プロローグ ― 招かれた静寂
ヴァレンタイン領で始まった、たった一人の少女の“ささやかな行動”は、やがて王都をも巻き込む大きな波紋となった。
それは「クッキー事件」と呼ばれるようになり、王都の名だたる菓子店が営業停止に追い込まれるという、前代未聞の事態にまで発展した。そして、国中の人々が耳にすることになる――その発端は、声を持たない幼い公爵令嬢、リリス・ヴァレンタインであったと。
彼女が掲げた紙には、ただ一言。
「のっと いーと」――“食べちゃダメ”。
その言葉に込められた意味が、領民の健康を守り、商道の歪みを正したとき、国王の耳にもその名が届いた。
「なんと。言葉も話さぬ令嬢が…その行動だけで、街の人々の心を動かしたというのか」
王都の宮殿に呼ばれたヴァレンタイン公爵、グレゴールは、娘がどのようにして異変に気づき、誰にも頼らず行動を起こしたかを、静かに語った。国王は深く頷き、そして感嘆の吐息をもらした。
「その子に…会ってみたい。礼儀作法も、言葉もいらぬ。どんな想いでそれを成したのか、ただ…その目を見てみたい」
こうして、リリスに王宮からの正式な招待が届けられた。
公爵家の者たちが色めき立つなかで、リリスはいつもと変わらぬ静かな微笑を浮かべながら、小さく頷いた。特別な衣装も、飾り言葉も必要なかった。彼女は、ただ彼女のままで王都へ向かう。
その小さな背には、家の誇りと、領民たちの穏やかな暮らしと、そして「正しさ」だけではなく、「公平さ」を選んできた少女の芯の強さが、確かに宿っていた。
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これは、静かなる小さな天使が、再び王国の扉を叩く物語。
そして、舞台は“セレナードの城”へと移る。
リリスの歩みが、さらなる奇跡を呼び起こす――その物語の幕が、今、ゆっくりと開かれようとしている。
--第1章 ― 白きドレスと王都の風
王都からの招待状は、雪解けの光のように静かに、しかし確かにヴァレンタイン家に春をもたらした。
「リリス、王都へ行くのよ」
その知らせに、言葉を持たぬリリスは、ただ目を丸くし、小さく頷いた。
公爵グレゴールと夫人セリーヌ、そして愛娘リリスは、王都行きの馬車に揺られていた。窓の外を眺めるリリスの瞳は、きらきらと輝いている。石畳を踏む馬車の音、市場の喧噪、遠くに見える王宮の尖塔――それらすべてが、彼女にとって初めて出会う世界だった。
「どう?王都の街並みは」とセリーヌが微笑みかけると、リリスはにこりと微笑み、小さく頷いた。言葉はなくとも、その表情にはすべてが詰まっていた。
やがて、馬車は一軒の洋服店の前で止まる。王宮に出るにあたり、リリスのための正装が必要だった。
「娘には、白が似合う。どんな装飾も要らん。ただ、彼女らしさを損なわぬものを」グレゴールは静かに店主へ告げる。
「ええ、白。それ以外は考えられませんわ」セリーヌも微笑む。
店内では、絹やレースの香りが漂い、次々と白のドレスが並べられる。だが、リリスは華やかな装飾には目もくれず、軽やかな布地にそっと手を伸ばした。
「お嬢様、そちらがお気に召しましたか?」店主が尋ねると、リリスは少しだけ頷いた。
試着室のカーテンが開くと、そこには新しい白のドレスを身に纏ったリリスが立っていた。過剰な飾り気のないシンプルな仕立てが、彼女の持つ透明感と静謐な気配を際立たせていた。
「なんて…まあ…」セリーヌは思わず息を呑み、グレゴールも小さく頷いた。
リリスは鏡の中の自分を見つめながら、そっと手を広げてみせる。その軽やかな布の動きに、彼女はようやく小さな微笑みを浮かべた。
その日、王都の空には柔らかな陽光が降り注ぎ、春風が通りを抜けていた。リリスの新しい旅立ちは、静かに、しかし確かに始まった。
そして、この少女がこの地で何を見るのか、誰と出会うのか――そのすべてが、まだ誰の知るところでもなかった。
---第2章 ― 王の間と白き足取り
王都の中心にそびえるセレナード城。その黄金に輝く尖塔の下、ヴァレンタイン家は国王の謁見を受けるため、厳かな大広間へと足を踏み入れた。
天井から下がる巨大なシャンデリアが光を散らし、大理石の床には深紅の絨毯が敷かれていた。壁には歴代の王たちの肖像が静かに並び、その重厚なまなざしが訪問者を見つめていた。まるで、リリスたちを試すように。
玉座の上には、ルシエル王国の王、オリヴィエ三世が静かに腰を下ろしていた。整った髭をたくわえ、厳格な眼差しの奥に穏やかな知性を湛えた王は、リリスが現れると静かに身を乗り出した。
「ようこそ、リリス・ヴァレンタイン嬢」
王の声が大広間に響いたその瞬間、空気が変わった。リリスは、小さな白いドレスの裾を握りながら、ゆっくりと王の前に進み出る。彼女の瞳には緊張と、それを打ち消す強い意志が宿っていた。
