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第3話 小さな公爵家のリリス3 ―命の代償―



第1章 封じられた小さな翼


公爵領では、原因不明の流行病が広がり始めていた。次々と倒れる領民たちの姿を前に、公爵は深い無力感に苛まれていた。窓の外を眺めながら、彼はただ立ち尽くし、胸に手を当てては、重たい溜め息を吐くばかりだった。


その胸に蘇るのは、リリスが屋敷にやって来たばかりの頃の記憶――。

夫人が謎の病に倒れたとき、リリスはその小さな手で、まるで奇跡のように夫人を癒してみせた。しかし同時に、リリスは自らも苦しみ、咳き込み、血を吐くほどの代償を払った。


「もし、また……」

公爵は不安に駆られた。リリスが再びあの力を使えば、今度はどうなってしまうのか――。


「リリスを……失ってしまうかもしれない」


その考えは、公爵の心を締めつけた。

まだ幼いリリス。無邪気で、純粋で、人を救いたいと願うその心を、公爵は誰よりも知っている。だが、その願いは、リリス自身を蝕むのだ。


「二度と、あんな思いをさせてはならない」


固く心に誓った公爵は、リリスに外出を禁じる決断を下した。彼女を守るために――。

だが、その決断が、思わぬ悲劇を呼ぶことになるとは、まだ知る由もなかった。


***


その日、公爵はリリスを呼び出した。

リリスは素直に姿を見せ、期待に満ちた瞳で公爵を見上げた。


「リリス」

公爵は優しく、しかし毅然と語りかける。


「しばらくの間、私が『いい』と言うまで、外には出てはいけない。いいね?」


リリスはきょとんとした顔をし、それから「えぇぇーーーっ!」と言わんばかりの驚愕の表情を浮かべた。もちろん、彼女は声を出せない。しかし、その顔いっぱいに現れた不満とショックに、公爵は思わず小さく笑ってしまう。


「ごめんね、リリス。でも、これは君を守るためなんだ」


公爵が重ねて言うと、リリスはしばらく眉を寄せて悩んだ末、しぶしぶ頷いた。

その小さな首の動きに、公爵は安堵しながらも、胸の奥に痛みを覚えた。


リリスは何も言わず、公爵の手をぎゅっと握り返した。


***


外出を禁じられたリリスは、すぐに屋敷の中で退屈を持て余すようになった。


大きな屋敷の廊下を、ぽつぽつと歩き回る。

掃除中のメイドを見つけると、手伝おうとモップを持ち上げる。しかし、すぐにメイドたちに制止される。


「お嬢様、それは私たちの役目です。どうかご心配なさらず――」


別のメイドも、恐縮しきった様子で言った。


「お嬢様には、お嬢様のお役目がございますので……」


リリスは、手伝いたかっただけなのに、と不満そうな顔を浮かべた。

けれど、追い払おうとしたわけではないと悟ると、素直にモップを置き、またとぼとぼと歩き出した。


***


やがて、奥の庭園を掃除していたメイドたちの話し声が耳に入った。


「……あの流行り病、どんどん広がってるって……」


「今日もまた倒れた人がいるって聞いたわ」


リリスは、そっと立ち止まり、二人の会話に耳を傾けた。

そして、小さな腕を組み、「むむむむ……」という表情で顔をしかめる。


(なにか、私にできることはないだろうか……)


リリスはそう思った。

でも、公爵の言葉が脳裏をよぎる。――『いいと言うまで外に出るな』。


リリスは、ため息をつき、肩を落とした。

けれど、顔を上げると、また静かに歩き出した。


自分を信じてくれている人たちを、今は裏切りたくない。

それでも、心のどこかで、何か小さな力になれる方法を探し続けていた。


屋敷の中を、ちいさな靴音を響かせながら、リリスは今日も静かに彷徨っていた――。



---


第2章 夜の約束、静かな背信


昼食を終えたリリスは、何かを決意したように、玄関の前にじっと立ち続けていた。小さな手には一枚の紙。その目は、幼いながらも真剣な光をたたえていた。彼女はただ、公爵の帰りを待っていた。


