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 暗く冷たい水の中に、リリスは沈もうとしていた。

 必死で伸ばした手の先から水面までは、わずかな距離だ。

 助けて。

 大量の水が肺に流れ込んでくるのを感じながら、リリスは必死で叫ぶ。

 しかし、身体は重くなる一方、もがく手足からは急速に力が抜けて行く。

 と、水底で泥が舞った。

 その中から、腐り、ふやけきった子ども達が飛び出して来る。

 ――遊ぼう、遊ぼうよリリス。

 白く濁った瞳を見開き、ケラケラ笑いかける子ども達。

 魚に啄ばまれ、肉がえぐれ、骨が露わになった手をリリスに向かって伸ばして来る。

 ――寂しい、寂しいよリリス。

 歌うように声をそろえる子ども達。

 ――僕達私達、もう、おうちに帰れないの。だから、リリス一緒にいて? 僕達私達とずっと一緒に、一緒に水の底で遊ぼうよ。

 子ども達に纏いつかれながら、何としてでも水中から浮上しようともがくリリス。

 と、突然、リリスの目の前に白い二本の腕が突き出された。

「ああ、可愛い子ども達」

 それはリリスのか細い首を攫み、ギリギリと締めあげはじめる。

「本当に、本当に、可愛い子ども達……」


「いやっ……!!」

 甲高い悲鳴をあげ、リリスは目を覚ます。

 そこは馬車の中だった。

 しかし、本当に水の中にいたかのように汗で全身がぐっしょりしている。

しかも、首を掴まれた感触は生々しく残っていた。

額を伝って顎に滴り落ちる汗を手の甲で拭う。

 なんて厭な夢なの、とリリスは思った。

 それに、あの子ども達は……。

 ドス黒いものが胸中に溜まってゆくかのような不快感。

 口の中が酷く乾いていた。喉もザラザラとしていて、水でも飲んで喉を潤わさなければ眠れそうにもなかった。

 そーっとリリスは立ち上がり、毛布にくるまっているタックとチコリ婆さんを横切る。

 馬車の外に出ると深夜の河原は、以外にも音で溢れていた。

 さらさらと流れる川の音。

草むらから聞こえる虫や蛙の鳴き声。

森の木々が揺れる音。

そして、夜空の雲を吹き流す風の音。

 それらを耳にしながら、リリスはゆっくりと川辺に近寄っていった。

 冷たい水を両手ですくい、口元まで運んだ時だった。

「遊んでくる」

 後ろから聞こえてきたのは、子どものかすれ声だった。

 ギョッとして振り返ると――、そこにタックが立っていた。

 ボンヤリとした薄目をあけ、だらりと両腕を垂らし、左右に身体を小さく揺らし続けている。

「お、脅かさないでよ、タック!!」

 思わず、リリスは声を裏返していた。

「僕、遊んでくるよ……」

「何? 何、言ってるの?」

 タックの唇から洩れでた呟きにリリスは首を傾げた。

「寝ぼけているの? もう、真夜中だよ? いいから馬車に」

 戻って、とリリスが命じるよりも早く――、タックの小さな身体が宙に浮かび上がった。

 風に吹かれる木の葉のように、ふわり、と。

「遊んでくる……」

 釣り竿にひっかけられた魚のように、闇に浮かび上がったまま、同じ言葉を繰り返すタック。

 一瞬、リリスは血の気が引くのを感じ――、

「お、おやっさん!! アブン兄ィッ!! 誰でもいいから早く、来てッ……!!」

 悲鳴のような声で仲間を呼ぶ。

「な、何だ!? ど、どうした!? 何があった!?」

 それをすぐさま聞きつけ、ジョパンニとアブンが馬車から飛び出して来るのが見えた。

 グレコーとザブもそれに続く。

「あれ!! タック!! あたしの孫が!!」

 騒ぎを聞きつけ、チコリ婆さんも幌の中から顔を出す。

「リリスや!! こりゃ、一体どういうことなんだい!?」

「それは……」

 と――、ビクン、とタックの身体が大きく痙攣した。

 次の瞬間、何かに引っ張られるようにして、闇の中に吸い込まれる。

「タックのやつ、なかなかやるな」

 あはは、と困惑するように笑いながらアブンが言った。

「いつの間にあんな技を習得したんだ? 飛んで行っちまいやがった……」

「何をのんきな!! みんな、タックを追いかけるんだッ!!」

