「ねえ、本当にやるの?」
発作を起こしてから、数日後の放課後のことだった。
部室に荷物を置いた凛は、凌空と結芽に捕まり、地面に座らされている。
信じられない、と2人を見上げる凛とは対照的に、凌空も結芽も大真面目に頷いている。
凛は、頭を抱えたくなった。
(こういうのって、わざわざ練習するもんだっけ……?)
捕まった理由は、お姫様抱っこの練習なのだという。
いつ凛が倒れても、凌空がお姫様抱っこで運べるようにと練習するらしい。
結芽はスマホ片手に、お姫様抱っこのやり方を検索までしている。
「いきなりやって失敗しても困るし、事前に練習しといた方が安心だろ?」
「そもそも、そういうの、無い方がいいんだけど……」
「そりゃあ俺だって、無いに越したことはないけど、凛の場合、そうも言ってられないしな」
あの発作を起こし、ある声を聞いてから、凛の中で少しばかり変化があった。
これまでは、この世界の藍沢 凛の記憶を辿る時、他人の記憶を覗いているような感覚で見ていた。
けれど、今は、まるで自分が実際に経験した記憶かのように感じるようになった。
そしてこの瞬間も、思い起こせば、何度となく発作を起こし、凌空と結芽のお世話になっている記憶がまるで自分のもののように蘇り、凛はとても反論などできなくなってしまった。
「とりあえず、やってみるか」
結芽が検索した内容をしばし見ていた凌空は、そう呟くと凛に手をかける。
「ひゃあっ」
あっという間に凛の身体は浮き上がり、浮遊感からくる恐怖に、思わず凛は凌空の首にしがみついた。
「お、いいな。そうして手を回してくれた方が、楽かも」
「でも、具合が悪いとき、そんなことできないんじゃない?」
「あ、確かに。凛、ちょっと手放して」
「えぇ……」
凛は決して凌空に楽させようとか、そんな意図があって手を回しているわけではない。
単純に怖いからでしかないというのに、凌空も結芽もそこは気にしてくれない。
練習のためなのだからと、せっつかれるようにして、凛はおそるおそるその手を放した。
「ひあっ」
手を放した途端、凌空は凛を左右に振り始め、凛は恐怖からまた凌空にしがみつきそうになった。
けれど、また手を放すように言われそうな気がして、胸のあたりで両手を握りしめ、必死に耐えた。
「意外と、なんとかなりそう」
「確かに!これなら、次はお姫様抱っこで凛のこと運べそう!」
特に苦戦することなく、あっさり成功したことで、凌空と結芽は楽しそうに笑っている。
だが、凛はそれどころではなく、できれば早く降ろして欲しいと願っていた。
「り、凌空、重く、ないの……?」
思いのほかぶんぶんと振り回される現状に震えながらも、凛はなんとか凌空に問いかける。
「んー?筋トレにちょうどいいかも」
そう言うと、凌空は回ってみたり、凛を上に持ち上げてみたりする。
(それって、つまり、重いってことなんじゃ……)
だったら、早く降ろして欲しい。
そう思いながらも、凛は凌空と結芽を見ているとその言葉を発することはできなくて、ただ2人が飽きるのをじっと待っていた。
「へぇ、本当に練習してるんだ」
凛たちの騒ぐ声が聞こえたのだろう。
興味津々といった感じで、悠が顔を出した。
「え?悠!?」
結芽は突然現れた悠に、顔を赤らめながらも、向こうから出向いてくれたことになんだか嬉しそうである。
一方で、凌空はというと、練習はここまで、とても言うようにあっさりと凛を降ろした。
ようやく浮遊感から解放された凛は、ほっと息を吐く。
「悠、ちょうどいいとこに来た。ちょっとツラ貸せ」
「えっ!?」
凌空の言葉に声をあげたのは、悠ではなかった。
凛と結芽、2人分の驚きの声が、きれいに重なった。
どこか物騒にも聞こえる凌空の言葉に、凛と結芽は顔を見合わせて首を傾げた。
悠はといえば、ただにこにこと柔らかな笑みを浮かべているだけである。
「結芽、凛、先に体育館に行ってて」
凌空にそう言われ、結芽と凛はまたしても顔を見合わせた。
