第1章:リリスとマリー、ふたりの朝
朝の光がカーテン越しに差し込む頃、マリーはそっと扉を開けてリリスの部屋を覗き込んだ。目を閉じて眠るお嬢様を見られるのは、実のところ珍しい。大抵、リリスはもう起きており、静かに椅子に腰掛けて外を眺めているのだ。
「……また先に起きてる」
小さく呟きながら部屋へ入ると、リリスがゆっくりとこちらを振り返り、にこりと微笑む。その笑顔に、マリーの胸はいつもきゅっと締めつけられるようだった。
それも無理はない。つい先日、リリスが大量に吐血し、寝台からしばらく動けなかったのを見て以来、マリーの中では「静かに起きている」ことがむしろ危険の兆候のように思えてきていたのだ。
「無理はしていませんか? 本当に大丈夫ですか?」
言葉に出して問いたい衝動を抑えながら、マリーはリリスの髪をそっと整える。返事がないのはいつものこと。それでも、リリスの眼差しには「大丈夫」と言わんばかりの意思が宿っていた。
身支度を整えるリリスの様子もまた、マリーにとって驚きの連続だった。
「え? もう畳んであるの……?」
リリスは自分の脱いだ寝巻きをきちんとたたみ、洗濯に出す準備までしていた。マリーは思わず、自分が昨晩脱ぎっぱなしにした寝着の存在を思い出し、内心で小さく反省する。
「男爵家の時は、着替えは脱ぎっぱなしで召使い任せにしてたっけ……」
もちろん公爵家の暮らしは格式も、使用人の数も桁違いだ。それでも、リリスのこうした小さな気遣いのひとつひとつが、マリーの中の常識を静かに塗り替えていく。
朝の食堂に向かう廊下の途中、マリーはふと立ち止まってリリスを見つめた。小さな背中に、どこか年齢を超えた落ち着きがある。
「……本当に、年下なんですよね?」
マリーは自分がいかに「公爵家の子女」を型にはめて考えていたかを思い知る。リリスの静けさ、整然としたふるまい、そして優しさ。それは、生まれや家柄とは関係のない、リリスという存在の持つ力だった。
「わたしも、もっとしっかりしなきゃ」
そう心の中で呟いて、マリーは再び歩き出した。リリスの横に並ぶその歩幅は、昨日よりほんの少しだけ、力強くなっていた。
第2章:壊れた花瓶とリリスの秘密
ヴァレンタイン公爵家には、他のどの貴族の屋敷とも違う、ちょっと不思議な“習わし”がある。
たとえば――
「ひゃっ……またやってしまいました……!」
パリン、と気持ちの良い音が廊下に響く。メイドのマリーは、慌てて床にひざをつき、割れてしまった花瓶の破片を前に呆然としていた。
だが彼女は、その場から動かない。掃除の道具を取りに走るのでもなく、謝罪のために公爵の執務室へ向かうのでもない。
まず向かうのは、リリスお嬢様のもと――
---
「お嬢様……また、やっちゃいました……」
マリーは申し訳なさそうにうつむきながら、リリスの部屋をそっとノックする。静かに出迎えたのは、今日も変わらず落ち着いた瞳の少女だった。
リリスはメモも取らず、言葉も発さず、ただマリーの手をそっと取り、自分の視線で問いかける。
「怪我はないの?」
声なきそのまなざしに、マリーはこくりと首を振る。「大丈夫です……ごめんなさい、本当に」
するとリリスは、何も咎めることなく、ただふわりと微笑む。いつも通りの優しい笑顔。それを見たマリーの胸の痛みが、すっと和らいでいく。
---
不思議なことに――
その後、公爵様へ報告に向かうと、壊れていたはずの花瓶や壺は、元通りになっているのだ。
「まるで……時間が戻ったみたい」
そんな声が、いつの間にか屋敷の中で囁かれるようになっていた。しかも、それが起きるのは必ず「リリスお嬢様に最初に報告した時」に限る。
順番を間違えて、先に公爵様に報告してしまったメイドがいた時には、壊れた皿は割れたままだった。だから、今では皆が最初にリリスへ謝罪するのが、屋敷の“常識”となっていた。
---
「リリス様には……何か、不思議な力があるのでは?」
「でも、お嬢様はそのことに気づいてないのかも」
