私がダンボールの個室で静かに着替えていると、表にいる男達の密談が聞こえて来た。
「よっ、おはよう長谷川」
「あ、おはよう。昨日はどうだった?」
一応言っておくけど、ダンボールの壁が良くないと思う。私は嫌でも彼らの声が聞こえてくるのだから。
「長谷川の言う通りに、あいつを元気づけられたよ」
村雨くんは云う。
「それだったらよかったよ。あの人、ああいうのが苦手なのは見ていてすぐわかったからな」
云ってから長谷川さんはずるずると、毎朝欠かさず飲んでいるコーヒーを啜った。
「でも流石だな。長年の付き合いだったから、彼女が追い詰められているって気が付いたのか?」
長谷川さんの言である。
「そんなところだよ」
村雨くんは自慢げに笑って、長谷川さんの背中を二回叩いた。
何だ、そういうことだったのか。
村雨くんにしてはやけにタイミングが良いと思っていた。
パシャ。
「え?」
「あら」
私はダンボールの個室から手を伸ばし、二人の後ろ姿をフラッシュありで撮影した。
固まっている村雨くんと、余裕そうな長谷川さん。
二人の目線が壁の向こうに居る私に注がれている。
「激写」
私は得意げな顔をひょっこりさせて言う。
屋上で座って待っていると、佐々木くんが手紙を持ってやってくる。
私は手を振って彼に「ここだよ!」と声を出した。
「ど、どうしたんですか?」
佐々木くんは開口一番にそう言った。
「ちょっとね」私は洒脱と言う。そしてカメラを起動して、彼に見せた。
「…………」
「聞いていたんだよね。全部」
私は暗闇の写真と、深夜の三時七分と書かれたカメラの表記を佐々木くんに見せた。
「この写真、何だろうなってずうっと考えてた。そうだったんだね。ダンボールの壁、当たり前だけど、防音性能は皆無だ」
私が彼をじいっと見つめていると、彼は驚いた顔のまま動かなかった。
私は持ってきた木製の椅子を差し出して微笑みかけ、そしてわざわざ冷蔵庫で冷やしておいたオレンジジュースを差し出すと。
「少し話さない?」
私は首を傾げる。彼は私を見ている。
「この世界と、今後について」
彼はこくりと頭を縦に振った。
*
椅子に座り、互いを見つめている。
僕は渡されたオレンジジュースに口をつける気にはならなかった。
何故なら、この人の話す会話の方がずうっと興味があったからだ。
「――――」
勝手に話を聴いていたことがバレていた。
もしかしたら、僕は怒られるのかもしれない。あの暴徒の人たちみたいに唾を沢山吐きつけて、僕を一人で孤立させるのかもしれない。
この人がそんな人ではないと分かっているのに、僕が何故か暴徒に捕まった時のことがチラチラと脳裏に浮かんでいた。
「改めて話すね」
彼女は長い髪を風に流し、両手を白いスカートの上、膝の上部に収める。
「小惑星の衝突が近づいている。それは、避けようのないことみたい。斎藤楓っていう、私が信じている男の人と同じ組織に所属している賢い人が云っているから、たぶん本当。で、じゃあみんなこのまま死んじゃうのかというと、そうでもなくて。大人はみんな、どうにかしようと死に物狂いで今も頑張っている」
僕はあの単語を思い出す。
「それが、チョウジン計画ですか?」
彼女は「君も賢いね」と頷いた。
「超人計画については私も詳しく知らない。でも、簡単に言うと漫画のスーパーヒーローになるっていう感じかな? 酸素が無くても活動できて、寿命の概念が無くなる……みたいな。でも私達が思うに、その計画にはまだ分からない事や胡散臭いものが多いの。だから、まだその計画に賛同かどうかは様子を見てる」
だいたいはあの夜に聞いた事だった。
でもこの人は僕に分かりやすいように言語レベルを落として話しているのは、目に見えて分かりやすかった。でも彼女のその気遣いは、悪い気分になるものではなかった。
「それで」彼女は腕を合わせて僕の事を見る「佐々木くんに相談したいんだ」
「はい」
「佐々木くんは南ちゃんに、このことを打ち明けるべきだと思う?」
彼女は僕の眼を真っすぐ見た。僕はふと息を呑んだ。
その視線は、僕に対して噛み砕いて物事を説明する大人の瞳ではない気がした。
