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第9話


「あ、体調、良くなったんだね」


 ようやく学校に通えるまで回復した凛は、部室に荷物を置いて、バスケ部が練習を行う体育館へと向かう最中だった。

 そこで、後ろから声をかけられ、凛は振り返る。


(え?悠……?)


 まさかこうして声をかけられると予想してなかった凛は、驚きを隠すことができずにいた。


「青羽、くん……」


 勢いで悠、と呼びそうになったけれど、凛はなんとかそれは回避した。

 この世界の凛の記憶をどれほど辿ってみても、凛が名前で、しかも呼び捨てで呼ぶ相手となれば、凌空と結芽しかいない。

 いきなり、悠の名を呼ぶのは、あまりにも不自然だ。


「よかったら、凌空や結芽みたいに、悠って呼んでよ。俺も、凛って呼ぶから」

「え?」

「また4人で出かけたりするかもしれないだろ?だったら、もっと仲良くしておきたいなって、ダメかな?」


 呼び方が変われば、仲良くなれるというものでもないとは思うけれど。

 でも、確かに、結芽が悠を好きでいる以上は、今後も似たようなことはあるかもしれないと凛は思う。

 それに、元々、漫画で見ていた時に悠と呼んでいたため、その方が呼びやすいというのもあり、凛はその提案を受け入れることにした。


「じゃあ、悠って呼ぶね」

「うん。ありがとう、よろしくね、凛」


 凌空とは違う、柔らかな笑み。


(結芽は、悠の、こういうところが好きになったのかな……)


 凌空は少しぶっきらぼうなところがある。

 けれど、本当は悠よりもずっと優しいのに、凛はそう思わずにはいられなかった。


「あの日、一緒に出掛けてから、ずっと体調を崩して休んでるっていうから、心配してたんだ」

「あっ、心配かけてごめんね。おかげさまで、もうすっかり元気だから」


 確かに一緒に出掛けた友人が、翌日からずっと体調を崩していると聞けば心配にもなるだろう。

 その上、途中ではぐれて、有耶無耶な解散となってしまっていれば余計にかもしれない。

 随分と心配させてしまったみたいだ、と凛が申し訳なく思っていると、凛の手がぎゅっと握られる。


「え?」


 この場には、凛と悠しかいない。

 もちろん、握ったのは悠である。

 両手で、しっかりと握りしめている、その意図がわからず凛は困惑する。


「あ、あのっ」

「元気になって、本当によかった」


 凛の困惑した表情になど気づかないかのように、悠は未だ手を握ったまま、ほっとした表情を浮かべている。


(それだけ、心配してくれた……ってことなのかな……)


 そう思うと、振り払うのも躊躇われ、凛はしばしそのままにしていた。




「おい、何してるんだ?」


 それは、凛がよく知る凌空の声のはずだった。

 けれども、いつもより数段低く鋭く感じる声に、凛はびくりと肩を震わせる。


「凌空……?」

「何をしてるのか、聞いてる」


 やはり、声はどこまでも鋭く、見上げた凌空の表情もまた険しいもののように感じ、凛は顔を強張らせた。


「凛がやっと元気になったみたいだから、話をしてただけだよ?」


 凌空の鋭い声に気づいていないのか、それとも気にしていないだけなのか、悠はこの状況で驚くほど柔らかな笑みを浮かべている。


「そ、そうなの、ずっと休んでたから、悠も心配してくれてたみたいで……」


 凛のその一言に、凌空はあからさまに顔を顰めた。


(悠……?)


 凛が呼び捨てで呼ぶ男子は、凌空ただ一人だけだった。

 凌空の視線の先には、悠の両手にしっかりと握られた凛の手がある。

 それを見ているだけで、凌空は苛立ちが募っていく。

 そして、凛の声が悠と呼ぶのが、それをさらに加速させていくようだった。


「話がある、ちょっと来い」


 凌空は悠には目もくれず、悠の手を凛から引き離すかのように、あえて悠に握られたままの凛の手を取った。

 そのまま強く引っ張ってしまえば、その力に逆らえず、凛はあっけなく凌空の方へと移動する。

 それを確認し、凌空は悠から離れるように、そのまま凛を引っ張って歩みを進める。

 凛は、足がもつれそうになりながらも、凌空について行くしかなかった。




「どういうつもりだ?」


 悠の姿が見えなくなった場所で、凌空は凛を投げつけるかのように自身の前に引っ張り出す。

 その勢いで、とんっと木にぶつかったけれど、凛はそんなことを気にしていられなかった。

 凌空の表情が、見たことないほど怒りに染まっていたから。


「もしかして、あれが、協力するってやつか?」

「え?」

「わかってんのか?悠は結芽の好きな奴なんだぞ!?」

「わ、わかってる、よ……」

「だったらなんでっ」


 どんっとすぐ傍の木が音を立てて揺れた。

 凌空が、怒りをぶつけるかのように、殴ったから。


「り、凌空……、どう、した、の……?」


 凌空がものすごく怒っていることは凛にもよくわかる。

 けれど、その理由は見当もつかなくて、凛は戸惑うことしかできない。


「どうした、だって!?さっきの、なんなんだよっ!手なんか握られて、名前まで呼んでっ」

「あ、あれは、別に……」

「結芽が見たら、どう思うか、考えなかったのか!?それともわざとなのか!?俺は望んでないって言っただろっ!!」


 何か、誤解されている、そう思うけれどあまりの剣幕に上手く言葉が出て来ない。


(凌空が怒ってるのは……、私が結芽を……凌空の一番大切な女の子を、傷つけるようなこと、したから……)


 確かに誰だって、想いを寄せる男の子が他の女の子の手を握っていて、嬉しいわけがない。

 きっと、さっきの光景を見たら、結芽は悲しんだだろう。

 しかし、決してそれは、凛が望んだ光景ではない。


「ちが、ちがうの、凌空……っ」

「なにがだよ。とにかく、これ以上、結芽を裏切るようなことするんじゃねーぞっ」


 軽蔑されているみたいだ、凛は冷たい凌空の視線を受けてそう思った。

 どれほど過去の記憶を辿ってみても、凛に対してこんな視線を向けた凌空の記憶などない。


(どうしよう、凌空に嫌われたっ)


 凌空はもう、凛に背を向け体育館の中へと歩き出してしまっている。


「凌空、ま……っ」


 呼び止めて、早く誤解を解かなければ、そう思ったけれど凛はそれ以上言葉を発することができなくなった。


(な、なに、これ……苦しい……っ)


 経験したことのないような、痛みと息苦しさが突如凛を襲う。

 凌空が体育館の中へと入りその扉が閉じられるのと、凛がその場に崩れ落ちるのはほぼ同時だった。




(なんなの、これ……、どう、すれば……っ)


 きっと、これが発作なんだろうと、胸のあたりを押さえながら凛はそう思った。

 けれど発作が起きた後、どうすればいいか、凛にはわからなかった。

 記憶を辿ろうにも、苦しさのあまり上手くいかない。

 パニックになる中で、苦しさはただただ増していくような気がした。


 ――大丈夫、落ち着いて。じっとしてれば、すぐに治まるから。大丈夫、大丈夫。


 頭の中で、そんな声が響いた。

 誰の声かはわからない、けれどよく知っているような気がする声だった。

 凛はその声に従うように、できるだけ落ち着いて、その場でじっとしているように努めた。


(大丈夫、大丈夫、すぐに治まる)


 声と同じように、何度もそう言い聞かせながら、早くこの痛みが無くなることをただ願っていた。

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