 ジョパンニの言葉が終らないうちにリリスは走り始めていた。


 ぶらんと吊り下げられた姿勢のまま、タックは丘の上を飛んだ。

 タックの姿を見失うまいとリリスは、何度も転びそうになりながら、その後を追いかける。

 と、スカートのポケットにしまっていた件の石板が震えた。

 振動しているだけではなく、焙られるような熱を発しているようだった。

――魔除けだ。地霊の加護を受けた、正真正銘、本物だ。

 これを受け取った時、ヴァロフェスから聞かされた言葉が蘇ってくる。

 そして、村人やアブンの言っていた魔女……。

 これは魔女の仕業なのだろうか? 

これをやっている者が村の子供たちをかどわかしたのだろうか? 

 そしてそいつは子供たちを……。

「おい、肉達磨!! それにチビ猿ッ!!」

 後ろからアブンがグレコー達を怒鳴りつける声が聞こえた。

「あのガキは俺が捕まえるから、てめえは村人たちを起こせ!」

「ああっ!? こんな、真夜中にか!?」

「ンなこと、言っている場合か!! いいから、一人残さず叩き起こせ!! ――ま、待て、リリス!! お前一人で先走ったってどうにもならないだろッ!!」

 悲痛なアブンの呼び声には答えず、リリスは走り続けた。

 タックの身体は村の広場――、井戸を覆う屋根の上で止まった。

「――タック!!」

 ぷらぷらと揺れる、弟分の靴を見上げながらリリスは叫んだ。

「いい加減、目を覚ましな!!」

 ぴくっ。

 タックの瞼が微かに痙攣する。

 ゆっくりと目を覚まし――、

「な、何コレ……?」

 不可解そうな表情を浮かべ、タックは自分の足元、そして周囲を見回す。

 その顔が見る見るうちに泣き顔に歪んでゆく。

「リリス? これ、何? どうして僕、宙に浮かんでいるの?」

「落ち着いて!! 今、行くからね!!」

 そう答えるとリリスは、屋根を支える柱に飛び付き、登り始める。

 その途端、周囲が騒がしくなる。どうやら、グレコー達が村人をかき集め、こちらに向かっているようだった。

「ど、どうしよぉ、リリス」

泣き笑うような表情でタックがまた言った。

「か、身体が全然、動かない。ぼ、僕、どうしよう……」

「大丈夫だってば」

 励ますようにリリスはタックに微笑みかけながら、屋根の上によじ登った。

 そして、滑り落ちないよう慎重な足取りでタックに向かってゆく。

「いい子だから落ち着いて。姉ちゃんが絶対助けてあげるから……」

 手を伸ばしかけ――、リリスは目を見開き、言葉を失っていた。

「リ、リリス……?」

 ヒクッ、と声をしゃくらせながら首を傾げるタック。

 その背後にムクムクと盛り上がって来たのは――、どす黒い煙のような何かだった。

――こっちにおいで。

 ゆらゆら、揺らめきながら煙がリリスにそう命じた。

――お前もおいで。こっちにおいで。楽しい所にゆこう……。

どっ、と背中に冷や汗が溢れた。

無意識のうちにリリスは、片手をポケットに忍ばせていた。件の石板を掴んだ指先に火箸に触れたような痛みが走る。

「タックから離れて!!」

 とっさの判断だった。

 声をあげながら、リリスは石板を振りかぶり、投げ付けていた。

 赤く発光した石板は、煙に向かってまっすぐに飛び――、触れると同時、耳をつんざくような轟音をあげ、爆発する。

 そして、巻き起こる閃光の洪水。

 一瞬、真昼をはるかに凌駕する明るさが広場を支配していた。

 ぐぉおおおおっ、と言う猛獣の如き苦悶の叫び。

「タック!」

 屋根の上に背中を叩きつけられ、喘ぎ声をあげるタックに駆け寄ろうとして――、リリスはビクッと足を竦ませていた。

 黒い煙は、まだ、そこに漂っていた。

 そして、より物質的な姿へと変貌を開始する。

 ドクドク、ドクドク……。

 脈打つような音を立てながら、黒い煙は、黒い剛毛の塊へと変わっていった。

 それは、見る見るうちに小さな家ほどの大きさに膨れ上がった。

 脈打つ毛の塊の中から、鋭い爪先を持つ細長い脚が一本、二本、三本……と生え伸びて来る。

 それらはまるで黒光りする槍のようだった。

 ガシャン!!