なんというか、それこそ、僕がショッピングモールの一角で閉じこもっていた時に感じた、包容な心と共に感じていたあの……対等な目線。
そうか。この人は、僕を子供だからと思うのは辞めたんだ。
僕は確かに子供だけど、今、それを加味して話を進める必要がないと判断した。
だから目をはっきりと見て、心から尋ねている。
「……僕は」
息を吸った。そして、沈黙をそこに置いてから、
「南に話すべきだと思います」
風が流れる。僕の汚れのない白いぶかぶかの制服が靡く。彼女の髪も靡いている。彼女の瞳も靡いている。
「そして」
僕は続けて口を開く。
「僕がそれを説明します」
口に出したは良いものの、僕は自分がおこがましい事を言っているのではと不安に感じた。
彼女と僕の間に、しばしの静寂が訪れる。風は止み、雲一つない蒼穹が僕らを見下ろしている。あの空の向こうから、終わりが訪れることは、未だに信じられなかった。
「分かった」
彼女は微笑みながら了承した。僕はほっと、胸を撫でおろしたくなった。
今日は雲一つない快晴である。
*
数分後、モール二階にて。
私は階段を下りながら考えていた。
人が最も悲しむ瞬間はなんだろう。人が、最も叫びたくなる瞬間はなんだろう。
誰かが泣く事でも、大切な人が居なくなる事でも、誰かが死んでしまう事でも、大きな傷を負う事でもない。それは、罪悪感だと思う。自分が犯してしまった罪による罪悪感が、一番、人を壊すと思った。
私は暗闇の前に立つ。そして、息を整えて前を見た。
「先輩」
どんよりとした空白が、そこでいびきをかいている気がした。
日が当たらないこの場所で、獰猛な眼光が私に向けられた。
私は座り込んだ。脱力して、カメラを首に下げて。
「覚えていますか」
私は問いかける。先輩は沈黙を投げ捨てる。
私はカメラの電源をつける。
「先輩がお気に入りだと言ってくれた写真。あのピンク色のお弁当を使っている男の子の写真です。あの子の名前は村瀬友。友くんって言うんです。これ、ずうっと先輩に言いたくて言いたくて仕方なかったんですよ。だって、先輩は自分の事の様に私の人生を祝ってくれるし、喜んでくれるから」
私は息を吸って次の瞬間、はっきりと眼光を見つめた。
暗闇に佇む獣と瞳を合わせる。
「私は村瀬友と付き合っています」
私はカメラのデータを見返しながら、喋っていく。
【 32/2003 】
「彼は人当たりが良いから友達が多いです。誰でも打ち解けるような物腰柔らかい態度と、おっとりとした童顔からはまるで敵意を感じません。情にも熱くていざという時は体を張ります。でもだからこそ、人当たりが良いからこそ、人の負の側面をよく見て来たのだと思います」
【 61/2003 】
「子供のころの彼は、私とは違った経験をしながらも私と似た風味を持っていました。持っている哀憐が同じだったんです。誰かを憎み、そして憎んでしまう自分が嫌いになって仕方なかった。そんな彼と私が出会った時、不思議と初対面なのによく目が合いました。彼も私も、お互いに何かを感じ取って、目線を交わしていた。成人式の時、彼は沢山の友達に囲まれているのを私は見つけました。時間が経って、もしかしたら哀憐を持たなくなったのかもしれない。誰かを肩を並べて乗り越えられる強い人間。普通になってしまったのかもしれない」
「――――」
「私がそう思っていると、彼は私を見つけてくれました。目が合って、やあ、と友くんがすっきりしたような顔で近づいて来たんです。安心しました。彼は、私を覚えていてくれた。そして話すと不思議な事に、長らく忘れていた彼の体温を感じたのです。暖色の暖かい温もり、心
が静まり返って優しくなる温度。きっと、その時から私は彼の事が好きだったんだと思います」
【 80/2003 】
「ノリが良くて愛嬌がある。だからよく弄られていましたし、本人もそうされた時の笑いの取り方が上手かった。村雨や中村くんの旅行にいつもの四人組で旅行にしょっちゅう行きました。風景を撮影する旅でも、彼はついてきてくれました。当時、私はまだ自分が恋心を持っていることに自覚的ではなかった。でも思い返してみると、分かりやすすぎますね。先輩が弄りたくなるわけだ」