「それとも……公爵様が気づいてないふりをしているのかもしれないわね」
使用人たちのそんな囁きが、時折廊下にふわりと流れる。
だが、肝心の公爵様はといえば――
「……次からは気をつけるように」
それだけを穏やかに告げ、壊れていたはずの器を片手に、微笑むのだった。
その微笑の奥に何があるのかは、誰にもわからない。
けれど皆、心のどこかで感じていた。
――この屋敷には、たしかに「奇跡」がある。そしてその中心にいるのは、小さな天使のような少女――リリスなのだと。
第3章:お昼寝と小さな来訪者たち
ヴァレンタイン公爵家の中庭には、春の陽気がそっと降り注いでいた。
マリーがシーツを干し終え、裏手の廊下を抜けたとき、ふと視界に入ったのは――白い日傘の下、ベンチにすやすやと眠るリリスの姿だった。
けれど、その光景にはいつも、不思議な“続き”があった。
リリスの頭には、ちょこんと小鳥が止まり、スカートの上にはリスがくるんと丸くなって眠っている。彼女の足元では子猫が丸まってお昼寝中で、そばの植え込みにはうさぎがぴょこぴょこと顔を覗かせている。
――まるで童話の一場面。
それが、リリスの「日常」だった。
---
マリーは、最初にこの光景を見たとき、目を疑った。野生の動物たちが、人間の近くにここまで無防備に寄ってくるなんて、普通ならありえない。しかも彼らは、リリスに触れることすら恐れず、その小さな体に身を寄せていた。
「まるで……森の中にいるみたい」
マリーはそう呟きながら、しばらく足を止めて眺めていた。
リリスの寝息は穏やかで、まるで風に揺れる花のようだった。その柔らかな寝顔を見ていると、マリーはつい、自分が仕えるのが“お嬢様”だということを忘れそうになる。
---
リリスには、何か“見えないやさしさ”があるのだと、マリーは感じていた。
たとえば、彼女がまだ言葉を発せずとも、誰かの痛みには誰よりも早く気づく。困っている人がいれば、じっと目を見て、そっと手を差し伸べる。言葉ではなく、心で通じ合う――それが、リリスという存在だった。
小動物たちもきっと、それを感じ取っているのだろう。だからこそ、彼らは毎日欠かさず、リリスのもとへ集まってくる。
それは、誰に言われたわけでもなく、誰に教わったわけでもない、本能的な「信頼」の形だった。
---
「……不思議な子ね」
マリーは静かにそう呟くと、笑みを浮かべながら、そっとリリスの肩に薄い毛布をかけてあげた。
小鳥がぴょん、と日傘の縁に跳ねる。子猫がくすぐったそうに伸びをし、リスがリリスの腕に顔をうずめた。
マリーは、その優しい風景を心にしまい込みながら、静かにその場を後にした。
そう――公爵令嬢であるはずのリリスは、いつの間にか屋敷の皆にとって、“小さな天使”そのものになっていた。
第4章:小さなお手伝い
ヴァレンタイン公爵家の屋敷では、今日もメイドたちが忙しなく動き回っていた。銀食器を磨く者、絨毯の埃を払う者、そして中庭の花々に水をやる者。それぞれが自分の持ち場をきびきびとこなし、まさに完璧な調和の上に成り立つ屋敷の日常だった。
だが、その調和の中に、一つだけ“異変”があった。
――リリスである。
お嬢様として、当然何もしなくてよいはずの彼女が、なぜか毎日のようにメイドたちの動きをじっと観察している。目をきらきらと輝かせ、時には袖をつかむような仕草で「わたしも」と訴えかけるように見つめてくるのだ。
---
「お嬢様……いけませんよ。お怪我をされたらどうするんです」
一人の年配メイドがそう言って、やんわりとリリスの前に膝をつく。
だがリリスは、こくんと小さくうなずきながらも、そのまま近くのモップに手を伸ばす。小さな手で柄を握り、ぎこちなく床をなぞる姿はまるで子猫が真似事をしているかのようで、思わず微笑んでしまうほどだった。
「……ああ、もう。やめてくださいませ、そんなに可愛い顔でお願いされたら……」
とうとうメイドの一人が観念し、乾いた布を渡す。「では、お人形のお世話が終わったら、このテーブルだけ、一緒に拭きましょうね?」
