目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

side talk:アルバの本音 ~自由を求めた少年の記憶~

 『あねかみ』本編の物語が展開する時期の少し前、朝霧天音あさぎりあまねが「神」として覚醒する約一週間前。神狩り組織「ゼロズ」の四天王の一人であるアルバあるばが、任務準備のため標的の住む街を訪れ、自分の過去と向き合った一日の記録である。


 真夏を思わせる陽射しが市川市いちかわしの街を照らす初夏の昼下がり。金髪きんぱつの青年がサングラスをかけ、妙典駅みょうてんえきの改札を出た。身につけているのは派手はで赤色あかいろのシャツに破れ加工やぶれかこうのジーンズ。神狩り組織の制服せいふくとは程遠い出で立ちだ。


「はーあ、こんな場所に『神』が現れるなんてねぇ...」


 アルバは大げさに溜息ためいきをつきながら、辺りを見回した。街は平和で、人々は穏やかな日常を過ごしている。


「ほんと、見た目はなんにも変わらないよなぁ」


 彼は興味なさげに呟きながらも、鋭い眼差しで周囲を観察していた。アルバの本当の目的は、次の任務の下見だ。新たな「神」となる少女——朝霧天音あさぎりあまねの生活圏を把握するため、この街に来たのだった。


 しかし、それだけが目的ではない。実はアルバ本人にも明確に意識されていない、もう一つの理由があった。


◆◆◆


 アルバは地図アプリを見ながら歩いた。目的地は江戸川えどがわ沿いの堤防ていぼうだ。情報によると、標的の少女はよくそこを散歩するという。


 街を歩きながら、アルバは妙な既視感きしかんを覚えていた。彼自身がかつて暮らしていた貧民街ひんみんがいとは全く違う環境なのに、どこか懐かしさを感じる。それは、彼がかつて夢見た「普通の生活」の風景に近いものだったからかもしれない。


「こんな風に...ただ歩けるだけでも、自由なんだよな」


 アルバはポケットから小さな折り畳みおりたたみナイフを取り出し、手の中で器用に回した。これは彼が瀕死ひんしの状態で路地裏ろじうらに倒れていたところを拾ってくれた恩人から貰ったものだ。


『好きに生きろ』


 そう言って、このナイフを渡してくれた老人の顔を思い出す。アルバが「自由」という概念を初めて教わった人物だった。


 堤防に到着すると、アルバはベンチに座り、川の流れを眺めた。穏やかな水面に映る青空と白い雲。贅沢な時間だと感じながらも、これからの任務に思いを巡らせる。


「『神』を狩る...か」


 アルバは小さく呟いた。これまで何度も同じ任務を遂行してきた。しかし、今回はなぜか少し違和感があった。事前情報によれば、標的の少女はごく普通の女子高生だという。そんな子が世界を揺るがす存在になるというのは、理解しがたい。


「まあ、関係ないけどさ」


 アルバは肩をすくめた。任務は任務。それをこなせば、また「自由」な時間が手に入る。彼の価値観はシンプルだった。


 そのとき、川沿いの道を歩いてくる二人の姿が目に入った。アルバの背筋が伸びる。間違いない、標的の朝霧天音あさぎりあまねと弟の朝霧晴翔あさぎりはるとだ。


「おっと...」


 アルバは咄嗟にサングラスを押し上げ、雑誌を広げて顔を隠した。距離は十分あるので、気づかれる心配はないだろう。彼は雑誌越しに二人を観察した。


 標的の天音は長い髪をゆるく束ね、のんびりとした足取りで歩いている。その隣の弟、晴翔は少し真面目そうな印象の少年だ。二人は何やら楽しげに会話をしながら、川沿いを散歩していた。


「あれが...新たな『神』か」


 アルバの目は天音を捉えた。周囲の空気がわずかに歪んでいるのが見える。それは普通の人間には感知できない、「神の力」の兆候だ。しかし、その姿はあまりにも普通の少女そのもの。