【 103/2003 】
「二年間、彼と一緒に風景を見ました。彼が隣で、村雨と中村くんが前を行きました」
【 172/2003 】
「当たり前だったんです。この日常が、ずっと続けばいいと考えていました」
【 321/2003 】
「まるで私が好きな歌手の歌みたいです。その一節にあるんですよ」
【 400/2003 】
「これが愛であって欲しいと言うのが、君であって欲しい。これが夢であって欲しいと思うのが、僕であってほしい。歌っていいですよね。本当に作曲家が籠めたかったメッセージとは裏腹に、歌を聴く人がそこから何を受け取るのかが千差万別なんですから」
【 602/2003 】
――「どうせならさ」友くんの提案で通行人にお願いし、私と友くんのツーショット写真を私用カメラで撮ったりもした。
「プロポーズはあっちからでした。でもあっさりしていましたよ。だって、お互いに今まで付き合っていなかった方がおかしいくらい通じ合っている感じがしていましたから。先輩が教えてくれたルートに従って水族館を歩いているとき、彼が私と同じ椅子に座ってプロポーズをしました。私は、ああ、そうか。今がベストなタイミングだったんだと納得しました」
「――――」
「私達は」
私はカメラを持っていた手を脱力させて、もう一度、闇を見つめる。
「その日から一度も会えていません」
こちらを見ている。先輩の瞳を私は見つめる。
臆することなく、彼女の瞳を見る。
「先輩。あなたは云いましたよね」
私は声を強張らせて云い、区切ってから息を呑み込んだ。
そして先輩の言葉を再生する。
「何があったんですか?」
「ぃ」音が私の右耳を掠った。「ひぃ……ぁが」
先輩は暖かい涙をこぼした。
『人が人を殺していた』
私は眉を寄せて先輩に強い眼光を飛ばした。
先輩は肩を揺らして、少量の空気を口から漏らした。
「先輩は元々、このショッピングモールに居た暴徒の一員だったんですね」
私は先輩の言葉を再生する。
『私が人を殺していた』
*
彼女は私の目の前で続けた。
「言質も取っています。佐々木くんのお母さんについて、本人から聞きました」
私は喉元をきゅっと絞められた感覚があった。
ずっとバレたくなかった後悔を、一番知られたくない人物に知られたからだ。
「このショッピングモールに蔓延っていた暴徒は、逃げ込んできた無辜の人たちに暴力を与えていた。無辜な人たちの一員として佐々木くんと佐々木くんのお母さんがやってきた」
ササキ、という名前の音には憶えがあった。
あの子供想いの女の顔が脳裏に過る。
「そして今、佐々木くんのお母さんは心神喪失状態になっている」
私は喉元の締め付けが強くなった気がした。
彼女を見ることが出来なかった。彼女を、拒絶したかった。でも彼女の声は嫌でも聞こえて来た。責め立てるような強張った声が、私の脳を激しく揺らしていた。
「先輩」
私は口パクで「やめて」と言う。
その言葉は、言葉として口から滑り落ちなかった。言葉として発声できなかった。
「どうして、こんなことをしたんですか?」
私は自問を繰り返している。
何故、私は人を殺してしまったのか。
何故、ササキという女性の心を壊してしまったのか。
不安に駆られて目の前が見えなくなった。
自分が、自分ではない気がした。そんなの言い訳だ。そんなの信じてくれないし、まずまず無責任だ。だって、やったのはこの手だ。この手で、私は……。
うっと、吐き気がまた襲ってきた。喉元の閉塞は私の首を絞めてそのまま殺してしまいそうだった。
あの時、男の声がしたのだ。続け。壊せ。終わらせろ。
それは何遍も繰り返される言葉だった。
よく通る声で、迫力のある男声。続け。壊せ。終わらせろ。続け。壊せ。終わらせろ。繰り返される破壊の言葉に身を委ね、私は自分を失った。言い訳だ。言い訳なんだ。私は自分でこれをやった。眠らずに破壊だけを続けた。腕が痛くなっても斧を振り続けた。靴の底が無くなっても歩き続けた。泥に落ちても起き上がり続けた。
「ぅ」
私は意識とは真逆に、口が動いた。
「ふあん、だった」
「不安?」彼女は聞き返す。