リリスは満面の笑みを浮かべ、深く頷く。
---
もちろん、実際には重いものを運ばせたり、刃物を使わせることなど絶対にない。けれど、彼女の「手伝いたい」という気持ちに、メイドたちは誰よりも心を打たれていた。
――誰かの役に立ちたい。
――ただ一緒にいたい。
その小さな背中が静かに語る願いに、大人たちは時に涙ぐみそうになる。
---
「私たちがこの子に仕えていると思っていたけれど……」
ある日、メイドの一人がぽつりと漏らす。
「いつの間にか、この子が私たちの心を救ってくれてるのよね……」
誰もがその言葉に頷いた。リリスの存在は、ただの“公爵令嬢”ではない。そこにいるだけで、空気が優しくなり、気持ちが穏やかになる。そんな“光”のような子なのだ。
---
そして今日もまた、テーブルの端を一生懸命に拭くリリスの姿を、メイドたちはそっと見守る。
それは、屋敷という名の舞台の中で、誰よりも小さな主役が、誰よりも大きな愛を注ぐ物語だった。
第5章:マリーの手紙と再出発
ヴァレンタイン公爵家で働き始めてからしばらく経ち、マリーはようやくこの格式ある屋敷での生活に慣れてきていた。まだまだ新米の域を出ない彼女ではあったが、日々の仕事の中で少しずつ自信を深めていくきっかけとなっていたのは、他でもないリリスお嬢様の存在だった。
小さな体でありながら、リリスは礼儀正しく、気遣いにあふれた優しい子で、何より誰よりも周囲をよく見ていた。マリーが忙しそうにしていれば、袖を引いて手伝おうとしたり、ちょっと落ち込んでいれば、そっと膝の上にぬいぐるみを置いてくれたり――言葉はなくとも、心が伝わってくるような不思議な温かさを持つ子だった。
そんなある日、マリーに一通の手紙が届いた。
それは、かつて彼女が仕えていた男爵家の執事からのものだった。手紙を手にした瞬間、マリーの心は不思議な緊張に包まれた。男爵家を離れてからもう随分と経っている。思いもよらぬ便りに、指が少し震える。
封を切ると、そこには丁寧な筆跡で、こう綴られていた。
> 「マリー様、お元気でお過ごしでしょうか?
男爵家の奥様が、あなたのことをとても気にかけていらっしゃいます。
公爵家でのご様子を知りたいと、毎日のようにお話しされておりまして……」
読み進めるうちに、マリーの胸に熱いものがこみ上げた。手紙には、あの老婦人――男爵家の主であり、かつて自分を受け入れてくれた唯一の人の様子も書かれていた。体調を崩しがちで、最近は寝込むことも増えたという。
マリーの目から、ぽたりと涙が落ちた。
---
マリーは正直すぎる性格で、過去にはそれが原因で何度も仕事を辞めてきた。指示に疑問を抱けば態度に出てしまい、理不尽には耐えられない。そのたびに「扱いづらい」と言われてきた。
そんな自分を初めて「面白い子ね」と笑って受け入れてくれたのが、あの老婦人だった。
> 「嘘をつけないのは、誠実である証よ。心を偽らない子は、私の屋敷にいてほしいわ」
あの一言に、マリーはどれほど救われたか分からない。
だが男爵家は経済的に厳しくなり、屋敷を手放す話まで出るようになった。マリーは、もっと大きな家で働くようにと紹介状を渡された。老婦人の手によって、公爵家へ――。
「あなたなら、きっとやっていけるわ。むしろ、あなたにしかできないことがあると思うの」
そう言って背中を押してくれた日のことが、今でもはっきりと思い出される。
---
手紙を胸に抱き、マリーはそっと息を吸った。
「私を信じて送り出してくれたあの方のために、もっと成長してみせる。ここでちゃんと、私の居場所を作ってみせるんだから」
小さな決意だったが、それはマリーの中で確かに灯った新しい光だった。
その日から、マリーの表情は少しだけ変わった。より引き締まった目つきで、けれどどこか柔らかくて、リリスお嬢様への接し方も、より深い敬意と愛情に満ちていた。
そしてマリーは知ることになる――
