第1章:おこづかいでは足りないから
秋の風が葉をさらい、舞い降りたそれらが中庭の石畳にかさりと音を立てた。公爵邸の窓辺で、リリスは頬杖をついたまま、ぼんやりとその光景を見つめていた。
来週は、公爵の誕生日。
それはとても喜ばしいことのはずだった。けれどリリスの胸には、なにかそわそわとした小さな焦りが巣くっていた。
(なにか贈りたい……心から喜んでもらえる、特別なものを)
彼はいつも優しい。言葉のないリリスの思いも、まるで魔法のように受け取ってくれる。だからこそ、今年の誕生日には「ありがとう」をちゃんと伝えたかった。
だが――
手元のおこづかい帳を開けば、そこには数枚の銀貨と、細々と計算された走り書きしかない。彼女の願いには、ちょっぴり足りない。
リリスはノートを取り出し、「どうしよう」と書いてから、ペンを止めた。しばらく考え込んだのち、小さく唇を引き結び、ペン先がさらさらと走る。
「あるばいと、する」
決意を書き記したその瞬間、彼女の瞳はきらりと光を帯びた。
その日、リリスはこっそりと外出の準備を整え、クラリスの目を盗んで邸を抜け出した。目的地は、以前クラリスと訪れた近所の雑貨屋だった。
店主は、玄関のベルが鳴る音に顔を上げてぎょっとした。「リリス嬢……?お一人で?」
リリスはうなずくと、鞄から小さなメモを取り出して差し出した。
「ここで、はたらかせてください」
小さな手で掲げた文字を読み、店主はしばらく絶句した。けれどその瞳の奥に宿るまっすぐな光を見て、彼は静かに頷いた。
「……本気なんだな」
リリスは強く頷くと、ポケットの中からさらにメモを取り出した。
「じょうけん:ちいさいしごと。がっこうのじかんはおやすみ。おしゃべりできないけど、がんばります」
店主は笑って言った。「よし、じゃあまずは棚の掃除から始めてみようか」
こうして、リリスの初めての“アルバイト”が始まった。
リリスは黙々と、しかし楽しげに働いた。小さな手で布を握り、ひとつひとつの商品に丁寧に布をかける。背伸びして陳列を直す姿に、来店した客たちは思わず微笑んだ。
「おや、可愛らしい店員さんが増えたのね」
そんな声が聞こえても、リリスはただ一心に、与えられた仕事をこなしていった。その背には「公爵にすてきな贈り物を」という決意が、羽のようにやさしく張り付いていた。
そして数日後――
リリスの手元には、ほんのわずかではあるが、自分の手で得た報酬が並び始めていた。小さな布袋に入れられたそれを、彼女はそっと抱きしめる。
だがまだ、贈り物は決まっていなかった。
リリスはその夜、ベッドの中で星空を見上げながら考えていた。
(なにがいちばん、うれしいかな……)
彼女の小さな冒険は、まだ始まったばかりだった。
---
こちらがリライトされた『小さな天使 公爵家のリリス9 天使のアルバイト』第2章です。リリスの献身と優しさ、そして再び歩き出す決意をより繊細に描写しています。
---
第2章:プレゼントより大切なこと
秋の陽が傾き、リリスはいつものように雑貨店での仕事を終え、小さな袋を胸に抱えて帰路についていた。風は冷たくなり始めていたが、働いたあとの満足感が彼女の頬をほんのり温めていた。
(もう少しで、プレゼントが買える)
彼女の胸の中には、公爵への思いが静かに燃えていた。特別な贈り物を――心からの「ありがとう」を形にしたくて。
だがその帰り道、道端で小さくうずくまる影が、リリスの足を止めた。
それは、一人の少女だった。年はリリスとそう変わらない。顔を伏せたまま、震える肩から嗚咽が漏れている。
リリスは迷わずその子のもとへ歩み寄った。言葉は使えない。けれど、そっと屈んで目線を合わせる。それだけで、リリスの瞳が何を問いかけているのか、少女には伝わったようだった。
「……お母さんが、病気なの。薬が必要で……でも、そのお金を、どこかで落としちゃったの」
少女は嗚咽混じりに言った。涙で濡れたまつげの奥から、必死の不安と後悔が伝わってくる。
リリスの小さな手が、無意識に胸元の袋へ伸びる。ずっと大切にしてきた、汗水たらして集めた銀貨たち。――だけど、迷いは長くなかった。
リリスは、そっと少女の手を取り、自分の袋を差し出した。
