『あねかみ』本編の物語が本格的に動き出す直前、
初夏の日差しが
「任務外行動...久しぶりだな」
カナエは小さく呟いた。彼女の手には小さな黒い手帳が握られている。その表紙には「
組織から命じられた数少ない休暇日。普段であれば自室で過ごすところだが、今日は違った。次の大きな作戦のため、標的の行動範囲を確認しておく必要があった。
「あくまでも任務のための下見だ...」
自分に言い聞かせるように呟くカナエだったが、心のどこかでは単純に「外の世界」を見てみたいという気持ちも感じていた。
彼女は
駅を出ると、平和な住宅街が広がっていた。カナエはその景色を静かに観察した。彼女の育った
「これが...普通の人々の生活か」
◆◆◆
カナエは地図アプリを確認しながら歩を進めた。目的地は朝霧兄妹が通う
学校に近づくにつれ、制服姿の学生たちの姿が目に入る。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら歩いている。カナエにとって、これは見慣れない光景だった。
学校の前まで来ると、カナエは少し離れた場所に立ち、建物を観察した。情報によれば、標的の天音は二年生、弟の晴翔は一年生だという。
「ここか...」
普通の学校。普通の学生たち。しかしその中に、世界の
そのとき、校門から出てくる一団の姿が目に入った。カナエの瞳が鋭く光る。間違いない。長い髪をゆるく結んだ少女——
そして彼女の隣には、弟の晴翔の姿。さらに数人のクラスメイトたちが一緒にいる。彼らは笑顔で会話を交わしていた。
カナエは木陰に身を隠し、その様子を観察した。情報によれば、天音はすでに「神の力」の兆候を見せ始めているはずだ。しかし、彼女の姿はごく普通の女子高生そのものだった。
「あれが...新たな『神』か」
カナエの目は天音の周りの空気を
「ねえ、天音、今日はどこに行く?」
一緒にいた女子の一人が尋ねる声が聞こえた。
「うーん、みんなでどこか行きたいな~」
天音の声は意外にも明るく、のんびりとしていた。恐るべき力を持つ存在とは思えないほど、無邪気な響きだ。
「イオンでショッピングとか?」別の女子が提案した。
「それいいね!」天音は嬉しそうに手を叩いた。
カナエは彼らの会話を聞きながら、少し複雑な思いに駆られた。標的は「新たな神」であると同時に、ただの女子高生でもある。このギャップに、彼女は奇妙な
「任務は任務だ...個人感情は不要」
カナエは自分に言い聞かせた。しかし、天音たちの無邪気な笑顔を見ていると、胸の奥で何かが
彼女は天音たちが向かう方向——イオンモールへと、こっそりと後を追うことにした。
◆◆◆
彼らはフードコートで昼食を取り、その後、衣料品店や本屋を巡っている。どこにでもいる普通の高校生たちのような光景。
カナエは食品売り場の陰から彼らを観察していた。特に気になったのは、天音と弟の晴翔のやり取りだ。晴翔は姉をとても大切にしているようで、何かと気を配っている。そんな兄妹の温かい関係に、カナエは見覚えのあるような、懐かしいような感情を覚えた。
「私にも...かつては」
カナエの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。彼女にも優しい家族がいた頃。それは「神の暴走」で全てが失われる前の、遠い記憶。
その記憶を振り払うように、カナエは首を横に振った。今は感傷に浸る時ではない。標的の行動パターンを確認することが目的だ。
しかし、天音たちの何気ない日常の光景は、カナエの心に奇妙な
「あっ、はると、あれ見て!」
天音の声で、カナエは我に返った。彼女が指差したのは、人形売り場にあるぬいぐるみだった。
「かわいいね」晴翔が答える。
「昔、はるとがプレゼントしてくれたのに似てるよ」
「あ、本当だ」晴翔も懐かしむような表情を見せる。「あのウサギのぬいぐるみだね」
天音はぬいぐるみを手に取り、頬擦りしていた。その満面の笑顔に、カナエは思わず見入ってしまう。
「こんな...普通の女の子が」
カナエは静かに呟いた。彼女が抹殺すべき「神」は、目の前でぬいぐるみに頬擦りする少女なのだ。この矛盾に、彼女の心は混乱を覚えた。
そのとき、突然天音が振り返り、カナエの方を見た。カナエは咄嗟に背を向けたが、一瞬、目が合ったような気がした。
「気づかれた?」
緊張が走る。しかし天音は特に何も言わず、また友人たちとの会話に戻った。危機は去ったようだが、カナエの胸は高鳴ったままだった。