リリスという少女が、ただのお嬢様ではなく、たくさんの人の人生に優しく触れていく“奇跡”のような存在であるということを。
---
第6章:お見舞いの馬車
男爵家からの手紙を読んだ日以来、マリーの胸にはずっと重いものがあった。あの老婦人が体調を崩している――それだけで、彼女の心は波立ち、仕事中も時折うわの空になってしまう。自分を信じ、送り出してくれた人。その恩を返すにはここで頑張るしかないと決意したばかりなのに、気持ちは揺れていた。
そんなある午後、リリスは何も言わず、ただマリーのそばに現れた。大きな瞳はいつもより少し潤んでいて、じっとマリーの顔を見上げていた。その視線には、何かを察しているような鋭さと、包み込むような優しさが宿っていた。
「……お嬢様、どうしてそんな顔を……」
マリーは慌てて笑顔を作り、「だいじょうぶですから」と繕うように言った。だが、リリスは動かない。黙ったまま、じっとマリーを見ていた。小さな体に宿るその眼差しは、まるでマリーの心の奥に触れるようだった。
ついにマリーは、少しだけ、胸の内を明かした。
「……お嬢様。以前仕えていた老婦人が、少しお具合が悪いと聞きまして……でも私は、公爵家での務めを優先しようと……」
言葉に詰まったマリーの手を、リリスはそっと握った。言葉はなくとも、それだけで「じゃあ、行こう」と言っていることが分かった。
---
「お嬢様が…どこかへ私を連れていこうとしてるんです!」
翌朝、マリーは引きずられるようにして廊下を歩いていた。目の前を小さな背中が歩き、その手はしっかりとマリーの手を引いている。
「誰か、止めてくれませんか…?」
そう思いながら、マリーが目で助けを求めると、ちょうど先輩メイドのクラリスとすれ違った。
「お嬢様が急に、何か言いたげで…何がなんだか」
クラリスはリリスと少し視線を交わしただけで、すぐに理解したように頷いた。
「お見舞いに行きたいんですって」
「……えっ?」
「安心して。公爵様には私から話しておくわ。心配せず、行ってらっしゃいな」
「いや、でも、そんな急に……!」
「お嬢様の決意が固い時は、誰にも止められませんよ。私も昔、一度だけ無理に止めようとしたことがありましたけど……結果、私が怒られましたわ」
微笑むクラリスに呆気に取られているうちに、リリスは再びマリーの手を引いて歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいお嬢様!準備も何も……わああ、もう……!」
---
あれよあれよという間に、マリーは馬車に押し込まれていた。
目の前に座るリリスは、まるで何事もなかったかのような穏やかな顔で、膝の上に手を揃えている。
「まさか、お嬢様がこんなに強引な方だったなんて……」
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、マリーは呆然とつぶやいた。けれど、それと同時に、胸の奥にぽっと灯るものがあった。
(……この子は、誰かのためなら何でもする人なんだ)
小さな手で、誰かの心を包み込むことができる。小さな体で、誰かの運命を動かせる。それがリリスという存在。
マリーは、馬車の揺れに身を委ねながら、ふと笑みを漏らした。
「……ありがとう、お嬢様」
返事はない。けれど、リリスの横顔がほんの少し微笑んだような気がして、マリーはそっと胸に手を当てた。
--
以下にリライトした第七章をお届けします。
第七章:馬車の中の対話
秋の風が穏やかに吹く午後、リリスとマリーを乗せた馬車は、男爵領を目指して静かに進んでいた。車内には柔らかな揺れと、車輪のきしむ音だけが響いていた。マリーはふと視線を上げ、馬を操る御者の姿に目を留めた。そして、その御者が振り返り、声をかけてきたとき、彼女は息をのんだ。
「この前は……本当に、すまなかった」
それは、以前マリーを盗難の疑いで責めた、あの御者だった。彼の顔には、あの時の険しさはもうなかった。代わりにあったのは、明らかな後悔と真剣な謝意。
