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 半刻ほどの間、森の獣道を歩き――、ヴァロフェスは湖にたどりついた。

 屋敷で聞かされた通り、背の高い木々に周囲を囲まれた広い湖だ。

 外套の裾を擦りながら畔を横切り、古びた桟橋の上を歩く。

 ふと見ると、古ぼけた小舟が縄で括りつけられている。

 躊躇うことなくヴァロフェスは小舟に飛び乗り、備え付けられた櫂を手に取る。

 それを操り、湖の中心へと小舟を進ませる。

「…………」

 暫くの間――、沈黙したままヴァロフェスは湖面を凝視していた。

 波一つ立たない水面は、まるで鏡のように不気味な色に染まった空を映していた。

 水底ではギョッとするほど巨大な魚影がせわしなく動き回るのが見えた。

 ここ半年の間、十人以上もの子どもの命を飲みこんだであろう湖だ。

 魚どもが何を食って肥え太ったのか、考えるだけでもおぞましまった。

 ゆっくりと息を吐き、櫂を小舟の縁にかけるヴァロフェス。

「気は進まぬが、致し方あるまい」

 スッと目を閉じ、顔を天に向ける。

 そして、大きく口を開き――、

「ケェエエエエエエエエエエエエエエエエッ……!!」

 迸ったのは、化鳥のような甲高い叫び声。

 それはこの世のものとしては、あまりにも異質だった。

 ヴァロフェスから発せられた異音は、波紋となり、湖の水面に大きな円を描き、取り囲む森の木々を大きく震わせる。

 同時に立ち込めたのは、ミルクのような濃い霧。

 数秒もたたないうちに湖全体を包み込んだ、濃霧の中――、幾つもの気配が、それもこの世の者ならざる気配が生まれ始める。

 冥界より、死者の影を呼び出す術。

 それは、ヴァロフェスが得意とする魔法の一つだった。

「さあ、出てきておくれ」

 霧に向かって仮面の男は呼びかける。

「この地で果てた魂達よ。未だ晴れぬ怨念を私に語れ」

 その呼びかけに応えるかのように――、分厚い霧のカーテンの向こうから聞こえてきたのは、子どものすすり泣く声。

 ポウッ……。

 青白い炎――鬼火が湖の上で燃え上がった。

 二つ、三つ……、と増えてゆき、それらは次第に人の形へと変わってゆく。

 まだ、年端もいかない子ども達の姿に。

 顔の半分をごっそり失った赤ん坊いた。

 首をおかしな方向に折り曲げた女の子がいた。

 はみ出た腸を照れくさそうに両手で隠す男の子がいた。

 やはり、既に手遅れだったか。

 眉一つ動かさず、ヴァロフェスは思う。

 食い散らした後、やつは子ども達をそのまま湖の底に沈めたらしい。

《叫ぶ者》は、いつだって、死者を冒涜する。

 そう、今、正に私がやっているように。

「さあ、教えておくれ」

 すすり泣く陽炎のような子ども達にヴァロフェスはもう一度呼びかける。

「お前達は、誰に、どのようにして命を奪われたのか……」

――分からない。ぼくたちわたしたち分からない。

 怯えた眼差しをヴァロフェスに向け、子ども達は歌うように声を重ねる。

「思い出すのだ。誰がお前達を殺したのか。なぜ、お前達は殺されたのか」

 ――ぼくたちわたしたち、代わりなんだって……。

「代わり? 何の代わりだ?」

 ――もう、嫌だ。ここは嫌。もう、ここは嫌だ。

 ――だけど帰してもらえない。ぼくたちわたしたちお家に帰してもらえない。

 ――帰りたい帰りたい帰りたい帰りたいよぉおおおおおおおおおッ!!