 それに踏みつけられ、固い瓦がクッキーのように砕け散った。

 飛び散った破片がリリスの柔らかな頬に幾つもの小さな傷を付ける。

 だが、リリスは苦痛を感じることすら忘れ、目の前で発生した怪異に魅入られていた。

 やがて――、突き出した八本の脚に支えられ、巨大な毛玉がふわりと浮き上がる。

 蜘蛛だ、とリリスは鳥肌立つのを覚えた。

 それは悪夢から抜け出てきたような、おぞましく巨大な黒蜘蛛だった。

「あ、ああ……」

 頭の中が真っ白になってゆく感覚。

 意味のない呻き声が自分の口から漏れ出てくるのをリリスは聞いた。

 目の前の光景に頭がこんがらがり、思考が整理できない。背筋には氷の棒を差し込まれているような不快感。

 あの夜、森で感じた嫌悪感とそれは同じものだった。

 人の顔を持つ、狼の群れに襲われた夜と。

 と――、黒蜘蛛の胸元がもっこりと盛り上がった。

 真っ黒い剛毛の中から突き出されたのは、白くほっそりとした二本の腕。

 女のそれのように艶めかしさすら感じさせるその腕は、周囲を弄るような仕草を見せ、倒れたままになっているタックの足首に向かって伸びた。

「だ、ダメ!! やめてッ!!」

 怖じ気づいてしまいそうな自分の心に鞭を打ち、リリスは再び、走り出す。

 この場を切り抜ける策など何もなかったが、そうせざるを得なかった。

 しかし――

「…………ッ!?」

 剛毛の中でギョロリと見開かれる金色の瞳。

 それが真正面からリリスを睨みつけてくる。

――よくも。

 ザラリとした冷たい声がリリスの頭の中に響く。

――よくも邪魔を。よくも、よくも、よくも、よくもよくもよくもよくも……ッ!!

それは悪意に満ちた、狂人の喚き声だった。

全身を掻きむしりたくなるような嫌悪感が込み上げ、リリスは悲鳴をあげてしまう。

 ふらり、と足元がふらつく。

 そのままバランスを崩し、リリスは屋根の縁から転がり落ちてしまう。

「あ、危ねぇッ!!」

 地面に叩き付けられる寸前、リリスの身体をアブンが抱きとめる。

 アブンの肩越しに見えたのは、一座の芸人達や武器や松明を手にした大勢の村人達。

「ア、アブン兄ィ……」

「なぁ、リリス。あいつは何者なんだ?」

 リリスの身体を地面に下ろしながら、目を血走らせるアブン。

「一体、どこから湧いて出やがった?」

「…………」

 兄貴分の問いかけにリリスは答えなかった。

 いや、答えることなどできるはずもなかった。

 唇を噛みしめながら、視線を再び、井戸の屋根の上に戻す。

「かわいい子」

 気絶したタックを二本の女の腕で抱きすくめたまま、黒蜘蛛は低く、くぐもった声を発する。

 腹部と思しき部分がパックリと一文字に裂け――、そこに赤い大きな唇が出現する。

「かわいい子、ああ、本当にかわいい子……」

 呪文のように繰り返される、同じ言葉。

 半開きになった唇の中から紫色をした長い舌がべろりと伸び、タックの顔を這う。

 ベロベロとタックの顔をなめ回し、白い唾液を、目と言わず鼻と言わず、ベットリ汚してゆく。

 タックに意識がなくてよかった、とリリスは本気で思った。

 あんな気持ち悪いことされたら、あの子、頭がおかしくなっちゃうよ……!!