少女の目が大きく見開かれる。だがリリスは、静かに微笑みながら頷いた。
「このお金で、お母さんを助けて」と、言葉ではなく瞳で伝える。
少女は震える手で袋を受け取り、声にならない声で「ありがとう」と何度も繰り返した。涙を拭いながら立ち上がり、何度も頭を下げ、駆け出していく。
その小さな背中が消えていくまで、リリスは黙って見送った。
手ぶらになった帰り道――。
リリスの心には、ほんの少しの寂しさと、それ以上の温かさが残っていた。夢に見ていた公爵へのプレゼントは、また遠のいてしまったけれど、後悔はなかった。
「また、一から始めればいい」
そう心に誓い、リリスは雑貨店へと引き返した。
「どうしたんだい、もう帰ったはずじゃ……」
店主は驚いたが、リリスの手元に袋がないこと、そしてその表情に映る静かな覚悟を見て、すぐにすべてを悟った。
「……よし、じゃあ今夜は商品の仕分けを頼むよ。少しでも多く稼げるようにしてやるからな」
リリスは笑顔で頷いた。瞳にはもう迷いはなかった。
――こうして、彼女の“再出発”が始まった。
彼女が目指すのは、プレゼント以上に“公爵を喜ばせる何か”。それを探す旅は、まだ終わっていなかった。
以下に『小さな天使 公爵家のリリス9 天使のアルバイト』第3章のリライトをお届けします。リリスの焦りと優しさ、そして周囲の人々の温かな支えを丁寧に描き出しました。
第3章:焦りと願いと、もう一度のスタート
リリスは、あの夜の決断を一切悔いていなかった。けれど――
(まにあうかな……)
心の奥底で、小さく波立つ不安は消えなかった。
商店の扉を押して入ったリリスに、店主は静かに微笑んだ。その目は「何かあったんだな」と、すでにすべてを見透かしているようだった。
リリスは小さなメモ帳を開き、そこに「もういちど、はたらきたいです」と書いた。文字は震えていたが、その瞳は真っすぐだった。
「もちろんさ、リリスちゃん。ここは君の職場なんだから」
店主のその言葉に、リリスは安心したように笑みを浮かべ、そっと頭を下げた。
仕事は以前と同じく、掃除や陳列、在庫の整理。けれど、リリスの手つきには、どこか焦りが滲んでいた。目に見えるほど疲労を溜めたその小さな背中を、店主は気づかぬふりをしながら、そっと見守っていた。
(きっと、何かがあった。でも、それを語れない子なんだ)
だからこそ、店主は工夫を凝らした。リリスができそうな、けれど時給の高い仕事。買い物かごを持って常連のおばあちゃんを手伝ったり、近所の店への届け物を任せたり。ひとつひとつが、彼なりの応援だった。
リリスも、それに応えるように必死で働いた。小さな手は休むことなく動き続け、口に出さない分、体で誠意を示していた。
夜、家に帰ったリリスは、ぺたりと机に突っ伏した。手元の封筒の中には、少しだけ分厚くなった銀貨たち。だけど、その数では――まだ足りない。
彼女はまたノートを開き、「まにあうかな」と書いた文字を見つめ、しばらくの間、じっと考えていた。
けれど、やがて筆をとり直し、こう書き加えた。
「でも、がんばる」
そして、静かにベッドに潜り込む。
その晩、リリスは夢を見た。
公爵がリリスのプレゼントを受け取って、優しく微笑んでくれる夢。その笑顔はとても穏やかで、まるで父親のようにあたたかだった。
目覚めたとき、リリスはその夢を思い出しながら、再び静かに誓った。
(わたし、ぜったい――まにあわせる)
そうして始まる、新しい一日。
市場の店主は、リリスの朝一番の訪問に「おお、今日も気合い入ってるね」と笑いながら、重い箱の荷運びを手伝わせてくれた。
周囲の大人たちも、リリスの働きぶりに気づき始めていた。最初はただの“お手伝い”だと思っていた少女が、実は何か大切な目的を持っていると、なんとなく察していた。
やがて、商店街の人々は「リリスちゃんにお願いしたい仕事はないか」と、自然と相談を持ちかけるようになっていく――。
その姿を見た店主は、ふと呟いた。
「小さな天使ってのは、本当にいるもんなんだな」
リリスはその言葉を聞いていなかったけれど、不思議と胸が温かくなるような気がして、今日もまた銀貨を一枚、大切に封筒へ加えたのだった。
