『あねかみ』本編の物語が展開する時期の少し前、
真夏を思わせる陽射しが
「はーあ、こんな場所に『神』が現れるなんてねぇ...」
アルバは大げさに
「ほんと、見た目は
彼は興味なさげに呟きながらも、鋭い眼差しで周囲を観察していた。アルバの本当の目的は、次の任務の下見だ。新たな「神」となる少女——
しかし、それだけが目的ではない。実はアルバ本人にも明確に意識されていない、もう一つの理由があった。
◆◆◆
アルバは地図アプリを見ながら歩いた。目的地は
街を歩きながら、アルバは妙な
「こんな風に...ただ歩けるだけでも、自由なんだよな」
アルバはポケットから小さな
『好きに生きろ』
そう言って、このナイフを渡してくれた老人の顔を思い出す。アルバが「自由」という概念を初めて教わった人物だった。
堤防に到着すると、アルバはベンチに座り、川の流れを眺めた。穏やかな水面に映る青空と白い雲。贅沢な時間だと感じながらも、これからの任務に思いを巡らせる。
「『神』を狩る...か」
アルバは小さく呟いた。これまで何度も同じ任務を遂行してきた。しかし、今回はなぜか少し違和感があった。事前情報によれば、標的の少女はごく普通の女子高生だという。そんな子が世界を揺るがす存在になるというのは、理解しがたい。
「まあ、関係ないけどさ」
アルバは肩をすくめた。任務は任務。それをこなせば、また「自由」な時間が手に入る。彼の価値観はシンプルだった。
そのとき、川沿いの道を歩いてくる二人の姿が目に入った。アルバの背筋が伸びる。間違いない、標的の
「おっと...」
アルバは咄嗟にサングラスを押し上げ、雑誌を広げて顔を隠した。距離は十分あるので、気づかれる心配はないだろう。彼は雑誌越しに二人を観察した。
標的の天音は長い髪をゆるく束ね、のんびりとした足取りで歩いている。その隣の弟、晴翔は少し真面目そうな印象の少年だ。二人は何やら楽しげに会話をしながら、川沿いを散歩していた。
「あれが...新たな『神』か」
アルバの目は天音を捉えた。周囲の空気がわずかに歪んでいるのが見える。それは普通の人間には感知できない、「神の力」の兆候だ。しかし、その姿はあまりにも普通の少女そのもの。
「ねえ、はると、あの雲、ウサギみたい!」
天音が空を指差す声が風に乗って聞こえてきた。
「どこ?...あ、ほんとだ」
晴翔も空を見上げ、姉と一緒に笑った。
アルバはその様子を見て、胸の奥で何かが
「俺にも姉貴がいたら...か」
思わずそんな考えが浮かび、アルバは自分で自分を笑った。
「バカバカ、なに考えてんだよ」
しかし、胸の奥の
◆◆◆
天音と晴翔が通り過ぎた後も、アルバはしばらくベンチに座っていた。任務の準備としては、標的の確認は済んだはずだ。本来なら組織に戻るべき時間。しかし、彼の足は動かなかった。
「まあ、もう少しだけ...」
アルバはベンチから立ち上がり、天音たちが向かった方向へ歩き始めた。それは任務とは言えない行動だと、自分でも理解していた。しかし、彼の中の何かが「もっと知りたい」と動かしていた。
しばらく歩くと、
彼の育った
「ずいぶん違うなぁ...」
アルバは街並みを眺めながら、ふと立ち止まった。目の前にある公園に、見覚えのある二人の姿。天音と晴翔が、ブランコに座って話をしている。
アルバは近くの木陰に隠れ、彼らの様子を見守った。何を話しているのかは聞こえないが、弟が心配そうに姉を見つめる様子が伝わってくる。
そして、不意に天音が空を見上げた瞬間、アルバの目が見開いた。彼女の周りの空気が、明らかに歪んだのだ。一瞬だけ、天音の瞳が光を放ったように見えた。
「これは...」
アルバは息を飲んだ。「神の力」が目覚めつつある証拠だ。しかし、すぐにそれは消え、天音は普通の少女の姿に戻った。
晴翔も一瞬その変化に気づいたようだが、特に驚いた様子もなく、姉に何かを語りかけていた。弟は姉の変化を既に知っているのだろうか。
「面白くなってきたね...」
アルバはつい口元に笑みを浮かべていた。しかし、それは任務への興奮ではなく、何か別の感情だった。
そのとき、公園の片隅で遊んでいた子供のボールが、アルバのいる方向へ転がってきた。
「あ! ボール!」
小さな男の子が駆け寄ってきた。アルバは咄嗟にボールを拾い上げた。
「これ、君のかな?」
アルバはボールを子供に手渡した。
「ありがとう、お兄さん!」