「お嬢様、公爵様がお戻りになりましたら、すぐにお知らせいたします。どうか、お部屋でお休みを」


心配そうに声をかけるメイドたちの言葉にも、リリスは一歩も動かない。その小さな背中に、固い意志が宿っていることを彼女たちは感じ取った。やがて、メイドたちは静かにその場を離れ、リリスの決意を尊重するように見守ることにした。


夕暮れ時。馬車の車輪の音が屋敷に近づき、公爵がようやく帰宅した。玄関の扉を開けた瞬間、そこに立ち尽くすリリスの姿に、公爵は軽く驚いた。


「リリス……こんなところで、どうしたんだい?」


リリスは無言のまま、一枚の紙を差し出した。そこには、拙い筆跡でこう書かれていた――「へるぷ ゆー」。


その短い言葉を読んだ瞬間、公爵の胸に熱いものがこみ上げた。リリスの、言葉ではなく行動と文字で紡がれた想い。その純粋な心が、痛いほど伝わってきた。


「……ありがとう、リリス。でもね、君に無理はさせたくないんだ」


公爵はそう言いながら、リリスを優しく抱きしめた。リリスは黙って見上げ、小さく頷いたものの、その目の奥に複雑な揺れがあった。


***


夜――。


リリスは自室のベッドで何度も寝返りを打っていた。眠ろうとしても、心が静まらない。病に苦しむ人々の姿が、まぶたの裏に浮かび、彼女の胸を締めつけていた。



重すぎる問いが、何度もリリスの心にぶつかってくる。

彼女は起き上がり、窓辺に立った。夜風がそっとカーテンを揺らし、月光が彼女の横顔を照らした。




それでも、苦しむ人々のことを思うと、いてもたってもいられなかった。


リリスは小さくうなずき、決意を固めた。






静かに、けれど迷いなく、彼女は窓を開ける。星空を見上げたその顔は、もう迷っていなかった。



そっと身を乗り出し、リリスは2階の窓からふわりと地面へと舞い降りた。その動きは、まるで羽根のように軽やかだった。足を地に着けると、そのままトテトテと走り出す。迷いも恐れもない。


目指すは、病に苦しむ人々のもと。

幼い少女の背中に宿るもの――それは、声にならぬ「祈り」と「覚悟」。


公爵との約束を破ることの重さも、リリスは理解していた。

けれどそれでも、彼女が選んだのは「誰かを救いたい」というたった一つの願いだった。


その夜、月明かりの下を走るリリスの影は、誰よりも凛として美しかった。


その家では、幼い少年が高熱に苦しんでいた。公爵様の計らいで領民たちに配られた薬も、残念ながら効果を見せなかった。家族は不安と焦燥に駆られ、息子の容体を見守るしかなかった。


夜も更け、深い静寂が辺りを包む中、突然トントンとドアがノックされた。家族は驚き、こんな夜遅くに誰だろうと訝しみながらドアを開けてみるが、そこには誰もいない。訝しんで辺りを見回していると、足元に何か小さな影が動いた。


「えっ?」


家族が驚きの声を上げる間もなく、その小さな影――リリスが、すり抜けるように家の中へズカズカと入ってきた。リリスはまっすぐに少年のベッドへと向かい、ためらうことなくその小さな手で少年の手を握った。


すると、少年は温かい光に包まれ、その顔色がみるみる良くなっていった。先ほどまでの苦しそうな表情が消え去り、やがて少年は目を開き、元気を取り戻して笑顔を見せた。家族は驚きと喜びで顔を見合わせ、息子が回復したことを信じられないような表情で見つめ合った。


「奇跡だ…!一体、どうして…?」


家族が喜び合っているその間に、リリスはすでに家を出て、次の家へ向かって走り出していた。家族がそのことに気がついた時には、リリスの姿はもう見えなかった。まるで風のように、少女は過ぎ去っていったのだ。