マリーは驚きつつも、言葉を待った。彼は続けた。
「公爵家で物がなくなるなんて、今まで一度もなかった。だから、つい…。それに、君がいくつも奉公先を転々としてきたって話を聞いて、偏見で見てしまった。だけど、今日の君の姿を見て……前の主をこれほど大切に思っている人が、あんなことするわけないって、ようやく気づいたんだ」
彼の言葉には取り繕いのない誠実さがあった。マリーは数秒間、言葉を探しながら彼の横顔を見つめ、やがてふっと微笑んだ。
「……もう気にしてません。ちゃんと謝ってくださったんですもの。それだけで、もう十分です」
その短い言葉と優しい笑みが、御者の肩の力をふっと抜いた。彼は軽く頷くと、前を向き直り、手綱を少し引いた。馬車は再び静かに進み出す。
「それにしても……お嬢様には、まいったよな」
ぽつりと、御者が言った。
「何かありましたか?」
「お嬢様がね、わざわざ俺を御者に指名したんだ。普段はそんなことしないのに、今回だけは『この人がいい』って。きっと、俺に弁解の機会を与えるためだったんだろうな」
マリーは驚いて目を見開いた。リリスがそのような配慮をしていたことに、改めて彼女の深い思いやりを感じた。
「そんな……お嬢様が、ですか?」
「そうさ。何も言わないけど、ぜんぶ見えてるんだよな、あのお嬢様には。俺が悔いてることも、どうしたら前に進めるかってことも」
マリーはそっとリリスに目を向けた。彼女は窓の外を眺めていたが、その表情には穏やかで不思議な落ち着きがあった。まるですべてを受け入れ、許しているような――静かな微笑み。
「お嬢様って……本当に、特別な方ですね」
マリーが小さくつぶやくと、リリスはゆっくりとこちらを向いて、ただにっこりと微笑んだ。それだけで、マリーの胸に温かな光がともった気がした。
しばらくして、御者がまた静かに口を開いた。
「一つだけ、アドバイスさせてくれ。……健康には気をつけな。じゃないと、あの光景が、お前のためのものになる」
マリーは眉をひそめた。
「……光景?」
「まあ、行ってみればわかるさ。でもな、それを“見せられる側”にならないようにしな。あの子が動いた意味、俺はやっと理解できたけど……正直、遅すぎた」
彼の言葉は、どこか意味深で、重みを持っていた。男爵家で、何かが起こる――いや、すでに起きている。マリーは、その警告を胸の奥にしまいながら、リリスの横顔を再び見つめた。
(私も……覚悟を決めないと)
マリーは自分の手をそっと握りしめた。馬車は、ゆるやかな坂を上り、木々の向こうに、かつて彼女が仕えていた男爵家の屋根が見えてきていた。
---
ありがとうございます。以下に第8章のリライトをまとめ直しました。文章のトーンと構成を整え、感動の流れを保ちつつ、読みやすさを意識しています。
第八章:癒しの代償
馬車は静かに男爵領の邸宅前に止まり、マリーとリリスは執事に案内されて老婦人の部屋へ向かった。部屋は静けさに包まれ、差し込む光がやわらかく、老婦人の枕元を照らしていた。
「奥様、マリーです」マリーが声をかけると、老婦人の瞼がわずかに動き、弱々しく微笑む。
「マリー…来てくれたのね」
その目はやがてリリスにも向けられ、温かな眼差しが交わされる。
リリスは持ってきた花を手渡し、老婦人の手をそっと握った。「どなたかしら?」という問いに、マリーが答える。
「公爵家のお嬢様、リリス様です」
「まあ、こんな小さな方が…わざわざお見舞いに来てくださるなんて」
老婦人はその手の温もりに癒されるように目を閉じ、ぽつりと呟く。
「お優しいお嬢様……あなたのような方にお会いできて、私は本当に幸せです」
その言葉に、マリーはふと御者の「健康管理に気をつけろ」という忠告を思い出す。
そして次の瞬間、リリスの手から優しい光があふれ、老婦人の全身を包み込んだ。痛みが消え、呼吸が楽になり、老婦人の表情が明らかに和らぐ。
「これは…夢かしら…?」