「ねえ、はると、あの雲、ウサギみたい!」


 天音が空を指差す声が風に乗って聞こえてきた。


「どこ?...あ、ほんとだ」


 晴翔も空を見上げ、姉と一緒に笑った。


 アルバはその様子を見て、胸の奥で何かがうずくのを感じた。それは自分が決して持ち得なかった「普通の兄妹の関係」への、かすかな憧憬どうけいだったのかもしれない。


「俺にも姉貴がいたら...か」


 思わずそんな考えが浮かび、アルバは自分で自分を笑った。


「バカバカ、なに考えてんだよ」


 しかし、胸の奥のうずきは消えない。


◆◆◆


 天音と晴翔が通り過ぎた後も、アルバはしばらくベンチに座っていた。任務の準備としては、標的の確認は済んだはずだ。本来なら組織に戻るべき時間。しかし、彼の足は動かなかった。


「まあ、もう少しだけ...」


 アルバはベンチから立ち上がり、天音たちが向かった方向へ歩き始めた。それは任務とは言えない行動だと、自分でも理解していた。しかし、彼の中の何かが「もっと知りたい」と動かしていた。


 しばらく歩くと、住宅街じゅうたくがいに出た。整然と並ぶ家々。どこからともなく子供の声が聞こえる。アルバにとって、これはまるで別世界のような風景だった。


 彼の育った貧民街ひんみんがいは、常に喧騒けんそうと緊張に満ちていた。友達と呼べる少年たちも、明日の命を保証されることなく生きていた。


「ずいぶん違うなぁ...」


 アルバは街並みを眺めながら、ふと立ち止まった。目の前にある公園に、見覚えのある二人の姿。天音と晴翔が、ブランコに座って話をしている。


 アルバは近くの木陰に隠れ、彼らの様子を見守った。何を話しているのかは聞こえないが、弟が心配そうに姉を見つめる様子が伝わってくる。


 そして、不意に天音が空を見上げた瞬間、アルバの目が見開いた。彼女の周りの空気が、明らかに歪んだのだ。一瞬だけ、天音の瞳が光を放ったように見えた。


「これは...」


 アルバは息を飲んだ。「神の力」が目覚めつつある証拠だ。しかし、すぐにそれは消え、天音は普通の少女の姿に戻った。


 晴翔も一瞬その変化に気づいたようだが、特に驚いた様子もなく、姉に何かを語りかけていた。弟は姉の変化を既に知っているのだろうか。


「面白くなってきたね...」


 アルバはつい口元に笑みを浮かべていた。しかし、それは任務への興奮ではなく、何か別の感情だった。


 そのとき、公園の片隅で遊んでいた子供のボールが、アルバのいる方向へ転がってきた。


「あ! ボール!」


 小さな男の子が駆け寄ってきた。アルバは咄嗟にボールを拾い上げた。


「これ、君のかな?」


 アルバはボールを子供に手渡した。


「ありがとう、お兄さん!」


 無邪気な笑顔で礼を言う子供に、アルバは思わず頭をでていた。こんな自然な交流も、彼の日常ではほとんど経験することのないものだった。


「いってらっしゃい」


 子供が走り去るのを見送りながら、アルバはふと天音たちの方に目をやった。晴翔がこちらを見ていた。アルバは急いで木陰に身を隠したが、晴翔の視線が気になる。気づかれたかもしれない。


「まずいな...」


 アルバは公園を離れることにした。今日の観察は十分だろう。


◆◆◆


 夕暮れ時、アルバは駅前えきまえの小さな喫茶店きっさてんに入った。任務報告をまとめるための休憩だ。


「アイスコーヒーをください」


 窓際の席に座り、アルバはスマートフォンを取り出した。今日の観察結果をまとめねばならない。しかし、彼の頭には別のことが浮かんでいた。


 天音と晴翔の兄妹の姿。彼らのおだやかな関係。そして、天音の中に宿りつつある「神の力」。


「狩るべき存在なのか...?」


 アルバは自問した。これまでの「神狩り」任務では考えたこともない疑問だった。「神」は人類を脅かす存在であり、抹殺すべき対象。それが組織の教義であり、彼もその通りに行動してきた。