「噂以上の気品と静けさだな」と、オリヴィエ王は呟くように言った。
リリスは、深く頭を下げた。言葉を持たない彼女にとって、その所作ひとつひとつが、すべての意思を伝える手段だった。
「君のしたことは、決して小さな功績ではない。民を守る意志と行動力、それがどれほどの重みを持つか、国を預かる者として私はよく知っている」
王は静かに玉座から降り、リリスの前まで歩み寄ると、その小さな頭に優しく手を置いた。
「君の正義と心は、この王国の誇りだ」
リリスは、少し驚いたような顔をしながら、けれど照れたように笑みを浮かべ、再び頭を下げた。その仕草は、王だけでなく、列席していた廷臣たちの心をも和らげた。
だがその直後――。
コツン、と小さな音。ヒールに慣れないリリスは、ふいに足をもつれさせ、絨毯の上に見事に転倒してしまった。
「リリス!」と、思わずグレゴール公爵が声を上げたが、すぐに夫人セリーヌが「まあ、可愛らしい転び方」と笑みを浮かべた。
リリスはすぐに立ち上がり、少しだけ頬を赤らめながら、ぺこりと再度お辞儀をした。
オリヴィエ王は、その様子に声を立てずに微笑み、「リリス嬢、足元には気をつけるのだよ。だが、君の可憐さはどんな靴でも損なわれない」と冗談めかして言った。
リリスは小さく頷き、今度はつまずかないよう慎重に歩を進め、両親のもとへ戻っていった。
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大広間を後にし、長い回廊を歩く家族三人。グレゴール公爵は、ふとセリーヌに向かってぼやくように言った。
「やはり、ローファーにすべきだったな…」
「いいえ。ヒール姿のリリスは、堂々としていて素敵でしたわ」と、セリーヌは優雅に笑う。
グレゴールは少し困ったように眉を下げながら呟いた。「しかし…5年も経つのに、あの姿のままだ。10年経っても変わらなかったら、どうする?」
その言葉に、セリーヌの足が止まる。だが、彼女はすぐに微笑んで答えた。
「だからこそ、今の姿を大切に見守るべきですわ。リリスは、私たちの娘。いつまでも変わらぬ愛しさをくれる子です」
グレゴールは静かに頷き、二人の会話を横で聞いていたリリスも、両親の間で少し照れたように笑みを浮かべる。
その微笑みは、小さな少女のものだったが、同時に王都に、いや王国に光をもたらす――そんな確かな輝きを秘めていた。
第3章 ― 小さな歌姫と鳥たちのセレナード
王宮の庭園は、色とりどりの花と爽やかな風に包まれていた。その日、プリンセス主催の特別なお茶会には、国内から名のある12歳以上の貴族令嬢たちが招かれ、皆それぞれの特技や趣味を披露し、優雅な時間を過ごしていた。
だが、その中でひときわ異彩を放っていたのは、ひとりだけ年齢も背丈も明らかに異なる少女――リリス・ヴァレンタインだった。
彼女は、ほかの令嬢たちの視線を一身に浴びながらも臆することなく、ひとつの場所に歩み出る。ピアノもバイオリンも持たず、彼女の手には何もない。だが、深く一礼をしたその姿に、場の空気がぴたりと静まり返る。
リリスは、声を持たない。
それでも彼女は、"歌う"ことを選んだ。
目を閉じ、小さな唇を震わせるように動かしながら、リリスは空に向けて祈るように想いを放った。音はない。ただ、彼女の表情、身ぶり、静かな気迫が、何かを奏でているとしか思えなかった。
そして――
ふいに、庭園の木々から一羽の小鳥がふわりと舞い降り、リリスの足元に降り立つ。
やがて、もう一羽。さらにまた一羽。気づけば、庭園中の小鳥たちが集まり、リリスのまわりを円を描くように飛び始めていた。
小鳥たちは、さえずる。
それは、まるでリリスが歌っているかのように響いた。リリスの無言の歌を、鳥たちが旋律に変えていたのだ。
その光景は、まるで神話の一節のようだった。
少女は、音のない歌を謳い、 鳥たちは、その想いを囀りに乗せて天に届ける。
令嬢たちは息を呑み、誰一人として口を開く者はいなかった。そこにあったのは、ただただ静かで、尊い時間。
リリスが最後に手を胸に当てて静かに礼をすると、小鳥たちの囀りも自然と静まり、一羽、また一羽と青空へ帰っていった。
ただ、一羽だけ。
小さな黄緑色の鳥が、リリスの頭にちょこんと止まり、動こうとしなかった。
リリスが軽く頭を傾けても、小鳥は落ちることなく、しっかりと彼女に寄り添っていた。その光景に、令嬢たちの表情は思わずほころび、会場にはやわらかな空気が満ちていった。
やがて一人の令嬢が、そっとリリスに近づいた。「その子、あなたの…?」と手を伸ばそうとした瞬間、小鳥は羽ばたき、風のように天へと舞い上がっていった。
しんと静まる庭園。
けれどその余韻は、まるでひとつの歌が、いま終わったばかりであるかのような、心に残る温もりだった。