「おい!! 早く助けてやれよ!!」

 村人の誰かが叫んだ。

「このままじゃあの子、食い殺されちまうぞ!?」

 それに答えたのはアブンの怒声だった。

 愛用の槍を大きく振りかぶり、タックを舐め回す黒蜘蛛に向かって力いっぱい、投げ付ける。しかし、アブンの槍は、黒蜘蛛が足を一本、軽く一振りしただけで撃ち落とされてしまう。

「クソッ!! 何だってんだよ、この化け物ッ!!」

 ケタケタ、と甲高い声で黒蜘蛛が笑った。

 歯軋りして悔しがるアブンを嘲り笑っていた。

 それから――、飛んだ。

「ひっ……!?」

 突然、目の前に弾けた血飛沫にリリスは息を飲む。

 すぐ側にいた二人の村人が、黒蜘蛛の鋭い爪先に頭を刺し貫かれたのだ。確かめなくとも、二人が即死したことは一目瞭然だった。

 しかし、悲しんでいる暇などなかった。

 村人の遺体を踏み台にして、黒蜘蛛は再び、大きく跳躍。

近くにあった樹の幹に飛び付く。

 八本の脚をカサカサ蠢かしながら、その巨体からは信じられないような速さで、鉄片を目指し、登ってゆく。

 その白い腕には、ぐったりとしたタックが抱きしめられたままだ。

「お、おい!! 誰か、早く、あいつを何とかしろッ!!」

「無茶言うな!! ありゃ、魔物だ!! 俺達の手にゃ負えねーよ!!」

 混乱に陥り、怒号を飛ばし合う人々。

それを見下ろし、黒蜘蛛はまたけたたましい笑い声をあげる。

「…………ッ!!」

 その不快さに耐えきれず、両手で耳を押さえ、その場にしゃがみ込んでしまうリリス。

 ああ、神様。

 お願いだからこんな悪い夢、もう、お終いにしてください。

 と、

「――ふん。まじない石も大した効果はなかったみてえだな」

 はっ、と息を飲んでリリスは顔をあげる。

 聞き覚えのある、そのキンキンとした声は人だかりの向こうから聞こえてきた。

 表情を凍りつかせ、一瞬、水を打ったかのように静まり返る人々。

「お前、書き込む呪文、間違えたろ?」

「…………」

 リリスは見た。

 夜の帳のような黒い外套をなびかせ、片手に奇妙な人形を携えた仮面の男が人々の間をすり抜け、こちらに向かってくるのを。

「あっ、て、てめーはッ!!」

 ギョッと目を見開き、男を指差すアブン。

「酒場で俺を殺そうとした野郎じゃねぇか!! 何で、ここに……」

「退け」

 たった一言、仮面の男は命じた。

 ビクッと肩を震わせ、一歩、二歩……と、後退りするアブン。

「ヴァ、ヴァロフェス……?」

 身体をよろめかせながら立ち上がり、リリスは男の名を呼ぶ。

自分でもおかしいほど声が震えていた。

「あんた、やっぱり、来てくれたの?」

「この喋るガラクタを頼む」

 すれ違いざま、仮面の男はリリスの腕に木偶人形――、オルタンを押しつける。

「面倒ならその辺に放り捨てておけ」

「ホントひっでーヤツだな、お前……」

うんざりしたように人形が言う。

「いっぺん、マジで死ねよ」

 人形の悪態を無視して、静かに木の上を見上げる仮面の男。

タックを抱きしめた異形の黒蜘蛛がシュウシュウと威嚇の声をあげた。

「やっと会えたな」

 やや、芝居がかった動作で手を広げ、仮面の男は怪物に呼び掛ける。

「貴様に二、三、尋ねたいことがある」

 シャアアアアアアアアアアッ……!!

 血も凍るような叫び声を返す黒蜘蛛。

 そこには怒りだけではなく、激しい恐怖の色も見え隠れしていた。

「話し合う気はない、か」

 溜め息をつく仮面の男。

銀の奇妙な飾り細工が施されたステッキがその掌の上で、クルクル、鮮やかな軌跡を描きながら踊る。

「では――、ともに狂い咲くとしようか」

 グッと得物を握り締め、仮面の男――、ヴァロフェスは押し殺すような声で告げた。



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