は驚いたように目を丸くした。
「はい」奈央は頷いた。「私、作るの楽しいけど、誰かと一緒だともっと楽しいなって」
「うん! やってみたい!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「でも、あんまり上手くないよ?」
「大丈夫です」奈央は優しく笑った。「コツを教えますから」
そうして二人の「マドレーヌ作り共同作業」が始まった。
◆◆◆
混ぜ合わせた生地を型に流し込みながら、奈央は天音と会話を続けていた。
「それで、先輩はどうしてお菓子作りを始めたんですか?」
「うーん」天音は考え込むように言った。「小さい頃、はるとが泣いてたときに、お母さんが作ったクッキーであやしてたのを見てからかな」
「へえ」
「あのとき思ったの」天音は真剣な表情で続けた。「お菓子って、人を笑顔にする力があるんだって」
奈央は静かに頷いた。それは彼女自身の思いとも重なっていた。
「南雲さんは?」天音が尋ね返した。
「私は...」奈央は少し遠い目をした。「兄がいたんです。小さい頃に亡くなったんですけど...」
「あ、ごめん...」天音の表情が曇った。
「いえ、大丈夫です」奈央は優しく微笑んだ。「兄は病気で長く
奈央は生地を丁寧に型に流し込みながら続けた。
「それで、母に教えてもらいながら、いろんなお菓子を作って。兄が笑顔で食べてくれるのが、私の幸せだったんです」
天音は黙って聞いていた。彼女の瞳には、深い理解の色が浮かんでいた。
「最後に食べてくれたのは、このマドレーヌだったんです」奈央は小さく続けた。「だから、私にとって特別なお菓子なんです」
天音はそっと奈央の手に触れた。
「素敵な思い出だね」
奈央は頷いた。そして、少し勇気を出して言った。
「実は...今日作るのは、誰かに届けたい気持ちがあって」
「誰か...」天音は意味ありげな笑みを浮かべた。「もしかして、はると?」
奈央は目をつむり、首を横に振る。
天音は残念そうに呟く。「じゃあ、やっぱり...
奈央の顔が一気に真っ赤になった。
「……誰にも、知られていないと、思って…いたんですが。」
「ふふ、わたし、けっこう勘がいいんだよ」天音は楽しそうに言った。「南雲さんが
奈央は言葉を失った。そんなに分かりやすかったのだろうか。
「大丈夫、誰にも言わないよ」天音は優しく微笑んだ。「それにしても、
「そこが...素敵なんです」奈央は小さな声で言った。「喧嘩はするんですが、いつも筋道立てて考えて、でも本当は優しくて...」
天音は感心したように頷いた。
「南雲さんは人の良いところをよく見つけるね」
「実は...今日作るのは、
「それで、どんな気持ちを込めるの?」天音は優しく尋ねた。
「『少し休んでほしい』という気持ちです」奈央はレシピノートを見つめながら言った。「
天音は興味深そうに頷いた。
「たしかに、
「でも、休むことも大切だって...伝えたくて」奈央は続けた。「言葉じゃなくて、お菓子の味で」
天音の表情が優しく、そして少し
「素敵な気持ちだね...」
彼女は窓の外を見つめながら続けた。
「
奈央には、天音の言葉に何か深い意味があるように感じられた。何か大きな問題を抱えているような...。
「先輩...何かあったんですか?」
天音は少し驚いたように奈央を見た後、柔らかく微笑んだ。
「ううん、なんでもないよ」彼女は首を振った。「ただ最近、なんだか変な夢を見るんだ」
「夢?」
「うん」天音は少し
奈央は思わず手を止めた。なぜだか、彼女の言葉に強く惹かれるものを感じた。
「それって...」
「変な話でごめんね」天音はすぐに明るい声に戻った。「さ、オーブン温まったみたいだよ」
奈央は話題が変わったことに少し残念さを覚えつつも、続きを聞くのは控えた。天音が話したくないことなら、無理に聞くべきではない。それが彼女の「癒し系」としての直感だった。
「そうですね」奈央は笑顔を取り戻した。「焼きましょう」
◆◆◆
オーブンからマドレーヌを取り出すと、教室に甘い香りが広がった。
「わぁ、いい香り...」天音は目を閉じて深く香りを吸い込んだ。
「うまくできたみたいですね」奈央も嬉しそうに言った。
二人が作ったマドレーヌは、天音の作った方はやや形が崩れていたが、奈央の作った方は完璧な貝殻型に膨らんでいた。
「やっぱり下手だなぁ、わたし」天音は自分のマドレーヌを見て苦笑いした。
「いえ、色合いは素敵ですよ」奈央は慰めるように言った。「それに大事なのは形よりも...」
「気持ち、だよね」天音が言葉を継いだ。
奈央は頷いた。
「冷めたら食べてみましょう」
二人は片付けをしながら、マドレーヌが冷めるのを待った。
「そうだ」天音が突然言った。「明日、はるとたちとうちでお菓子作りする予定なんだけど、南雲さんも来ない?」
「え?」奈央は驚いた。「私も、いいんですか?」
「もちろん!」天音は明るく笑った。「
奈央の心臓が高鳴った。朝霧家でお菓子作り...しかも直人も一緒に。
「ぜひ行きたいです」奈央は笑顔で答えた。
「やった!」天音は嬉しそうに手を叩いた。「
「そ、そうですけど...しばらくは、静観していてくださいね......」奈央は天音をまっすぐ見つめた。
天音はクスクス笑った。
「あ、もうマドレーヌ冷めたかな?」気をそらすように天音が言った。
二人は焼きたてのマドレーヌを小皿に取り分けた。
「いただきます」
奈央と天音は同時に一口かじった。
「おいしい!」天音の目が輝いた。「南雲さんのマドレーヌ、すごく優しい味がする」
「ありがとうございます」奈央は嬉しそうに微笑んだ。「先輩のも、とても温かみがあって美味しいですよ」
「ほんと?」天音は照れたように笑った。「よかった...」
奈央は天音のマドレーヌをもう一口。確かに形は不格好だけど、味には不思議な
「先輩...」
「ん?」
「素敵です」奈央は真剣に言った。「先輩の作るお菓子には、本当に愛情が詰まってます」
天音の目に、小さな涙が浮かんだ。
「ありがとう...」彼女は少し
二人は黙ってマドレーヌを味わった。窓から差し込む夕日が、教室を