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第105話

空が──裂けた。


「上から来るぞ!」


鴻上こうがみ直人なおとの叫びが、世界を揺るがす轟音に飲み込まれる。


朝霧あさぎり晴翔はるとは反射的に身を屈め、朝霧あさぎり天音あまねの前に立ちはだかった。黒く渦巻く雲海が頭上で広がり、その中心から、まるで宇宙の亀裂のような深淵が現れる。


「ズガァァァアアンッ!!」


地響きが大地を震わせ、妙典みょうてん公園の地面が波打つように揺れた。結城ゆうき美羽みうが転びそうになり、千早ちはや理子りこの腕を掴んで何とか踏みとどまる。


「これが……旧神きゅうしんの力……!」


望月もちづきれんの声が震えていた。彼の瞳には、未来予知能力者にしか見えない恐ろしい光景が映っているのだろう。


「みんな、下がって!」晴翔は仲間たちに叫んだ。「お姉ちゃんと俺だけでいい!」


天音は弟の背中にそっと手を置いた。「晴翔、もう逃げる必要はないよ」


彼女の声は不思議なほど落ち着いていた。空からの威圧感に全身が震えるというのに、天音だけは静かな湖面のように澄んでいる。


かみとして逃げ続ければ、いつか本当に世界が壊れる。だから……」


話し終える前に、空間が捻じ曲がるような轟音と共に、一人の存在が地上に降り立った。


**「ガシャァァァァン!!!」**


砕け散る大気の音と共に、金髪きんぱつの貴族のような男が現れた。深紅の瞳、プラチナブロンドの長髪、黄金の鎧に身を包んだその姿は、人とは明らかに違う威厳を放っている。


「アスタロト……!」晴翔は歯を食いしばった。


旧神きゅうしんの王が、優雅に一歩を踏み出す。足が地面に触れた瞬間、接点から波紋のように草木が枯れていく。生命を吸い上げるかのような不吉な現象に、晴翔の背筋が凍り付いた。


