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📚閑話集④

side talk:カナエの一日休暇 ~任務外の街散策~

 『あねかみ』本編の物語が本格的に動き出す直前、朝霧天音あさぎりあまねが「神」として覚醒する約二日前。「神狩り組織・四天王」の一人であるカナエかなえが、偶然にも標的となる兄妹の日常を目撃し、複雑な感情に揺れ動いた、公式記録には残らない一日の記録である。


 初夏の日差しが市川市いちかわしの街を照らしている。普段なら任務のための黒いスーツに身を包むはずのカナエだが、今日はライトグレーのワンピースという珍しい出で立ち。クールな女性エージェントの表情には、いつもの緊張感が薄れていた。


「任務外行動...久しぶりだな」


 カナエは小さく呟いた。彼女の手には小さな黒い手帳が握られている。その表紙には「『零』ゼロ作戦・行動記録」と書かれていた。


 組織から命じられた数少ない休暇日。普段であれば自室で過ごすところだが、今日は違った。次の大きな作戦のため、標的の行動範囲を確認しておく必要があった。


「あくまでも任務のための下見だ...」


 自分に言い聞かせるように呟くカナエだったが、心のどこかでは単純に「外の世界」を見てみたいという気持ちも感じていた。


 彼女は妙典駅みょうてんえきに降り立った。標的となる朝霧天音あさぎりあまね朝霧晴翔あさぎりはると兄妹の生活圏である。


 駅を出ると、平和な住宅街が広がっていた。カナエはその景色を静かに観察した。彼女の育った荒廃こうはいした都市とは、あまりに違う日常の光景。


「これが...普通の人々の生活か」


◆◆◆


 カナエは地図アプリを確認しながら歩を進めた。目的地は朝霧兄妹が通う市川市立妙典南高校いちかわしりつみょうてんみなみこうこう。土曜日の今日は学校が開いているはずだ。


 学校に近づくにつれ、制服姿の学生たちの姿が目に入る。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら歩いている。カナエにとって、これは見慣れない光景だった。


 学校の前まで来ると、カナエは少し離れた場所に立ち、建物を観察した。情報によれば、標的の天音は二年生、弟の晴翔は一年生だという。


「ここか...」


 普通の学校。普通の学生たち。しかしその中に、世界の均衡きんこうを揺るがす存在がいる。


 そのとき、校門から出てくる一団の姿が目に入った。カナエの瞳が鋭く光る。間違いない。長い髪をゆるく結んだ少女——朝霧天音あさぎりあまねだ。


 そして彼女の隣には、弟の晴翔の姿。さらに数人のクラスメイトたちが一緒にいる。彼らは笑顔で会話を交わしていた。


 カナエは木陰に身を隠し、その様子を観察した。情報によれば、天音はすでに「神の力」の兆候を見せ始めているはずだ。しかし、彼女の姿はごく普通の女子高生そのものだった。


「あれが...新たな『神』か」


 カナエの目は天音の周りの空気をさぐった。訓練された彼女の目には、通常の人間とは違う、かすかな光の揺らぎゆらぎが見えた。間違いない、「力」は確実に目覚めつつある。


「ねえ、天音、今日はどこに行く?」


 一緒にいた女子の一人が尋ねる声が聞こえた。


「うーん、みんなでどこか行きたいな~」


 天音の声は意外にも明るく、のんびりとしていた。恐るべき力を持つ存在とは思えないほど、無邪気な響きだ。


「イオンでショッピングとか?」別の女子が提案した。


「それいいね!」天音は嬉しそうに手を叩いた。


 カナエは彼らの会話を聞きながら、少し複雑な思いに駆られた。標的は「新たな神」であると同時に、ただの女子高生でもある。このギャップに、彼女は奇妙な違和感いわかんを覚えた。


「任務は任務だ...個人感情は不要」


 カナエは自分に言い聞かせた。しかし、天音たちの無邪気な笑顔を見ていると、胸の奥で何かがうずくような感覚があった。


 彼女は天音たちが向かう方向——イオンモールへと、こっそりと後を追うことにした。


◆◆◆


 イオン市川妙典店いおんいちかわみょうてんてんは週末の昼時、多くの人で賑わっていた。カナエはサングラスをかけ、目立たないよう天音たちから距離を取りながら追跡していた。


 彼らはフードコートで昼食を取り、その後、衣料品店や本屋を巡っている。どこにでもいる普通の高校生たちのような光景。


 カナエは食品売り場の陰から彼らを観察していた。特に気になったのは、天音と弟の晴翔のやり取りだ。晴翔は姉をとても大切にしているようで、何かと気を配っている。そんな兄妹の温かい関係に、カナエは見覚えのあるような、懐かしいような感情を覚えた。


「私にも...かつては」


 カナエの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。彼女にも優しい家族がいた頃。それは「神の暴走」で全てが失われる前の、遠い記憶。


