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第七話 湖

 唸るような風の音でヴァロフェスは目を覚ました。

 そこはベッドの上だった。

 横たわったまま、激しく軋む窓を見上げる。

その向こうに見える空は、どろりと腐った膿のような色に染まっていた。

 ふと、ヴァロフェスは毛布の中の自分の身体を見た。

 いつも身に付けている外套と上着は剥ぎ取られ、代りに包帯が巻き付けられていた。

微かに漂うのは薬草の臭いか。

 ふと足元に視線を向けると、例の赤毛の娘――、リリスがいた。

 上半身をベッドに投げ出し、スヤスヤ安らかな寝息を立てている。

「おい……」

 そのあまりにも無防備な姿に思わず、声をかけてしまうヴァロフェス。

「はいっ?」

 弾かれるようにガバッと顔をあげたリリスが寝ぼけ眼をこする。

「あ……、良かった。目が覚めたんだね」

 それからニッコリと場違いなほど明る微笑みを浮かべて見せる。

 ヴァロフェスは肩を竦めていた。

「……ここはどこだ?」

「ここ? ここは奥様――、ルー夫人のお屋敷だよ」

「ルー夫人?」

「村で一番、偉い人の奥さん。旦那さんは子供と一緒に亡くなっているから未亡人かな」

 溜め息をつきながらヴァロフェスは天井を見上げる。

 窓の外から聞こえる風の唸り声は、ますます、不吉さを増していくようだった。

「……ごめんね」

 ポツリ、とリリスが言った。

 視線を戻してみると少女は曇った表情で俯いていた。

「……どうした? お前に謝られる覚えはないが?」

「だって――」

 涙目になりながら顔をあげるリリス。

「あたしがあんなこと頼んだから、こんな死にそうな怪我させちゃったんだもん……」

「それは違う」

 ゆっくりと上半身を起こすヴァロフェス。

「頼まれても頼まれなくても、私はあの場所に出向いていた。この傷は、単なる結果に過ぎぬ。……だから、お前が気に病む必要は全くない」

「だ、だけどッ!!」

 食い下がろうとしたリリスの唇にヴァロフェスはそっと人差し指を押し当てる。

 見る見るうちに顔を赤くしてゆく少女にヴァロフェスは言った。

「それにこの程度の傷では、私は殺せぬ」

「そうそう。気にするこたぁねぇよ」

 ベッドの下から聞こえてきたのは、下品な笑い声。

 考えるまでもない。

木偶人形のオルタンだ。

 どうやら彼もこの屋敷に運び込まれたらしい。

「何しろ、こいつにとっちゃ昨夜の人外魔境な出来事も単なる日常なんだからよ」

 単なる日常、という言葉にリリスが目を丸くする。

 ヴァロフェスを見つめる眼差しには、困惑の色。

 気の毒に思うべきか、呆れ返って見せるべきか、決めかねているようだった。

 まあ、無理もない。

 いかなる時も、誰にとっても――、私は日常の外にある存在だ。

 内心、苦笑しながらヴァロフェスはベッドから降り立つ。

「今、村人達は?」

「う、うん。うちの芸人達も一緒に一階で会議中だよ。昨夜のアレについてとか、これからどうするとか……」

 ふむ、とヴァロフェスは思った。

 リリスの仲間達も含めて、ここの人間達はなかなか骨があるらしい。

 普通の人間が《叫ぶ者》を目の当たりにすれば、恐慌状態に陥る。

 集団ともなれば尚更だ。

 村から逃げ出さず、対策を講じようとしているだけでも見上げたものだった。

「ならば……、私も顔を出すべきだろうな」

 壁掛けにかけられた漆黒の外套を見つめながらヴァロフェスは言った。

「これ以上、ヤツに餌食をくれてやるのは面白くない」


 リリスに先導され、ヴァロフェスは階段をおりた。

 それから、大勢の人間が喧々諤々と言い争う声が聞こえる、食堂に向かう。

 軽くノックし、リリスがそのドアを開いた。

「だから、あの占い女だよ!!」

 二人を迎えたのは、目を血走らせた村人の怒鳴り声だった。

「奥様以外、皆、満場一致で追放したじゃねえか!! 羊に変な呪いをかけたってよ!!」

「だ、だけど、十年も前の話だろ?」

「悪魔に弟子入りでもして、新しい魔法でも学んでいたんだろうよ」

「畜生、あの女め!! 火炙りにするところを情けをかけてやったのに!!」

「今からでも遅かねぇさ!! 森から引きずり出して嬲殺しにしてやろうぜ!!」

「それは――、穏やかではないな」

「……ッ!!」

 ヴァロフェスの一声にその場にいた全員が息を飲む。

「その女性なら既に亡くなっている。私が葬った」

 部屋に足を踏み入れるヴァロフェスに視線が集中する。

 昨夜の戦いを目の当たりにした村人達がヒソヒソ何事かを囁き合う。

 肩を竦め、ヴァロフェスは続けた。

「それに彼女は、昨夜のあいつとは無関係だ」

「あなたなのですね。怪物から子どもを取り返して下った旅の方というのは」