◆◆◆
昼過ぎ、天音たちはイオンを後にした。カナエも距離を置きながら後を追う。
彼らは次に
しばらくして、天音のグループは二手に分かれた。友人たちが別の方向へ行き、天音と晴翔の兄妹だけが堤防に残った。
二人は川を見つめながら、何やら真剣な表情で話し合っている。カナエはベンチに座り、雑誌を広げるふりをしながら、彼らの様子を窺っていた。
風に乗って、断片的に会話が聞こえてくる。
「...お姉ちゃん、最近どう? 変わったことは?」
「うーん...あんまり変わらないけど、でもね...」
「...夢? どんな夢?」
「空が割れて...光が...」
カナエの耳が研ぎ澄まされた。これは重要な情報だ。標的の「覚醒」に関する兆候について話している可能性がある。
しかし、風の向きが変わり、会話の続きは聞こえなくなった。カナエは少しもどかしさを感じた。
しばらくして、天音が急に空を見上げた。彼女の瞳が一瞬、不思議な光を帯びたようにカナエには見えた。
「あのね、はると...」
天音の声が風に乗って聞こえてきた。
「もし私が...変わっちゃったら、どうする?」
晴翔は黙って天音を見つめた後、静かに答えた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。どんなに変わっても」
その言葉に、天音の目に涙が光った。そして彼女は晴翔に抱きついた。
カナエはその光景を見て、胸が
「任務は任務だ...」
カナエは自分に言い聞かせたが、声は震えていた。
◆◆◆
夕暮れ時、カナエは天音たちが住む家の近くまで来ていた。兄妹が帰宅するのを見届けた後、彼女はその場に立ち尽くした。
朝霧家の窓からは、温かな明かりが漏れている。おそらく家族の夕食の時間なのだろう。カナエにとって、それはあまりにも遠い光景だった。
「私の役目は...」
カナエは手帳を開き、天音について記録するつもりだった。しかし、ペンを持つ手が止まる。今日見た光景をそのまま書くべきか、それとも...。
ふと、足元に影が落ちた。カナエは咄嗟に身構えたが、それは単なる
「...何だ、猫か」
緊張が解けたカナエは、少し肩の力を抜いた。猫は彼女の足元でくるくると回り、親しげに擦り寄ってくる。
「かまってる暇はないんだ」
そう言いながらも、カナエは猫を
「ずいぶん人懐っこいな...」
とその時、朝霧家の方から声が聞こえた。玄関が開き、晴翔が出てきたのだ。彼はゴミ袋を持っている。
カナエは咄嗟に木陰に隠れた。晴翔がゴミ置き場にゴミを捨て、家に戻ろうとしたとき、黒猫が鳴きながら彼に近づいていった。
「あ、こんにちは」晴翔は優しく猫に語りかけた。「お腹空いてるの?」
彼はポケットから何かを取り出し、猫に与えた。おそらくおやつか何かだろう。
「また明日も来てね」
晴翔は猫を
カナエはその光景を見て、複雑な思いに駆られた。標的の弟は、見知らぬ猫にさえ優しい少年だった。そんな彼の姉を、自分は抹殺しなければならない。
黒猫は再びカナエの元に戻ってきた。カナエは黙って猫を見つめた後、静かに
「私たちは...同じだな」
カナエは猫に語りかけた。
「どこにも属さず、影の中で生きる者...」
猫は彼女の手に顔を擦りつけ、喉を鳴らした。カナエの表情がわずかに和らぐ。
「でも、あの少年は君にも優しかった」
カナエは朝霧家の方を見つめた。
「私の役目は『神』を狩ること。それが世界を守ることだと信じてきた...」
しかし今日見た光景は、彼女の中の何かを揺るがしていた。「神」となる少女の、あまりにも人間らしい日常。彼女を守ろうとする弟の強い想い。
「本当に...抹殺するべきなのか?」
カナエの心に、初めて疑問が浮かんだ。常に「任務」のみを考えてきた彼女にとって、これは大きな変化だった。
やがて夜の闇が深まり、カナエは立ち上がった。黒猫は彼女を見上げ、小さく鳴いた。
「さようなら」
カナエはそう言って、来た道を引き返し始めた。手帳には、今日見たこと全ては記録されなかった。ただ簡潔に「標的の日常行動確認完了」とだけ書かれた。
彼女の胸の内に秘められた感情は、公式記録には残らない。しかし、それは確実に彼女の心に刻まれていた。
ーー数日後、カナエは「神狩り」の任務で朝霧兄妹の前に立つことになる。その時、彼女の心には今日の記憶が残っているだろう。そして、それが未来をわずかに、しかし確実に変えることになる。