それは、一晩だけの出来事ではなかった。


リリスは、病に苦しむ領民たちのもとを何日にも渡って訪れ続けた。毎夜、誰にも知られぬように窓から屋敷を抜け出し、癒しの力を使って人々の命を救っていった。彼女の行いはひっそりと、だが確実に領地に広がる病の流行を鎮めていった。


しかし、人々が知ることはなかった。リリスが家と家の間を移動するたびに、彼女は体に限界が来ていることを痛感していた。彼女の体はすでにボロボロで、吐血を繰り返していた。リリスは口元に溢れる血を何度も手で拭い、そのたびに立ち止まることなく、再び走り出した。


疲労が積み重なり、体は限界に近づいていた。それでもリリスは、救いを待つ人々のために走り続けた。ようやくいくつかの家を回り終え、夜明けの前に屋敷へ戻ると、彼女はふらふらと自分の部屋に戻った。


力を振り絞って着ていた服を脱ぎ、新しい服に着替えた。しかし、血で汚れた服をどうするべきか悩んだ末、彼女はそれをベッドの下に足で押し込んで隠してしまった。それは一枚ではなかった。日を重ねるごとに、血に染まったワンピースが何着もベッドの下に積み重なっていった。


そしてその夜も、限界を超えた体でベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちていった。リリスの寝顔は静かで安らかだったが、彼女の小さな体がどれだけの負担を抱えていたかを知る者はいなかった。


領地内を見回っていた公爵は、次第に病が収束していくことを感じていた。かつては苦しむ人々の声が響いていた街も、今では少しずつ活気を取り戻し、安堵の表情を浮かべる人々の姿が目につくようになっていた。医師たちもほっと胸を撫で下ろし、街には少しずつ平穏が戻りつつあった。


しかし、公爵の胸には奇妙な不安が広がり始めていた。街を歩く中で、彼の耳に入ってくるのは、ただ病が治まりつつあるという話だけではなかった。


「夜中に小さな少女が家を訪れ、病人を癒していったんです…」 「誰も姿を見たわけじゃないんですが、翌朝には皆元気を取り戻していて…」


そんな噂話が、人々の間で広がっていた。誰もその少女の正体を知らないが、その存在はまるで奇跡のように語られていた。病人が回復したという事実と共に、少女が現れたという話は、どの家でも同じように聞かれる。


公爵はその噂を耳にするたびに、胸の中に言いようのない不安が湧き上がるのを感じた。


「まさか…」


彼の脳裏に浮かんだのは、リリスの姿だった。助けたいと申し出た彼女を止めた時のことが思い出される。公爵は、自分が断ったことでリリスが落ち込んでいると思い込んでいた。しかし、もし彼女が黙って行動していたとしたら――。


その考えが頭を離れず、公爵の不安は次第に強まっていった。彼女の体調が心配でたまらなくなり、その不安は胸の奥深くに根を張っていく。街を歩き回るたびに、噂話が彼の耳に飛び込み、まるでそれが真実であるかのように彼を苛んだ。


「リリスが…まさか、そんなことを…」


公爵の胸に広がる不安は、流行病の収束に喜びを感じる一方で、言い知れぬ恐れと重なり、彼を苦しめ続けた。


公爵は、街中で広がる噂を耳にするたびに、その胸の不安が大きくなっていくのを感じていた。彼の心には、ただ一つの考えがよぎっていた――リリスが、あの噂の少女ではないかということ。しかし、それが思い違いであってほしいと、彼は心から願った。


「まさか…リリスがそんな無茶を…」


そう自分に言い聞かせながらも、公爵は焦燥感を抑えられなかった。彼は屋敷へと戻るため、馬車を急がせた。リリスのことが頭から離れず、彼女の無事を確認したいという思いが強まっていく。


馬車が揺れる中、公爵の心はますます重くなっていった。彼は、リリスが自分に言わずに行動しているのではないかという考えを何度も否定しようとしたが、考えれば考えるほど、そこにたどり着く答えは一つしかなかった。


「リリス…どうか無事でいてくれ…」


その願いを胸に、公爵は馬車をさらに急がせた。彼の心はただ一つ、リリスの無事を祈ることに集中していた。屋敷が近づくにつれ、彼の不安は頂点に達し、彼女がどんな状態であれ無事であることを切に願うばかりだった。