「……リリスは、本物の天使なのではないかしら」
誰かが小さく呟いたその言葉は、まるで魔法のように伝播し、令嬢たちの間でさざ波のように広がっていった。
そしてその日の午後、王宮のお茶会で最も記憶に残ったのは、楽器でも演奏でもない。
たった一人の少女と、小鳥たちの声なきセレナードだった――。
第4章 ― 澄んだ瞳の前にて
お茶会を終えた夕暮れ、リリスは王宮の回廊を静かに歩いていた。王女主催の華やかな催しに参加した後とは思えないほど、彼女の表情はいつも通り穏やかで、微笑さえ浮かべていた。
一方その頃、王宮の別の一角では、重厚なカーテンで光を遮られた一室に数人の貴族たちが密かに集まっていた。いずれも王国の中枢に関わる名家の当主たちで、その声には抑えた威圧がにじんでいた。
「国王陛下はすでに御高齢…継承の話が本格化すれば、王女では弱すぎる。」
「エレオノール王女はあまりに理想主義だ。我々が手綱を握らねば、国政は乱れる。」
それは建前だった。本音は、己の権力と既得権益を守るため。王女を傀儡に仕立て、真の支配権を握ろうとする陰謀が、着々と練られていた。
「表立って動くのはまだ早い。王の信頼を削り、王女の孤立を作る。それからだ。」
そんな密談の帰途――。
静かな回廊を歩いていた彼らの前に、小さな姿が現れた。
リリスだった。
幼い少女の姿に、貴族たちは一瞬足を止める。手を繋いだ侍女もなく、ただ一人、廊下を歩いていただけ。しかし、彼女の瞳がふと彼らを見つめた瞬間、空気が変わった。
光の射すような澄んだ瞳。その無垢さに、彼らはなぜか居心地の悪さを感じた。
「……なんだ、この胸のざわめきは…?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「我々は…王女を傀儡にするつもりだった…」「国王を徐々に排除し、評議会を乗っ取る計画を…」
はっとした時には、すでに全員が自らの罪を言葉にしていた。
その場にいた近衛の騎士が目を見開く。「今、何と…?」
「ま、待て…違う!これは誤解だ!」
否、違わない。
リリスの瞳に映るもの――それは、罪そのものを突きつける鏡。「汝の罪を懺悔せよ(コンフェッション)」という異能の力。それは彼女自身も意識していない、無意識の力だった。
やがて騎士たちは急ぎ報告を上げ、王宮は騒然となった。密談に加わった貴族たちは即座に拘束され、調査の末、王女に対する陰謀が白日のもとに晒された。
しかし――
リリスの名は、報告書には一切出てこなかった。誰も、彼女が罪の告白を引き出したとは気づいていなかったのだ。
ただ、居合わせた者たちがこう語っただけだった。
「あの子の瞳を見て、心が見透かされている気がした――」
その日以降、王宮内ではひそやかに囁かれるようになった。
「リリス・ヴァレンタイン嬢は、光の中に罪を映す鏡だ」と。
けれど、当の本人は何も知らず、騒動が起きた夜も、ただいつものようにチョコレートクッキーを食べて、幸せそうに眠りについていた。
彼女の正義は、決して剣を持たない。
ただ、静かにそこにいるだけで、世界を少しずつ変えていく――
それが、「小さな天使」と呼ばれ始めたリリスの、もう一つの奇跡だった。
エピローグ ― 微笑みの余韻
エレオノール王女は、王宮を去ったリリスのことを、ふとした瞬間に思い出しては、静かな寂しさを胸に宿していた。
庭園での小鳥たちとの奇跡、無言のまま届けられたあの“歌”。あの小さな少女が自分の妹であったなら――と、何度夢想したことだろう。
「また、会いたいわ…リリス。」
心からそう願うほどに、彼女の記憶の中でリリスは美しく輝いていた。
一方その頃、ヴァレンタイン領に戻ったリリスのもとには、連日、王都や各地の領地から手紙が届けられていた。美しく飾られた封筒や、子どもらしい素朴な字で書かれた便りの山。
そのすべてが、ひとつの想いを語っていた。
――あなたの「歌」に心を打たれました。
――あの光景は、一生忘れられません。
――私の領地にも、どうか来てください。あなたに会いたい。
中には「どうかお友達になってください」とリリスと心を通わせたいと願う子どもたちからの手紙も多く、彼女がいかに多くの心を動かしたのかが、ひしひしと伝わってきた。
リリスはそのひとつひとつを、無言のまま丁寧に読んでいった。
その小さな指先で紙をなぞり、差出人の気持ちをゆっくりと感じ取るように。
決して大きな声ではなく、何かを声高に語るわけでもない。
それでも彼女の“静けさ”は、人々の心に確かな余韻を残していた。
誰もが思っていた――
リリスは、ただそこにいるだけで、世界を優しく変えてしまう。
その微笑みは、今日もまた、誰かの心に灯をともすのだと。
物語は、新たな舞台へ。
小さな天使がもたらす、次なる奇跡が静かに動き出そうとしていた。