「ねぇ、この後、はぐれたことにして、悠と二人っきりにしてもらえないかな?」
それは、漫画の中で映画を見終わった後、結芽が凌空に言ったセリフだった。
けれども、今、結芽は凛の手を取って、凛に懇願している。
「え?えっと……」
「しょうがねぇなぁ、ここでいきなりはぐれたら、違和感あるだろ。そこのゲーセン入ってから、離れようぜ」
戸惑う凛を余所に、凌空はやっぱりどこまでも結芽に協力的だった。
(原作だと、ゲーセンには行かなかったのに)
凌空がトイレに行く、と1人その場を立ち去って、戻ってこなくなるのだ。
しかし、凛がいることで、それでは上手くいかない、ということなのかもしれない。
「ほら、行こうぜ」
凌空はまたしても、凛の手を引っ張る。
結芽はすぐに悠の元へと駆け寄り、ゲームセンターへと誘っているようだった。
しかし、その間にも凌空によって、凛はどんどんと2人と引き離されていく。
(これじゃあ、ゲーセンに行く前に、ホントにはぐれちゃいそう)
はぐれることが目的なのだから、それで問題ないのかもしれない。
だが、凌空と結芽をくっつけたい凛としては、大問題だった。
(このままだと、原作通りに悠と結芽がどんどん仲良くなっちゃう)
せっかくそうなる前の結芽たちに会えたのに、ただ間近で原作と同じ結末を見届けるだけになってしまいそうで、凛は焦りを覚えていた。
(ああ、この光景、知ってる……)
漫画で見たのと、まるで同じ光景だと凛は思った。
あの後、凌空のおかげでしっかりと2人とはぐれることに成功し、そして原作同様に雨が振ってきた。
傘を持っていない2人は、傘を買うためにコンビニまで走るのだ、悠が結芽の手を引いて。
2人は、この時、はじめて手を繋いだのだ。
そのことに嬉しそうに頬を赤らめる結芽の様子を、凌空は少し離れたところで雨に濡れながら切ない表情で眺める。
そんな漫画で見た凌空の姿が、今、凛の目の前にあった。
見ているだけで、凛は胸が押しつぶされそうな気がした。
「凌空……」
その名を呟くと、凌空はハッと我に返った。
それからすぐさま来ていた上着を脱ぐと、凛の頭に被せる。
「え?」
「こんなんでも、無いよりましだろ。悪い、ぼーっとしてた。すぐに、雨宿りできる場所に移動しよう」
凌空は凛の姿を見て、非常に慌てていた。
凛は雨に濡れただけでも、簡単に体調を崩してしまうほど身体が弱いのだ。
もっと早く、雨に濡れない場所に移動しなければならなかった、と結芽の姿に気を取られてしまったことを後悔する。
一方の凛は、凌空の言葉でようやく凌空だけではなく、自分も雨に濡れていたのだと気づいた。
「あ、私、傘、持ってるかも……」
「は?だったらなんで使わないんだ」
過保護な凛の母親は、いついかなる時も凛に折り畳み傘を持たせてくれている。
凛はそのことを思い出し、きっと今日持ってきたカバンにも入っているはずだと探そうとした。
しかし、雨に濡れて冷えてしまった身体は、思いのほか上手く動かず、なかなか見つからない。
「あ、あれ?あれ?」
「ああ、もういい、貸せっ」
凌空は焦れたように凛からカバンを奪うと、あっさりと中から折り畳み傘を取り出した。
それを開くと、すぐに凛に差し掛ける。
「凌空も入って、濡れてる」
「俺はいいから、自分の心配しろ」
凌空は凛に傘を持たせると、凛の手を引いて先を歩きはじめてしまう。
凛はどうにか凌空も傘の中に、と思ったけれど、身長差と距離のせいで上手くいかない。
結局、雨の中を濡れながら歩く凌空を、傘を差して追いかけることしかできなかった。
「ああ、まずいな。熱が上がりはじめてるかも」
とりあえず雨が凌げる場所まで歩いた凌空は、再度凛からカバンを奪い取り、傘を見つける際に一緒に見つけていたタオルをカバンから取り出した。
それで、濡れてしまった凛の顔や身体を拭いていると、さっきは濡れて冷たかったはずの凛の身体が熱くなってきているような気がしたのだ。
「大丈夫、だよ」
「こういう時の凛の大丈夫は、だいたいあてになんねーんだよ」
現に凛の目はとろんとしており、頬も赤みを帯びていて、どこかぼーっとしている。
本人にまだ自覚症状はなさそだけれど、雨に濡れたせいで確実に体調を崩しつつあるのは明らかだった。
――凛が体調を崩した、先に帰る
凌空は手早くスマホでそう入力すると、結芽に送信した。
そして、今度は電話帳からある番号を探し出し、電話をかけ始める。
「あ、もしもし、おばさん?凌空だけど……」
ツーコールで出た相手と会話をはじめる凌空を、凛は見上げる。
(誰と、電話しているんだろう)
凌空の身体は、まだ濡れたままだった。
漫画では、この雨の日の後日に、凌空も結芽も悠も体調を崩したような描写はなかった。
それでもやっぱりこのまま放っておくと、風邪をひいてしまいそうで凛は心配になる。
「ごめん、凛が雨に濡れちゃって……熱、出始めてるかもしんない」
話題がすぐに凛の体調のことになり、凛はあれ?と思う。
(もしかして、相手、ママ……?)
凌空はその後、丁寧に電話の向こうにいる人間に今いる場所を告げ、電話を切った。
「凛とこのおばさん、迎えに来てくれるって」
切ったばかりのスマホを手に、凌空は簡潔に話の内容を凛に告げる。
(やっぱり、ママだったんだ)
電話の相手は、どうやら凛の予想通りだったようだ。
しかし、予想通りだったからこそ、凛には腑に落ちないことがあった。
「ママの電話番号、知ってたの?」
「いや、おばさんのっていうか、凛の家にかけただけだよ」
「あ、なるほど」
確かに、凛の母親は家にいることが多い。
自宅に電話をすれば、だいたい連絡は取れるだろう。
(なんだ、さすがにママのケータイまで知ってるわけないか)
凛はそう思い、考え過ぎだったと息を吐いたけれど、すぐにまた凌空に驚かされることとなる。
「ま、おじさんの番号も、おばさんの番号も知ってるけど」
「えっ?」
「なんかあったら連絡してほしいって、俺も結芽も教えてもらってるけど、知らなかったっけ?」
そんな情報は、凛の中にはなかった。
もしかしたら、この世界の藍沢 凛も知らなかった情報なのかもしれない。
「凌空、濡れてるよ」
「このくらい、へーきだって。それより、自分の心配しろよ。明日、絶対寝込むぞ」
「大丈夫だよ」
「だから、それ、あてになんないだって」
凌空は自分のことは後回しで、どこまでも凛の心配ばかり。
結局、凌空が濡れてしまった自身の身体をタオルで拭いたのは、車で迎えに来た凛の母親にタオルを差し出されてからのことだった。
この後、凌空の予想通りに、凛はしっかりと体調を崩し、数日ほど寝込んで学校を休むことになる。
一方で漫画の展開と同様に、凌空はもちろん、結芽も悠も、特に体調を崩したりするようなことはなかったようである。
凛は、あらためて、自身の身体はそれほどまでに弱いのだと、思い知らされているような気がした。
「凌空……っ」
熱に魘されながら、凛は何度も何度も、悲し気な表情の凌空が出てくる夢を見た。