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 外套の裾をはためかせながら、ヴァロフェスは跳んだ。

 軽々とした身のこなしで樹の枝に飛び移り、太い幹にベッタリはりついた黒蜘蛛の剛毛に覆われた腹を目がけ、稲妻のような突きを繰り出す。

 だが、黒蜘蛛はタックの身体を盾にその一撃を防ごうとする。

 幼い少年の薄い胸板を貫く寸前のところで銀のステッキは止まった。

 舌打ちするヴァロフェスに向かって、槍のような脚を振り上げて襲い掛かる黒蜘蛛。

 ヴァロフェスは器用に足場を伝いながら、その攻撃をステッキの柄で受け流す。

「教えろ、《叫ぶ者》よ」

 得物を風車のように振り回しながら、ヴァロフェスは怪物に呼び掛ける。

「貴様は、やつとどんな取り引きを交わした?」

 しかし、帰って来たのは血も凍えるような咆哮だけだった。

 よかろう、とヴァロフェスは口の端に笑みを浮かべる。

 我々の間に言葉など、何の意味があるだろう?

 呪われた者同士、どちらかが滅ぶまで殺し合うのみ。

 銀のステッキと先端を鋭く尖らせた八本の脚が激しく打ち合い、火花を散らす。

 二、三合ほど打ち合い――、ヴァロフェスは、黒蜘蛛がこれまで葬って来たどんな相手よりもはるかに強力な敵であると悟る。

 一見、重鈍そうな巨体であるにもかかわらず、突風のようなヴァロフェスの連撃を完全に防いでいる。

 ならば――、手数を減らし、一撃で貫いてみせよう。

 距離を取り、ステッキを垂直に構え直すヴァロフェス。握りしめたその手から、強烈な殺気が目には見えない「力」となってその先端に流れ込んでゆく。

 短い気合いの声をあげながら、黒蜘蛛に向かって突進。すぐさま、二本の脚が迎撃してくるが、三日月を切っ先で描いたステッキがそれを弾き飛ばす。

 ――殺った。

そう、確信しながら、全身全霊を込めた突きを繰り出すヴァロフェス。

 しかし、

「何ッ……!?」

 黒蜘蛛の腹に生じた分厚い唇がめくれ――、大人の頭ほどもある、白い粘液が吐き出される。

 鼻を刺すような臭気にヴァロフェスはそれが強力な毒の塊だと判断。

得物を引き、後ろ飛びに跳んでそれを避けようとするが、僅かに間に合わず――、ブーツの爪先を焼かれてしまう。

 肉が焼き爛れる嫌な臭い。

 そして、染み込むような激痛に見舞われ、一瞬、ヴァロフェスは動きを止めてしまう。

 それを黒蜘蛛は見逃さなかった。

 勢いよく脚が振り下ろされ――、その先端がヴァロフェスの肩口に深々と突き刺さる。

 苦痛に呻く間もなく、今度は顎を強かに殴りつけられる。そのまま地面に叩きつけられ、背中を強打してしまう。

 ゴボッと口から吐き出される血の塊。

 と、

「ヴァロフェス!!」

 誰かが彼の元に駆け寄り、腕をつかむ。

「お願い!! しっかりして!!」

「……イ、ル、マ?」

 薄れゆく意識の中、ヴァロフェスは目を瞬かせていた。

 どうして、お前がここにいる?

「あ、ああ……、なんてひどい傷!! 早く手当てしなきゃ!!」

 鮮血にぼやけた視界の中、次第に鮮明になってゆくのは今にも泣き出しそうな少女の顔。

 ああ、そうだった。

 もう、イルマはいない。

 私が殺した。

「えっ? 何? 何て言ったの?」

「下がれ。危険だ」

 顔を覗き込んでくる赤毛の少女――、リリスを押しのけヴァロフェスは呻く。

 と、頭上から叫び声が投げ落とされてくる。

 見上げると、黒蜘蛛が勝ち誇るように脚を振り上げていた。そして、今にも飛び降りてくるかのような姿勢を取る。

 踏み潰す気か。

 しかし、血にまみれた身体は、すぐには言うことを聞いてくれそうにもなかった。

「娘よ」

 口元の血を拭い、ヴァロフェスは傍らにしゃがむリリスに言った。

「早く離れろ。……お前も巻き込まれるぞ」

 リリスもまた、すぐに危険を察知したようだった。

 樹上を見上げ、顔を蒼白にする。しかし、離れようとはしなかった。

「逃げろ、と言っているのが分からないのか!?」

「いや!!」

 思わず声を荒らげるヴァロフェスに首を振るリリス。

「あんたも逃げなきゃ!!」

 可愛らしい顔を真っ赤にして、ヴァロフェスの腕をつかみ、引き立たせようとする。

 しかし、非力な彼女の腕力では、それは不可能だった。

「聞き分けのない小娘めッ……!!」

 歯軋りしながら、ヴァロフェスは脇に転がるステッキを手にしていた。

 笑みを浮かべた太陽を象る柄頭を素早く回し、留め金を外す。

 ジャラッ。

 冷たく硬い音を響かせて、ステッキの内側に収納されていた鎖が長く、地面に投げ出される。一瞬にしてヴァロフェスのステッキは、棍棒から、連棹へと得物としての性質を変化させていた。