「待て。私の問いに答えぬ内は、眠りにつくことはまかりならん」

 急速に縮んでゆく子ども達に向かって、ヴァロフェスは冷淡に告げた。

 そして、しかるべき呪文を唱えようとして――

「我が王子よ。無慈悲なことをなさいますな」

「…………ッ!!」

 不気味なほど穏やかな声が、すぐ耳元で聞こえた。

 それは忘れられない声だった。

 この十年間、ただひたすら後を追い続けた者の声だった。

「き、さ、ま――」

 ようやく呻き声を発したヴァロフェスの視界の隅に映ったのは、ひらひらとはためく、長い白衣の裾。

 その途端、ヴァロフェスは胸を剣で引き裂かれたかのような激痛と業火のように燃え盛る憎悪に我を忘れていた。

「マクバァアアアアアッ……!!」

 銀のステッキを抜き放ちざま、一閃。

 しかし、その斬撃はむなしく空を切り裂いただけだった。

「精霊達と溶け合うことで現世を忘却し、悲しみなど知らぬ水の妖精へと転生仕掛けていた幼子らを魔の道へと引きずり込まれるとは……」

 真珠のような光沢を放つ、白衣をまとった人物が水面にツッと爪先立つ。

 目深にかぶった頭巾の下からヴァロフェスに微笑みかける。

「あなた様は相変わらず、恐ろしい方だ」

「黙れッ!!」

 血を吐くような怒声をあげ、白衣に向かって飛び掛かろうと身構えるヴァロフェス。

 しかし、その首筋を後ろからひんやりとした手が撫でた。

「王子よ、そう、お焦りめさるな」

 クスクスと白衣の魔術師マクバが笑った。

「こうして言葉を交わすのも久しぶりではありませぬか」

「貴様と交わす言葉など、ない」

 獰猛な唸り声をヴァロフェスは返していた。

「私が今日、この日まで生き永らえたのは――、貴様を滅ぼす。ただ、それだけのためだ」

「ほう。それはそれは」

「貴様と貴様が獣に変えたおぞましき者ども。ただの一人とて、見逃しはせぬ」

 言葉をつづけるヴァロフェスの瞳には溶岩に似た、暗い炎が宿っていた。

「必ずだ。必ず皆殺しにしてくれる」

「存じておりましたよ」

 あっけらかんとした口調でマクバが言う。

「このマクバ、あなた様の行動は全て見ておりました」

「……何?」

「王子よ。あなたは世界を放浪し、各地の《叫ぶ者》どもを一人ずつ、滅して来られた。それが唯一、私に通じる復讐の手段だと信じて」

 シュッ、と息を吐き――、腰の捻りを加えた回転突きを放つヴァロフェス。

 銀の切っ先が白衣の魔術師の胸元を深々と貫いた。

 そう思った次の瞬間――、

「……ッ!?」

 勢いあまってヴァロフェスは小舟の縁に身体を倒しそうになる。

「ご苦労様、と申し上げましょう」

 笑いを含んだマクバの声。

 その姿は既にどこにもない。

「私を探し求める必要など、ありませんでしたのに。常に私はあなた様の隣に――、いえ、一心同体であったと言っても過言ではない」

「貴様はまだ、そんな戯言でこの私を……」

 愚弄し続けるか、とヴァロフェスが言いかけた時だった。

 脳裏に蘇ってきた記憶の氾濫に思わず息を飲んでしまう。

 大勢の人間たちで賑わう、石畳の都市。

 禍々しい器具が並ぶ、古ぼけた砦の拷問部屋。

 累々と死体が横たわる、夕暮れ時の戦場。

 闇を含んだ森。

 白く焼けた、悪夢の如き広大な砂漠。

 それらは全て、この十年もの間、ヴァロフェスが旅をして回った土地だった。

 そして、その全ての土地に白衣の魔術師、マクバはいた。

 再会した、というのではない。

 森に木が存在するように――、ただ、マクバはそこにいたのだ。

 いや、どこに行ってもマクバがいた、と言うべきか。

「そんな、馬鹿な……」

 耐えきれず、ヴァロフェスは呻き声をあげた口に片手を押し当てる。

 だが……、なぜだ?

 なぜ、私はやつの存在に気がつかなかった?

 今や私の存在意義は、やつを殺す以外、何もないというのに。

「そろそろ種明かしといたしましょう、王子よ」

 楽しげなマクバの声が、また、小舟の周りをクルクルと踊った。

「実を言いますと――、私は路上の小石のように大変、ありふれた存在なのです。だからこそ、誰も私の接近には気付かない。注意を払わない。そして、打ち負かすことはできないのです」

 ちゃぽん……。

 背後から聞こえたのは、水の跳ねる音。

 ゆっくりと振り返り――、ヴァロフェスは見た。

 湖の中から幾つもの小さな手が突き出されるのを。

腐り果て、肉を魚に啄ばまれ、骨を露わにした子ども達の手だった。

「さあ、王子よ。宴に遅れ召されますな。怪異と惨劇という、宴に。主賓は、今、この地にある全ての人間達です。人間達が肉を切り刻まれ、血を啜られ、骨を砕かれるはこの世界の必然」

「やめろ、マクバ」

 込み上げる吐き気に抗いながら、ヴァロフェスは唸った。

「彼らに手を出すな。これは私と貴様だけの……」

「おや。その前に余興が一つ、催されるようですね」

 湖面から伸びた、子どもの手が小舟の縁をつかんだ。

「さあ、可愛い子ども達。可愛そうな子ども達。

ここにいる鴉さんと遊んでやっておくれ。

 遊び終わったら、優しい魔法使いがお前達をお家に返してやろう。

 だけど、その次は――、何がしたい?」

 優しく歌いかけるようなマクバの呪文。

 それに応えるかのように、そいつらはゆっくりと小舟の上に這い上がってくる。

「お家に帰れる、の?」

 瞼のない、風船玉のような目玉が立ちつくすヴァロフェスの姿を捉える。

 ドロリとした緑色の鱗が、まだ幼い死者達の顔にビッシリと張り付いていた。

「ぼく達わたし達お家に帰りたい帰りたい帰って食べたいバリバリ食べたいお父さんとお母さんワンコにニャンコおとうともいもうともおねえさんおにいさん、大好きなもの全部バリバリバリバリ頭から食べてみたい食べたい食べたい食べたい……」

 腐臭の漂う口を大きく開き、子ども達はケラケラと笑った。

 無言のまま、ヴァロフェスは己の得物を、銀のステッキを握り締め直す。

 その瞳は、ギラギラと血の色に輝き始めていた。

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