 その記憶を振り払うように、カナエは首を横に振った。今は感傷に浸る時ではない。標的の行動パターンを確認することが目的だ。


 しかし、天音たちの何気ない日常の光景は、カナエの心に奇妙な揺らぎゆらぎを生じさせていた。


「あっ、はると、あれ見て!」


 天音の声で、カナエは我に返った。彼女が指差したのは、人形売り場にあるぬいぐるみだった。


「かわいいね」晴翔が答える。


「昔、はるとがプレゼントしてくれたのに似てるよ」


「あ、本当だ」晴翔も懐かしむような表情を見せる。「あのウサギのぬいぐるみだね」


 天音はぬいぐるみを手に取り、頬擦りしていた。その満面の笑顔に、カナエは思わず見入ってしまう。


「こんな...普通の女の子が」


 カナエは静かに呟いた。彼女が抹殺すべき「神」は、目の前でぬいぐるみに頬擦りする少女なのだ。この矛盾に、彼女の心は混乱を覚えた。


 そのとき、突然天音が振り返り、カナエの方を見た。カナエは咄嗟に背を向けたが、一瞬、目が合ったような気がした。


「気づかれた?」


 緊張が走る。しかし天音は特に何も言わず、また友人たちとの会話に戻った。危機は去ったようだが、カナエの胸は高鳴ったままだった。


◆◆◆


 昼過ぎ、天音たちはイオンを後にした。カナエも距離を置きながら後を追う。


 彼らは次に江戸川えどがわ堤防ていぼう沿いへと向かった。穏やかな川の流れを眺めながら、彼らは歩いていく。カナエも遠くから、その様子を見守っていた。


 しばらくして、天音のグループは二手に分かれた。友人たちが別の方向へ行き、天音と晴翔の兄妹だけが堤防に残った。


 二人は川を見つめながら、何やら真剣な表情で話し合っている。カナエはベンチに座り、雑誌を広げるふりをしながら、彼らの様子を窺っていた。


 風に乗って、断片的に会話が聞こえてくる。


「...お姉ちゃん、最近どう? 変わったことは?」


「うーん...あんまり変わらないけど、でもね...」


「...夢? どんな夢?」


「空が割れて...光が...」


 カナエの耳が研ぎ澄まされた。これは重要な情報だ。標的の「覚醒」に関する兆候について話している可能性がある。


 しかし、風の向きが変わり、会話の続きは聞こえなくなった。カナエは少しもどかしさを感じた。


 しばらくして、天音が急に空を見上げた。彼女の瞳が一瞬、不思議な光を帯びたようにカナエには見えた。


「あのね、はると...」


 天音の声が風に乗って聞こえてきた。


「もし私が...変わっちゃったら、どうする?」


 晴翔は黙って天音を見つめた後、静かに答えた。


「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。どんなに変わっても」


 その言葉に、天音の目に涙が光った。そして彼女は晴翔に抱きついた。


 カナエはその光景を見て、胸がめ付けられるような感覚を覚えた。兄妹の強い絆。それは彼女が失ってしまったものだった。


「任務は任務だ...」


 カナエは自分に言い聞かせたが、声は震えていた。


◆◆◆


 夕暮れ時、カナエは天音たちが住む家の近くまで来ていた。兄妹が帰宅するのを見届けた後、彼女はその場に立ち尽くした。


 朝霧家の窓からは、温かな明かりが漏れている。おそらく家族の夕食の時間なのだろう。カナエにとって、それはあまりにも遠い光景だった。


「私の役目は...」


 カナエは手帳を開き、天音について記録するつもりだった。しかし、ペンを持つ手が止まる。今日見た光景をそのまま書くべきか、それとも...。


 ふと、足元に影が落ちた。カナエは咄嗟に身構えたが、それは単なる野良猫のらねこだった。黒い猫は彼女を見上げ、小さく鳴いた。


「...何だ、猫か」


 緊張が解けたカナエは、少し肩の力を抜いた。猫は彼女の足元でくるくると回り、親しげに擦り寄ってくる。


「かまってる暇はないんだ」


 そう言いながらも、カナエは猫をでようと手を伸ばした。柔らかな毛並みに触れた指先に、温かさが伝わる。


「ずいぶん人懐っこいな...」


 とその時、朝霧家の方から声が聞こえた。玄関が開き、晴翔が出てきたのだ。彼はゴミ袋を持っている。


 カナエは咄嗟に木陰に隠れた。晴翔がゴミ置き場にゴミを捨て、家に戻ろうとしたとき、黒猫が鳴きながら彼に近づいていった。


「あ、こんにちは」晴翔は優しく猫に語りかけた。「お腹空いてるの?」


 彼はポケットから何かを取り出し、猫に与えた。おそらくおやつか何かだろう。


「また明日も来てね」


 晴翔は猫をでてから、家に戻っていった。


 カナエはその光景を見て、複雑な思いに駆られた。標的の弟は、見知らぬ猫にさえ優しい少年だった。そんな彼の姉を、自分は抹殺しなければならない。


 黒猫は再びカナエの元に戻ってきた。カナエは黙って猫を見つめた後、静かにしゃがんで猫の頭をでた。


「私たちは...同じだな」


 カナエは猫に語りかけた。


「どこにも属さず、影の中で生きる者...」


 猫は彼女の手に顔を擦りつけ、喉を鳴らした。カナエの表情がわずかに和らぐ。


「でも、あの少年は君にも優しかった」


 カナエは朝霧家の方を見つめた。


「私の役目は『神』を狩ること。それが世界を守ることだと信じてきた...」


 しかし今日見た光景は、彼女の中の何かを揺るがしていた。「神」となる少女の、あまりにも人間らしい日常。彼女を守ろうとする弟の強い想い。


「本当に...抹殺するべきなのか?」


 カナエの心に、初めて疑問が浮かんだ。常に「任務」のみを考えてきた彼女にとって、これは大きな変化だった。


 やがて夜の闇が深まり、カナエは立ち上がった。黒猫は彼女を見上げ、小さく鳴いた。


「さようなら」


 カナエはそう言って、来た道を引き返し始めた。手帳には、今日見たこと全ては記録されなかった。ただ簡潔に「標的の日常行動確認完了」とだけ書かれた。


 彼女の胸の内に秘められた感情は、公式記録には残らない。しかし、それは確実に彼女の心に刻まれていた。


 ーー数日後、カナエは「神狩り」の任務で朝霧兄妹の前に立つことになる。その時、彼女の心には今日の記憶が残っているだろう。そして、それが未来をわずかに、しかし確実に変えることになる。


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