と――、リリスを背にかばい、立ち上がったヴァロフェスの頭上で巨大な影が跳ぶ。

 気合いの声を発しながら、ステッキを振うヴァロフェス。

 ジャラジャラと音を立て、地面をのたうつ鎖。鉄の大蛇のごとく、上空から襲い掛かる黒蜘蛛に向かって鎌首をもたげる。

「ギャオウッ……!!」

 おぞましい悲鳴が村中に響き渡る。

 ヴァロフェスの操る鎖は、剛毛からつきだされた白い腕に見事に巻きついていた。

ジュウ、という肉を焼く音とともに巻き付いた鎖の下から噴き出る白煙。大きな地鳴りをあげ、剛毛に覆われた黒蜘蛛の巨体が墜落する。

 そして、投げ出される小さな男の子。

「タックッ!!」

 その子の名を呼び、泣き出しそうな顔でリリスが駆け寄る。

「……これで五分五分だな」

 手元に鎖を引きもどしながら、ヴァロフェスは敵――、黒蜘蛛に言った。

「否、血を流した分、私が不利、か」

 口元を歪ませ、微笑みを浮かべるヴァロフェス。

 と、分厚い唇がめくり上げられ、再び吐き出される白い粘液。

「何度も同じ手が通じるかッ……!!」

 ヴァロフェスの操る鎖が跳ね、直進してきた毒液を弾け散らす。

 が、それは目くらましだった。

 渾身の力を振り絞って地を蹴り――、跳躍する黒蜘蛛。

 悲鳴をあげ逃げ惑う人々には目もくれず、そのまま井戸の中へと巨体を滑り込ませる。

 僅かに遅れて――、バシャンと言う、水の弾ける音が聞こえた。

「逃げ、られたか……」

 ヨロヨロと井戸に歩み寄りながら、ヴァロフェスは呻く。

 こんな失態は久しぶりだった。

 しかし、後悔する間はなかった。

近くの民家から朝の到来を告げる、鬨の声が聞こえてきた。

それが合図だったかのように、散り散りなっていた村人達が強張った表情で近づいてくる。

「一つ、聞きたい」

 村人達を振り返り、ヴァロフェスは尋ねた。

「この井戸は、どこから水を引いているのか?」

「そ、それは……、森の湖だよ」

 おっかなびっくりと言った様子で村人の一人が答える。

「ルー家の方々がこの村を作ってくださった時からそうだよ」

「なるほど、な……」

 頷き、地面に転がった得物を拾い上げるヴァロフェス。

「では、そこまで案内を。ヤツに止めを刺す」

「お、おい!! お前、ちょっと待てよ!!」

 声を荒らげたのは、旅芸人一座の若者だった。

 若者は片手にオルタン――リリスに押しつけられたらしい――をぶら下げ、困惑と恐怖に顔を引きつらせていた。

「お前、本当に何者なんだよ? いや、それより――、あの怪物は何だ?」

「あの怪物は何だ、だとよ」

 若者の声色をまね、オルタンが皮肉たっぷりに笑う。

「どいつもこいつも山ほど質問があるみたいだぜ。どーするよ、ヴァロフェス?」

 ちらり、とヴァロフェスはリリスのほうを一瞥する。

 赤毛の少女は、ようやく息を吹き返した男の子の頭を胸に抱え、すすり泣いていた。

「あれは――、《叫ぶ者》。そう呼ばれている」

若者に向き直り、ヴァロフェスは言った。

「別段、珍しいものではない。世界中、至る所にいる。……今回のように大勢の目の前に姿を現すことは滅多にないがな」

 と――、グラリと頭が揺れるのを感じた。

 カクン、と膝から力が抜け落ちる感覚に見舞われる。

「お、おい!! しっかりしろよ、アンタッ!!」

 慌てた声をあげ、手を差し出して来る若者。

 それに身体を支えられながら、ヴァロフェスは口元に自嘲の笑みを浮かべる。

 オルタンの言う通り、私もヤキが回ったな……。

 そんなことを考えながら、ヴァロフェスは意識を失っていた。

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