「よくぞ待っていたな、新たなるかみの器よ」アスタロトの声は耳元で囁くような近さでありながら、同時に遠くで鳴り響く雷のようだった。「そして汝、取るに足らぬ下僕よ」


晴翔に向けられた視線は、虫けらを見るような冷たさだった。


「下僕……?」晴翔は怒りに拳を握り締めた。「お前に姉を渡すつもりはない!」


アスタロトは不敵に微笑み、片手を軽く上げた。その瞬間──


「ガッ!」


見えない力が晴翔の胸を殴りつけ、彼は数メートル吹き飛ばされた。


「晴翔!」天音の悲鳴が響く。


「心配するな」アスタロトは天音に向き直った。「我が求めるは汝のみ。新たなる神の力を持つ者よ、我と共に世界を統べよう」


天音は立ち尽くしたまま、アスタロトを見据えた。「わたしは……世界を統べたりなんかしない」


「愚かな……我らは神。人間どもを導く存在なのだ」


「そんなの、いらない」天音は静かに首を振った。「わたしは、ただ普通の女子高生でいたいだけ」


アスタロトの表情が一瞬歪んだ。「汝の力は既に人間の域を超えている。認めよ、受け入れよ」


地面を転がった晴翔が咳き込みながら立ち上がる。「お姉ちゃんは人間だ!どんな力を持とうとも、それは変わらない!」


「黙れ!」


アスタロトの怒声と共に、激しい風圧が晴翔を襲う。彼は必死に踏みとどまるが、膝をついてしまう。


「ゴォオオオッ!」


公園全体に渦巻く風が生まれ、木々が軋み、地面の砂利が舞い上がる。周囲の空気が重くなり、呼吸さえも困難になっていく。


神狩かみかり組織の者どもは我を封じることに失敗した。今度は我が、世界を正しき秩序へと導く番だ」


アスタロトが両手を広げると、宙に黄金の文字が浮かび上がった。古代の神聖文字——それは現実を書き換える力を持つ神言しんげんだった。


「お姉ちゃん!」晴翔の叫びが響く。


天音は恐れることなく一歩前に出た。彼女の周りに、かすかな光の粒子が舞い始める。


「わたしは神様になんてならない。でも……」


彼女の瞳が決意に満ちて輝く。


「晴翔と、みんなを守るためなら、力は使う!」


天音の言葉と共に、彼女の周囲に青白い光の渦が生まれた。アスタロトの黄金の文字と、天音の放つ青い光が、空中でぶつかり合う。


「ギィィィィンッ!」


金属がこすれるような不協和音が辺りに響き渡る。二つの「神」の力がせめぎ合い、空間そのものが歪んでいく。


「ふふ……ふはははは!」アスタロトが高笑いを上げた。「素晴らしい!その力、確かに神に相応しい!だが、まだ未熟だ!」


彼が手のひらを押し出すと、天音の光の壁が押し戻される。アスタロトの黄金の光が優勢になり、天音は膝をつきそうになる。


「ぐっ……」


重圧に耐え切れず、天音の額から汗が流れ落ちる。このままでは押しつぶされる——。


その時、晴翔が天音の隣に立った。


「お姉ちゃん、一人じゃない」


晴翔が天音の手を握る。特殊能力を持たない彼にできることは、ただそれだけだった。しかし——


「はると……」


天音の目に涙が浮かぶ。弟の手の温もりが、彼女に力を与える。


「言ったよね。わたしたちは、神様を超えるんだって」


天音の周りの光が、より鮮烈に輝き始めた。


「バカな!下僕風情が何をする気だ!」アスタロトの声に焦りが混じる。


晴翔は姉の手をさらに強く握った。「俺たちは家族だ。一人じゃない!」


その言葉を合図に、鴻上こうがみ直人なおとが駆け寄る。「言っただろう。正しいかどうかじゃない。救いたいかどうかだ」


彼もまた、天音と晴翔の肩に手を置いた。


「バカだって言われたっていいじゃん。放っとけないでしょ?」結城ゆうき美羽みうも加わる。


千早ちはや理子りこが震える足で立ち上がった。「ちゃんとしていれば、きっと大丈夫なんだから……!」


「未来なんてさ、歩いてたら変わるんだよ」望月もちづきれんも一歩前に出る。


最後に南雲なぐも奈央なおが加わった。「頑張らなくても、そばにいるよ」


全員の手が重なり合う瞬間、天音の周りの光が爆発的に広がった。


「ドゴォォォン!!」


アスタロトの黄金の光が押し返される。


「あり得ぬ!人間如きが……神の力に抗うとは!」


アスタロトの表情が初めて恐怖に歪んだ。しかし天音は穏やかに笑っていた。


「これが人間の力」天音の声が響く。「神の力じゃない。絆の力」


晴翔も微笑んだ。「神は孤独だ。でも俺たちは違う。だからお前には絶対に負けない!」


天音の放つ光が、アスタロトを包み込んでいく。


「我は完全なる神!我こそが……真なる秩序……なり……!」


アスタロトの叫びが遠のいていく。光の中で、彼の姿が霧のように溶けていった。


「でも——神様じゃ、誰かと手をつなぐことさえできない」天音はつぶやいた。「わたしは、そんな存在にはなりたくないの」


最後の光が収束し、辺りが静かになった。空は青く澄み渡り、風も穏やかに戻っている。アスタロトの姿はもうそこにはなかった。


刹那、天音の体が光に包まれた。彼女の体内から「神の力」が解放されていく。


「お姉ちゃん!」晴翔は驚いて叫ぶ。


天音は安心したように微笑んだ。「大丈夫。選んだんだ、人間でいることを」


光の粒子が天音から放たれ、空へと昇っていく。それは美しい流星群のようだった。神の力が世界に還っていく——。


「でも、本当に良かったの?」晴翔は心配そうに尋ねた。「神の力を手放して」


天音は穏やかに首を振った。「わたし、普通の女子高生でいいの。それだけでいいの」


彼女はゆっくりと周囲を見回した。クラスメートたち、そして最愛の弟。


「これが、わたしの望む世界」


晴翔は安堵の表情を浮かべた。「お帰りなさい、お姉ちゃん」


天音はにっこりと笑った。「ただいま、はると」


二人は手を繋いだまま、朝日が昇る空を見上げた。新たな一日の始まり——普通の、しかし何よりも大切な日常の幕開けだった。


光の粒子が最後の一つまで空に消えると、世界はいつもの姿を取り戻していた。戦いの跡形もなく、ただ平穏な公園が広がっていた。


神を超えた人間たちが、これからも手を取り合って歩んでいく。


それが、彼らの選んだ道だった。


◆◆◆


展望室に静寂が戻った。外の風景も徐々に元に戻り、東京の夜景が窓から見えるようになる。


「終わった…のか?」


晴翔が痛みをこらえながら立ち上がった。


「ええ」


ソフィアが頷いた。


「旧神たちは再び封印された…少なくとも、しばらくの間は」


「天音先輩、すごかった!」


美羽が天音に駆け寄った。


「まさに神様の力だよ!」


「違うよ」


天音は優しく微笑んだ。


「これは神の力じゃない。みんなの力だよ」


「お姉ちゃん…」


晴翔も近づいてきた。彼の体は傷だらけだったが、目は晴れやかだった。


「無事で…良かった」


「晴翔こそ!」


天音は弟を抱きしめた。


「あんな危険なことして…!」


「姉を守るのは弟の役目だろ?」


晴翔はニヤリと笑った。


「カッコつけて…」


天音の目から再び涙がこぼれ落ちた。しかし今度は、喜びの涙だった。


「皆さん!」


叶絵が声を上げた。


「急いで退避を。この建物はもう安定していません」


確かに、展望室の床や壁にはひびが入り始めていた。魔法陣が消えたことで、建物全体が元の状態に戻ろうとしている。


「撤退だ!」


カナエの命令に、全員が頷いた。


「行くぞ!」


互いに助け合いながら、彼らは急いで階段を下り始めた。天音は晴翔を支え、美羽は蓮の手を引いていた。カナエとソフィア、直人とアルバ、ジンと叶絵もそれぞれ協力して下っていく。


「どうなるの?タワーは大丈夫?」


美羽が不安そうに尋ねた。


「心配ないわ」


叶絵が言った。


「建物自体に大きなダメージはない。魔法陣の痕跡が消えれば、元通りになるでしょう」


「よかった…観光地が壊れたら大変だよね」


美羽の言葉に、皆が思わず笑った。こんな状況でも、彼女は変わらない。


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