 そう言って静かに立ち上がったのは、やつれた顔に穏やかな笑みを浮かべた女性だった。

 おそらく彼女がリリスの言う、ルー夫人なのだろう。

「どうぞ、席におつきください。そして、わたくしどもと一緒に……」

 ルー夫人の言葉を遮るように胸に手を当て、一礼するヴァロフェス。

「失礼だが、あなた方と共闘するつもりはない。私は忠告に来たのだ」

 思いがけない言葉だったらしい。

 集まった人々の間にドヨドヨとざわめきが起こる。

「忠告?」

「単刀直入に申し上げよう。……あなた方では、あの怪物には歯が立たぬ。だから、戦うことなど考えないでもらいたい」

 一瞬、水を打ったかのような沈黙。

 そして――、

「じょ、冗談じゃねえぞ!!」

 一人の村人が激高し、卓を殴りつけながら立ち上がった。

「俺は、俺んとこは、一人娘をあいつに連れ去られたんだぞ!?」

「…………」

「他のヤツだってそうだ!! このまま引き下がれるわけないだろうが!!」

「その想いだけで事が成せるならば苦労はない」

 しかし、答えるヴァロフェスの口調は、あくまで冷淡だった。

「犬死が望みならば止めはせぬ。それで子どもらが救われるとは思えぬが」

「な、何をッ……!!」

 見る見るうちに真っ赤に染まってゆく村人の顔。

 しかし、妻と思しき女性に肩を抱きしめられ、力なく椅子に腰を落とす。

「……じゃあ、俺達にどうしろと言うんだ? あいつを倒すのは無理。だけど、あいつは夜になれば、また現れて子どもを襲う。一体、どうすればいいんだよ?」

 声を震わせる男の瞳から涙が零れ落ちる。

 他の村人達も一様に言葉を失い、暗い表情で俯いてしまう。

「この村で一番、安全と思われる場所はどこか?」

「それは、恐らく――、この屋敷でしょうね」

 ヴァロフェスの質問に答えたのはルー夫人だった。

 躊躇いがちに、少々、気まずそうに告げる。

「この屋敷は、村全体を見渡せる小高い丘の上に立っています。怪しい者が接近すれば気付かない、ということはないでしょう……」

「では、あなた方にお願いしよう。この屋敷に村中の子ども達を集めて頂きたい。彼らが邪悪な魔法にかけられぬよう、見張ってもらえれば私も使命に専念できる」

「あなたの……、使命?」

 首を傾げるルー夫人。

 うなづきヴァロフェスは言った。

「あいつを――、やつらをこの世から消し去ることだ」


 村には、部外者であるリリスとタックを含め、三十人ほどの子どもがいた。

 彼らの避難が完了し、監視役を買って出た村人達がそれぞれ持ち場につくのを確認した後、ヴァロフェスは一人、屋敷を後にした。

 森を目指し、丘の長い斜面を下ってゆく。

 その途中、世話をする者が突然いなくなってしまった山羊達が囲いの中から悲しげな声で呼びかけてきたが、それに答えることなく、ヴァロフェスは黙々と歩き続けた。

 と――

「おい、ちょっと待てよ!!」

 後ろから大きな声で呼びかけられた。

 振り返って見ると、旅芸人一座の若者が槍を片手に息を切らせながら丘を駆け下りてくるのが見えた。

 確か、アブンとか言う男だ。

「……何か用か?」

「ま、まあ、そう嫌うなって」

 低い声を発するヴァロフェスに慌てて両腕を広げるアブン。

「あんたにゃ、ワビと礼を入れとかなきゃと思ってよ」

「何の話だ?」

「リリスから聞いたんだよ。あんた、昨日だけじゃなく、森でもうちのチビどもを助けてくれたんだってな。ったく、あいつら、早く言えばいいのによ……」

「成り行きだ」

 ヴァロフェスは肩をすくめた。

「やつらとは個人的な因縁がある。感謝されるようなことではない」

「それでも、だ」

 ニカッと微笑みを浮かべるアブン。

 以外にも温かみのある、優しい笑顔だった。

「それでも、あんたがあいつらの恩人であることに違いはねぇよ」

「…………」

 差し出された手をヴァロフェスは無言で見つめる。

 なるほど。血は繋がっていなくとも、あの娘の兄ということか。

 少し躊躇った後、ヴァロフェスは短くアブンの手を握り返していた。

「それはそうと、」

 声をひそめ、アブンが言った。

「本当に一人で行くつもりか?」

「そう言ったはずだ」

「リリスのヤツが心配しているんだよ。あんた、大怪我しているのにってな。……それでよ、俺に手伝えることがあったら」

「ないな」

 ヴァロフェスは首を振った。

「だが一つだけ頼みたいことがある」

「お、おう。何でも言ってくれ」

 勢い込んで頷くアブン。

 少し考え――、ヴァロフェスは言った。

「あの娘に、リリスにヴァロフェスが看病してくれた礼を言っていたと伝えてくれ」

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