 しかし、今回の標的はあまりにも普通の少女だった。その日常に触れてしまった今、単純に「敵」として割り切れない何かを感じていた。


「ただの迷いだよ...」


 アルバは自分に言い聞かせるように呟いた。彼の人生において、「任務」と「自由」は分けて考えるもの。この混乱した感情は早く払拭すべきだ。


 コーヒーを飲みながら、アルバは過去を思い出していた。貧民街ひんみんがいの少年時代。食べ物を求めてぬすみを働いた日々。友人たちと「自由」を夢見て、脱出を図った記憶。そして、全てを失い、一人だけ生き残った自分。


『生きていれば、何でもできる』


 それが、彼のモットーだった。命さえあれば、また「自由」を手に入れられる。だから、どんな任務でもこなしてきた。


 しかし、今日見た光景は、彼の心の奥底に眠っていた別の「自由」の形を思い出させた。家族と過ごす穏やかな時間。それは彼が一度も経験したことのない「自由」だった。


「ごちそうさま」


 アルバは代金を置いて店を出た。帰り際、ふと喫茶店きっさてんの窓に映る自分の姿が目に入る。普段の任務中の冷たい表情ではなく、少し物思いに耽った顔をしていた。


「こんな顔、久しぶりだな...」


 アルバは苦笑いした。


◆◆◆


 駅に向かう途中、アルバは偶然、朝霧天音あさぎりあまねを見かけた。今度は弟はおらず、彼女は一人でパン屋の前に立っていた。


「どれにしようかな〜」


 天音はのんびりと店先のショーケースを覗き込んでいる。その姿は、世界の命運を左右する「神」とは思えないほど無邪気だった。


 アルバはサングラスを掛け直し、彼女の近くを通り過ぎようとした。その時、突然天音が振り返った。


「あ!」


 アルバは瞬間的に身構えたが、天音は単に会釈をしただけだった。


「こんにちは」


 彼女はにこやかに笑った。アルバは不意を突かれた気分で、つい返事をしてしまう。


「あ、ああ...こんにちは」


「このパン屋さん、メロンパンが美味しいんですよ」


 天音は店を指差しながら言った。まるで通りすがりの人に親切に情報を教えるような、自然な態度だ。


「そ、そうなんだ...」


 アルバは当惑しながらも返答した。まさか標的と会話することになるとは思っていなかった。


「よかったら、試してみてくださいね」


 天音は明るく笑うと、パン屋に入っていった。


 アルバはその場に立ち尽くした。今の出会いは完全な偶然だったはずだ。彼女は自分のことを何も知らないはずなのに、なぜか心が揺れた気がした。


「なんだよ、あいつ...」


 アルバは困惑したように呟いた。標的に対して抱くべきではない感情が、胸の内に広がっていた。


◆◆◆


 電車でんしゃに乗り込んだアルバは、窓の外の景色を見つめていた。任務報告書には何と書くべきか。標的は間違いなく「神の力」の兆候を示している。しかし、彼女自身はその力をまったく自覚していないようにも見えた。


 アルバは考え込んだ。この任務は、他の「神狩り」とは違っている。その違いは何なのか。


「あいつは...自由に生きてるんだよな」


 アルバは小さく呟いた。天音は「神の力」に縛られるのではなく、自分の意志で生きている。それは、アルバが理想とする「自由」の形に近いものだった。


 彼は決断した。任務報告書には最低限の情報だけを記す。天音の力の兆候は確認されたが、まだ完全な覚醒には至っていないと。それなら、すぐに抹殺行動に出る理由はない。


「もう少し様子を見よう...」


 アルバはスマートフォンで簡潔な報告書を作成し、送信した。これで少しの時間稼ぎができる。


 電車が次の駅に停まると、アルバは立ち上がった。ポケットに入っていたナイフを握りしめる。それは彼にとって「自由」の象徴だった。


「自由を求めて生きる...か」


 アルバは微笑んだ。今日の出来事が、彼の中で何かを変えたのは確かだ。それがどんな結果をもたらすのかはまだわからない。しかし、彼は自分の「自由」を信じていた。


 この後、アルバは自らの判断で行動し、組織の方針とは少し違う立場を取るようになる。それは彼なりの「自由」の追求であり、「神狩り」という任務への新たな向き合い方だった。


 窓の外に広がる夕焼け空を見上げながら、アルバは思った。


「生きていれば、何だってできる...だよな」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?