翌朝、リリスを起こしに行ったメイドは、彼女の部屋にリリスがいないことに驚いた。慌てて部屋中を探し回ると、ベッドの下から何枚もの血に染まったワンピースが出てきた。


「これは…?お嬢様に何か良くないことが…?」


メイドはその場で震えながら他のメイドたちに声をかけ、全員でリリスを探し始めた。屋敷中が不安と緊張に包まれる中、慌てた様子で公爵が帰宅した。




公父が屋敷に戻ると、すでにメイドたちは屋敷中を探索していた。彼らはリリスがどこかに倒れているのではないかと恐れ、庭や隠れた場所まで探し回っていた。


「リリスがいない…! 庭も見ましたが、見当たりません!」


公父は不安に駄られた。リリスがいなくなったことは、ただならぬ事態を示唆していた。彼は動揺を抑え、屋敷を出て庭の方へと足を向けた。その心臓は早鐘のように打ち、その焦りが全身を包み込んでいた。


庭に出た公父は、見慣れた庭の風景の中に異変を見つけた。芝生の上に小さな影が横たわっている。すぐにそれがリリスであることに気づいた彼は、声を上げながら駆け寄った。


「リリス!」


彼女は白いワンピースを真っ赤に染め、静かに倒れていた。公父はリリスを抱き上げ、その小さな体がひどく涼しくなっていることに惊き、口先には乾いた血がこびりついていた。


「リリス、しっかりするんだ!リリス!」


彼は女の名前を呼び続けたが、リリスからは返事がない。公父はメイドたちに急いで医者を呼ぶよう命じ、リリスを抱きしめたまま屋敷の中に戻った。


リリスを急いでベッドに横たえた公父は、彼女が呼吸をしていることを確認したが、その呼吸は弱々しかった。彼は夫人と共にリリスのそばに付き止め、医者が到着するのを待った。


医者はリリスの状態を診断したが、顔に潰ゆる表情が潤み、公父と夫人の不安を高めた。


「どうなんだ? リリスは大丈夫なのか?」


医者の返事は、分かりつらいものだった。


「お娘様の状態は非常に危険です。多くの血を失っていますし、その上、体が極度に疲弊しています。何があったのかは分かりませんが、今はとにかく安静にしていただくしかありません。」


それから数日後、リリスはようやく体調を回復し始めた。しかし、彼女の心にはまだ解決しきれない思いが残っていた。リリスは、体力が戻り正すや、メイドたちのもとを一人ずつ訪ね、「血で汚れたワンピースを隠していたこと」を言葉なき言葉で詫罪し始めた。


「リリス様、そんなことを気にしないでくださいませ。私たちはただ、お娘様が無事でいてくれることが何より大切なんです。」


メイドたちは、リリスの言葉に涙を気だしながらも、彼女をそっと抱きしめた。その幼い体にどれほどの責任を背おわせてしまったのかを痛感し、彼女の健気さに心を打たれていた。


そんなリリスの姿を見て、公父もまた驚きとともに胸を痛めた。リリスは公父の前に立ち、深々と頭を下げた。彼女が約束を破ってしまったことを気にしているのが、痛いほどに伝わってきた。公父は、彼女がどれだけ自分を責めているかを理解しながら、同時に、リリスが無理をしていたことに気づけなかった自分を深く責めた。


「リリス、君は何も悪くないんだ。約束を破ったことなんて気にしなくていい。今は何よりも、ゆっくり休むことが大事なんだよ。」


公父は優しい言葉でリリスを慰めながら、彼女の手をしっかりと握りしめた。リリスはその言葉に少し安心したように、小さく順づき、再びベッドへと戻った。疲れた体を横たえ、彼女は公父の言葉に支えられながら深い眠りに落ちていった。公爵は、その寝顔を見つめ続け、リリスが健康を取り戻すその日まで、ずっと彼女のそばで見守り続けることを心に誓った。







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