「とりあえず、行こっか」
結芽がそう言って凛に手を差し出す。
凛は頷いてその手を取り、立ち上がった。
(凌空と悠は、そんなに親しくなかったはずだけど……)
3年間同じ部活、さらには結芽のために何度かともに出かけたりもした。
けれど、結局凌空と悠は結芽がいなければ最低限の会話しか交わすことがなく、親しくなるような描写は漫画にはなかったのだ。
(バスケ歴長い悠が、凌空に嫉妬したりとか、そういう描写ならあったけど……)
凌空から声をかけ、2人で会話をするなんて、結芽に頼まれて何か聞き出すようなことでもなければありえなかった。
だが、結芽を見る限り、凌空に何か頼んだ様子はない。
漫画では描かれなかったような状況で、凌空と悠がいったいどんな会話をするのか、凛は当然気になって仕方なかった。
だが、ここに残るわけにはいかず、凛はしぶしぶ結芽とともにその場を離れた。
「珍しいね、凌空が俺に話があるなんて」
やはり、悠はにこにこと笑みを浮かべたままだった。
だが、凌空は凛と結芽の姿が見えなくなった途端、険しい表情で悠を睨みつけている。
それでも、悠の笑みは崩れることはなく、動揺した素振りを見せるようなこともなかった。
「なんで、凛に近づいたんだよ」
「ふーん……、そうやって、凛に近づく奴、全部排除してきたんだ?」
「は?」
悠の笑みは崩れていない。
けれど、その言葉と声色には挑発や敵意が込められているような気がして、凌空の視線は鋭くなる。
「どういう意味だよ」
「あれ、自覚ないの?」
くすくすと悠の笑い声が聞こえ、しかしながら悠の言わんとすることは理解できない。
凌空はふつふつと怒りが込み上げ、ぐっと拳を握りしめる。
「おいっ」
「あの日も、そうだったでしょ?俺が少しでも凛に近づこうとすると、すぐに近づけないように凛を俺から引き離してた」
「あれは……っ」
「最初は俺と結芽を近づけたいのかと思ったけど、それなら別に凛と些細な会話をするのまで邪魔する必要はないよね?」
4人で映画を見ようと出かけた日、会ってすぐに言葉を交わしたときも、凛はすぐに凌空によって連れ去られてしまった。
その後は、些細な会話を試みようとするたび、声をかける前に凌空によって上手く交わされてしまった。
結局、一緒に出掛けたというのに、悠は結芽としかまともに会話していない。
どう見ても、ことあるごとに凛から引き離されているとしか思えなかったのだ。
「だいたい、一緒に出掛けた後、凛はしばらく学校休んだんだよ?声くらい、かけたって普通でしょ?」
「凛に名前まで呼ばせる必要、ないだろ」
「ふーん、そんなに嫌だった?自分以外の男が、凛に名前呼ばれてるの」
「そんなんじゃ……」
ない、と凌空は言い切れなかった。
凛が呼び捨てで名前を呼ぶのは、いつだって凌空と結芽だけ。
それが当たり前のことであり、これからもずっとそうであって欲しいと、凌空は心のどこかでそう願っているような気がした。
「俺、ずっと凌空は結芽が好きなんだと思ってた」
結芽が一度、部長に入部を打診して、マネージャーは募集していないと断られたのを、その時すでに入部していた悠は知っていた。
すると、今度は先輩たちが入部を希望してやまない凌空が、わざわざ結芽をマネージャーにすることを条件にして入部してきた。
さらには、結芽が凛の入部を希望すれば、凌空はそれもまた部長に打診し、受け入れさせた。
そんな凌空の一連の動きを見て、悠は凌空はよほど結芽が好きなのだと、そう思っていたのだ。
「でも、違ったね。結芽はあくまで大事な幼馴染、本当は凛が好きなんでしょ?」
「は……?何、言って……」
悠を凛から引き離したのは、ただ結芽と近づけるためだけ、ただそれだけのはず。
凌空が好きなのは結芽であって、凛にも先日、それを伝えたばかりだ。
それなのに、そう思っているはずなのに、凌空はなぜか悠の言葉を上手く否定できず、ただ戸惑うばかりだった。