老婦人の声に驚きが滲む。彼女の身体がまるで数十年若返ったかのように感じられた。リリスは静かに微笑んだまま、手を離さずにいた。
だが、癒しの代償はすぐに訪れる。
「ごほっ……」
リリスが咳き込み、胸を押さえながら倒れ込む。その口元からは鮮やかな血がこぼれた。
「リリスお嬢様!」マリーは駆け寄り、彼女の小さな身体を抱きとめる。リリスは弱々しい笑みを浮かべながらも、意識を手放しかけていた。
御者が静かに現れ、彼女を無言で抱き上げる。
「男爵婦人、しばらくこの子を休ませてやっていただけますか」
「もちろん…!」老婦人は快く頷き、御者はリリスを寝室へと運んだ。
「一人治療したくらいなら、三時間もすれば回復する…」御者は自らにそう言い聞かせるように呟いたが、その顔には明らかな不安が浮かんでいた。
やがてリリスはベッドに寝かされ、マリーがその手を握って寄り添う。老婦人も静かに見守る。
「公爵家では、全員が自分の体調に気をつけている」と御者は静かに語る。「お嬢様が誰かの病を感じ取れば、必ず助けに飛び出す。その優しさが、彼女の最大の強さであり、同時に最も大きな弱さでもある」
マリーはその言葉に胸を突かれた。
「三年前、領内で疫病が流行したとき、リリスお嬢様は三日三晩休まずに千人を癒やした。その結果、十日間も目を覚まさなかった。私たちは……生きた心地がしなかったよ」
マリーはリリスの手を見つめ、その手の小ささに宿る命の重さと尊さを深く感じていた。
*
数時間後、リリスがゆっくりと瞼を開く。
「お嬢様…!」マリーは笑顔を浮かべる。
御者も安堵し、「しばらくこの屋敷で休まれるのがよろしいでしょう」と提案した。
リリスはうなずき、微笑む。それだけで、部屋にいた全員の心が少し軽くなるのを感じた。
数日が経ち、リリスはすっかり元気を取り戻した。老婦人は何度もお礼を述べ、別れ際には涙を浮かべながらリリスを見送った。
「どうかご自愛くださいませ……あなたのお力が、どうか穏やかな未来に使われますように」
帰りの馬車に乗ったマリーは、リリスを見つめながら心に誓う。
――この子のために、私は強くなろう。守るべきものがある限り、絶対にくじけない。
窓の外には、やさしい風と光が広がっていた。リリスの小さな背に宿る使命は、誰よりも重く、誰よりも尊い。
それでも彼女は、静かに笑う。
そして、その笑顔に救われた者たちの想いが、リリスの道を照らし続けるのだった。
---
こちらがリライト版のエピローグです。リリスの癒しの力がもたらした変化と、その周囲に広がる温かな影響を丁寧に描写しました。
エピローグ:天使の余韻
リリスが男爵夫人を癒した奇跡の後、邸内だけでなく男爵領全体が少しずつ活気を取り戻していった。
長らく体調不良で床に伏していた夫人は、まるで若返ったかのように精力的に働き始め、かつてのように領内を巡り、農地や工房、商会に顔を出しては優しく声をかけて回った。夫人が笑顔を取り戻すと、不思議なことに人々の顔にも自然と笑みが増えていった。
経済も、生活も、空気さえもどこか温かくなったのは、誰の目にも明らかだった。
けれど、その始まりを知る者はほんの一握りしかいない。小さな少女――リリスがそっと手を添え、微笑んだだけで起こった変化。彼女の癒しの力は、病を癒す以上に、人の心を溶かし、生きる力を灯すものだった。
マリーは、そんなリリスの背中を見つめながら、心の底から思った。
――この子は、やっぱり特別だ。
声もなく、主張もしない。でも、ただそこにいて、手を差し伸べるだけで、人の人生を変えてしまうほどの光を持っている。リリスの小さな存在が、男爵家、領民、そしてマリー自身の人生にも、確かに優しく、深く染み渡っていた。
「お嬢様のそばにいられることが、今の私の誇りです」
そう小さく呟きながら、マリーはそっとリリスの手を取り、その柔らかな温もりを胸に刻むのだった。
そして今日もまた、リリスの笑顔と共に、世界に小さな奇跡が静かに広がっていく。
---