以下に第4章をリライトいたしました。リリスの頑張りが報われる穏やかで心温まるクライマックスとして、静かな感動と余韻を大切に描いています。
---
第4章:贈りものは、心のかたち
それは、秋の空が澄んでいた朝だった。
リリスは、白いリボンで包んだ小さな箱を両手でそっと抱えながら、公爵の執務室へと向かっていた。胸の中は、ほんの少し緊張で高鳴っていたけれど、それ以上にあたたかな達成感があった。
やっと貯めた、あのお金。ひとつひとつ積み上げた日々が、今日この瞬間に結ばれる。
ドアをノックすると、中から「入っていいよ」という公爵の穏やかな声が返ってきた。
リリスは静かに入室し、まっすぐ公爵のもとへと歩み寄る。そして、深く一礼してから、手にしていた小さな箱を差し出した。
公爵は一瞬、目を丸くし、それから柔らかく目元を緩めた。
「……これは、私に?」
リリスは大きく頷いた。
彼女の瞳には、言葉の代わりにたくさんの想いが詰まっていた。日々の努力、誕生日を祝いたいという気持ち、そしてありがとうの気持ち――すべてが、小さな贈りものに込められていた。
公爵は、慎重に箱を開けた。
中にあったのは、リリスが選んだ銀のカフスボタン。決して高価ではないが、彫られた家紋と彼女の手書きのイニシャルが、小さなカードに添えられていた。
「……これは立派な贈り物だ。ありがとう、リリス。とても嬉しいよ」
彼の低く優しい声に、リリスの顔がふわりと綻ぶ。
そのとき、扉が控えめにノックされ、執事が手紙を持って入ってきた。
「公爵様、今朝届いた手紙でございます」
受け取った公爵は、その場で手紙を開き、しばらく無言のまま目を走らせた。そして――ふっと、表情が和らいだ。
「リリス、これは……お前が、あの夜助けた少女の母君からだ」
リリスは目を丸くした。
「彼女は無事に快癒されたそうだ。そして、娘さんは“恩人、一生かけて報いたい”と記している。……まったく、リリスらしいな」
公爵は静かに笑い、手紙を置いたあと、リリスの頭にそっと手を置いた。
「お前は、今日二つの贈りものをくれたんだよ。ひとつはこの素敵なカフス。そしてもうひとつは、誰かの未来だ。……私はそれを、何より誇りに思う」
リリスは、ゆっくりとその言葉をかみしめた。
窓の外では、木々の葉がまたひとつ、風に舞っていた。
贈りものとは、きっと心のかたち。
リリスが包み込んだその小さな思いは、確かに人の心を動かしていた。そしてその思いは、公爵の胸の中で、静かにあたたかな光を灯し続けていた。
エピローグ:もうひとつの贈りもの
公爵に心を込めた贈り物を届けてから、数日が経った。
それは、小さな少女の精一杯が生んだ、静かな奇跡だった。
公爵は今でもそのカフスを大切に使い、使用するたびに、「あれはリリスが自分の手で選んだのだ」と誇らしげに周囲へ語った。それは公爵邸にとって、いまや微笑ましい定番の話題でもあった。
けれども――。
リリスの心は、もう次へと向かっていた。
廊下に揺れる陽だまりの中で、リリスはふと思い出す。間もなく、母である公爵夫人の誕生日がやってくることを。
今度は、あのひとにも「ありがとう」を伝えたい――。
そうして、リリスは再びペンを取り、ちいさなメモにひらがな混じりの文字でこう記した。
「まざー ばーすでいー」
紙を手に握りしめ、彼女が向かったのは、以前にお世話になったあの商店だった。戸を開けると、店主が驚いた顔をし、そしてすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……また、働きに来てくれるのかい?」
リリスはこくりと頷き、そっとメモを差し出した。
その紙を読んだ店主は、心の奥に柔らかなものが広がるのを感じながら、静かに返す。
「……いいね。また一緒にがんばろう」
棚を磨き、品を並べ、小さな体が動き回る。額に小さな汗を浮かべながらも、リリスはどこか嬉しそうだった。
それはきっと、与えることができることの、よろこび。
誰かのために働き、手を差し伸べ、感謝を届ける――。
それは、彼女が知っている、いちばん確かな“魔法”だった。
また新しい奇跡が、どこかで芽吹く。
そう信じさせてくれる、少女リリスの物語は、今日も続いていく。