無邪気な笑顔で礼を言う子供に、アルバは思わず頭を
「いってらっしゃい」
子供が走り去るのを見送りながら、アルバはふと天音たちの方に目をやった。晴翔がこちらを見ていた。アルバは急いで木陰に身を隠したが、晴翔の視線が気になる。気づかれたかもしれない。
「まずいな...」
アルバは公園を離れることにした。今日の観察は十分だろう。
◆◆◆
夕暮れ時、アルバは
「アイスコーヒーをください」
窓際の席に座り、アルバはスマートフォンを取り出した。今日の観察結果をまとめねばならない。しかし、彼の頭には別のことが浮かんでいた。
天音と晴翔の兄妹の姿。彼らの
「狩るべき存在なのか...?」
アルバは自問した。これまでの「神狩り」任務では考えたこともない疑問だった。「神」は人類を脅かす存在であり、抹殺すべき対象。それが組織の教義であり、彼もその通りに行動してきた。
しかし、今回の標的はあまりにも普通の少女だった。その日常に触れてしまった今、単純に「敵」として割り切れない何かを感じていた。
「ただの迷いだよ...」
アルバは自分に言い聞かせるように呟いた。彼の人生において、「任務」と「自由」は分けて考えるもの。この混乱した感情は早く払拭すべきだ。
コーヒーを飲みながら、アルバは過去を思い出していた。
『生きていれば、何でもできる』
それが、彼のモットーだった。命さえあれば、また「自由」を手に入れられる。だから、どんな任務でもこなしてきた。
しかし、今日見た光景は、彼の心の奥底に眠っていた別の「自由」の形を思い出させた。家族と過ごす穏やかな時間。それは彼が一度も経験したことのない「自由」だった。
「ごちそうさま」
アルバは代金を置いて店を出た。帰り際、ふと
「こんな顔、久しぶりだな...」
アルバは苦笑いした。
◆◆◆
駅に向かう途中、アルバは偶然、
「どれにしようかな〜」
天音はのんびりと店先のショーケースを覗き込んでいる。その姿は、世界の命運を左右する「神」とは思えないほど無邪気だった。
アルバはサングラスを掛け直し、彼女の近くを通り過ぎようとした。その時、突然天音が振り返った。
「あ!」
アルバは瞬間的に身構えたが、天音は単に会釈をしただけだった。
「こんにちは」
彼女はにこやかに笑った。アルバは不意を突かれた気分で、つい返事をしてしまう。
「あ、ああ...こんにちは」
「このパン屋さん、メロンパンが美味しいんですよ」
天音は店を指差しながら言った。まるで通りすがりの人に親切に情報を教えるような、自然な態度だ。
「そ、そうなんだ...」
アルバは当惑しながらも返答した。まさか標的と会話することになるとは思っていなかった。
「よかったら、試してみてくださいね」
天音は明るく笑うと、パン屋に入っていった。
アルバはその場に立ち尽くした。今の出会いは完全な偶然だったはずだ。彼女は自分のことを何も知らないはずなのに、なぜか心が揺れた気がした。
「なんだよ、あいつ...」
アルバは困惑したように呟いた。標的に対して抱くべきではない感情が、胸の内に広がっていた。
◆◆◆
アルバは考え込んだ。この任務は、他の「神狩り」とは違っている。その違いは何なのか。
「あいつは...自由に生きてるんだよな」
アルバは小さく呟いた。天音は「神の力」に縛られるのではなく、自分の意志で生きている。それは、アルバが理想とする「自由」の形に近いものだった。
彼は決断した。任務報告書には最低限の情報だけを記す。天音の力の兆候は確認されたが、まだ完全な覚醒には至っていないと。それなら、すぐに抹殺行動に出る理由はない。
「もう少し様子を見よう...」
アルバはスマートフォンで簡潔な報告書を作成し、送信した。これで少しの時間稼ぎができる。
電車が次の駅に停まると、アルバは立ち上がった。ポケットに入っていたナイフを握りしめる。それは彼にとって「自由」の象徴だった。
「自由を求めて生きる...か」
アルバは微笑んだ。今日の出来事が、彼の中で何かを変えたのは確かだ。それがどんな結果をもたらすのかはまだわからない。しかし、彼は自分の「自由」を信じていた。
この後、アルバは自らの判断で行動し、組織の方針とは少し違う立場を取るようになる。それは彼なりの「自由」の追求であり、「神狩り」という任務への新たな向き合い方だった。
窓の外に広がる夕焼け空を見上げながら、アルバは思った。
「生きていれば、何だってできる...だよな」