ふ、ふ、ふ、と呂律が回らない。でも、今しかないと思った。今しか、罪の暴露ができないと思った。私は垂れている舌を汚れた右手で口の中に押し込めた。
「……こわかった。ふあん、だった」
「何を恐れていたんですか?」
私は少しの間を置いて答える。
「――死ぬことが」
感情が溢れて言葉に濁点がつかないように、息を整えて肩の揺れを抑えて言い放った。
死ぬことが怖かった。死にたくなかった。世界が終わる。その実感を、ずっと味わいたくなかった。私は、小さなころから、普通の人より感受性が豊かだった。見ず知らずの他人の死でも落ちこめたし、災害の映像とか見ているだけで体が熱くなった。死とは恐怖で、終わりで、苦痛。私にとって、果てる事は恐ろしいことだった。
でも……、
私は喉の締め付けが限界に達し、白い泡が胃から逆流した。
嗚咽を吐きながらその場に倒れ込み、酸素を取り込めていないような感覚のせいで呼吸がだんだんと早くなった。
「先輩!」
彼女は暗闇を突っ切って私を抱えた。
感情の濁流が収まる気配がなかった。
息が出来ていないような感覚があって、誰かに首を絞められているみたいだった。
「先輩っ、先輩、しっかりしてください!」
私にとって、果てる事は恐ろしいことだった。
でもその恐怖で私は、誰かを果てるまで追いつめて殺した。
私は殺人鬼だ。私はシリアルキラーだ。
私は人間じゃない。
「先輩、ごめんなさい」
彼女の声が、熟成された思考の間隙に反響した。
刹那、私の脳みそは大きく揺れて、全身の体の力がいっきに抜け、呼吸を忘れた。
「いっ……」
私ははっとした。
「はあはぁ、はアはぁ」
「吸って、吐いて」
瞼を開けると、おでこを真っ赤にした彼女が私に呼吸を促していた。
私は何も考えることが出来なくなっていた。彼女が、頭突きをしたから、その衝撃で色々と飛んだのだ。
「吸って」
「……」
「吸って!」
ああ、彼女は、まだ私に生きて欲しいんだ。
……いや、違う。きっとこの子の性格的に、自分が生きるために私を生かそうとしているのかもしれない。
「吸って!! 先輩ッ!」
でも私は、もう自力で呼吸が出来なかった。罪悪感が私を押しつぶしていた。こうなったら、もう逃げられない。
……でも最後に、この子の、役に立ちたくなった。
私は大きく息を吸った。そして、口を開く。
「本当にあなたは、小惑星、如きで、地球が終わると思う?」
「……え?」
彼女の意識が固定された。私の言葉の意味を思考し、疑問符を浮かべて考えている。そう。考えて。
「暴徒の間で、言われて、た……『星が三分割され、各々が三原色の海を、持つようになる』。……ねえ、本当に小惑星如きで、地球が、割れると思う? 三つの地形に、別れてから、三原色になると思う?」
彼女の思考が止まっている。私は、記憶を出来るだけ呼び起こす。気づいて。
「知っている? わたし、が、スマホを二年前に失くしている、ことを」
お願い。
「――――」
自分が聞かされた暴徒たちの妄言、そして、うなじに打ち込まれた注射。
その注射を打って、私達の先頭に立ち、声を張り上げて続け。壊せ。終わらせろ。続け。壊せ。終わらせろ。と扇動していた男。の。名前。
「暴徒を、率いていた、男の、名は」
「そこまでです」
威厳な声色が鼓膜を破った。
「――」
耳が割れそうな破裂音が響き渡り、私の視界が赤になった。
*
耳鳴りが続いている。籠った音割れが脳裏で幾重にも反響し、脳みそを揺らしていた。
いつかのマンションで聴いた音を思い出す。
私は恐怖に震えながら、べとっとした手を見る。――私の膝の上で、先輩から血がとめどなく流れていた。
私は服にいっぱいの返り血を浴びて、その光景にぞっと悪寒が走り、居すくまる。
「こういう結果になるとは、非常に残念です」
私は恐る恐る振り返った。
そこには、私の二倍背が高い、スーツ姿の男が立っていた。
「長谷川さん?」
長谷川さんは焦げ臭い煙が出ている拳銃を下ろして、ため息を吐いた。
「あなたに、来てもらいますよ」
大太鼓が鳴り響いている気がした。心臓が破裂しそうになった。
長谷川さんは、先輩を拳銃で撃ち殺したのだ。
それから私は、カメラを現場に置いてモールから連れ去られることとなる。