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54 1569/2003

 入相の鐘が鳴る。間近になった出発の前日、僕は最後の散歩を楽しんでいた。

 僕は堤防の上から、夕焼けが泥濘に溶けあい、冬らしい風が右側から吹き抜けてくるさまを眺め、物寂しい感覚と向き合っていた。

 僕はぽつねんとその場所で座り込んで、首にかけた彼女のカメラを点ける。

 僕が知り合いに頼んで直してもらったこのカメラに、僕が依頼した英文がふわりと浮かんでメニュー画面になった。そして僕は、ゆっくりとカメラに残る写真を捲っていく。

 僕は自分が撮影した何枚かの写真を、記憶に焼き付ける勢いで凝視した。

 寂しさを紛らわせたいのかもしれない。欠落した何かを無理やり他の物で代替するために、過去の作品をこうして摂取しているのかもしれない。或いは、このカメラから、僕は彼女への枯渇しかけている胸の生ぬるさを少しでも貰っているのかもしれない。

 彼女と話しているとありありと感じていた胸の熱が、失われつつあるのは事実だ。

 それは、僕が彼女を好きではなくなっているのではない。しかし僕も、おそらく彼女も、恋が世界の最大単位でないと思っている。僕と彼女は一見、絡むことは難しい対岸の生き物であると思いがちだが、何か特定の事柄に置いて非常に似た思想を持っている。そしてその思想が、お互いにとっての精神的な支柱であり、思考の渦のなかで中核を担うアイデンティティだ。

 僕は今になって分からなくなっている。

 自分が、どうするべきなのか。

 立派な生き方をするなら、僕が彼女を救いに行くのは正しいと思う。事実、僕はそうしようと思ったらそれに熱中できるだけのものを内に置いている。彼女は僕にとってかけがえのない存在であり、僕を構成するアイデンティティの一端を担う貴重な人間。これを愛と呼ぶのか分からない。とはいいつつ、これを愛以外にどう形容するか。

 ただ、僕は一人の人間、天文学者として、地球の運命が決まるそのときに私情で愛人を助けに行ってもいいのだろうか。

 ああ、どちらも立派だと思う。

 彼女を助けにいく僕になるのも、地球を救うためにギリギリまで足掻く僕になることも、立派だ。でもいま、僕は決断の時を突きつけられている。

 何を取り、何を捨て、そしてどこの道を歩くか。別れ道がある。それは、実在する眼前の舗装された道とモリに続く道などではない。精神的で無機質で、道に険しさも風雨すらないが、それは明確な別れ道だ。

 どっちに収まっても、僕は自分が何か別の自分になるとは思わない。どっちを進んだところで、僕は僕であり続けるという確信が、今の僕を激しく迷わせている。

 重要な決断だとは思えていないのかもしれない。何を取るか、ただ体の向きを変えるだけですぐ分岐できてしまう。彼女も大事。世界も大事。

 こんな僕の本性を誰かに覗かれたら、きっと僕は酷薄で優柔不断な人間であるとバレてしまうのだろう。事実、僕は取り繕ったあまりに便利な愛というパワーワードで、ここまで来てしまった。

 どっちつかずなふわふわとした気持ちのままで、この時を迎えてしまった。

 僕は肩の力を抜いた。ふと人気がして、真横を向いた。

「となり、良いですか」

 僕は軽く会釈をすると、彼女は宣言通り横に座った。

「一人で?」

 彼女は頷く。「村瀬さん、は」そして、彼女は小さな口を開く。

「りっぱ。の言葉の意味をしってますか?」

「りっぱ?」

 僕は首を傾げてみると、つぶらな瞳が僕のことをじっくりと見た。

 思わず僕は自分の心の中を覗かれたような気分になった。

「立派っていうのはね、堂々として、かっこいいってことだよ」

 道に迷っている僕が『立派』を語っていることに、背徳感が心をがっしり掴んだ。

「でも」

 彼女は幼い声で紡ぐ。

「かっこいい事が立派なら、佐々木にいは、りっぱじゃないよ」

「え?」

 僕は彼女から出て来なさそうな言葉が出て来たため、一瞬唖然とする。

 血の気が引いて、彼女のささやかな眼差しが居心地の悪いものになる。僕の迷い。それを隠すための化けの皮を指摘された気がした。

「あっ、ごめんなさい」

 彼女は平謝りする。僕が黙っていたからだ。

「あのね。ちゃんと順ばんに話さなきゃ、だめだよね。佐々木にいがね。村瀬さんといっしょにいかないって決めてから、ずうっとがんばってるの」

「がんばってる?」

 彼女は「うんっ」頷く。

「お母さんの事があったじゃない? おかあさんの為にいろいろとお話をしたり、一緒にくらすためにひなんじょの物しを確認したり」

 彼女はふいに両足を交互に振り始めた。

 「はりきってるのかなって思ってたの。でも、それが佐々木にいなりのがんばってるだって気が付いたの」

 僕は両足を振っている彼女の左耳を、意味もなく凝視していた。

「佐々木にいは、ずうっと自分がどうするべきかをえらんでだ。たいせつなものはなにか、自分にのこってるものはなにか。いつも佐々木にいは夜ふかしをして、のーとに何か言いながら書いてるの。それを、きょう、かくれて見たんだ」

 彼女は自分が悪い事をしていると分かっていながらも、そうやって僕に悪戯な笑みを見せた。僕は思わず尋ねる。

「何が書いてあったの?」

「りっぱになる。って」

 僕は鳥肌がたった。同時に、自分への嫌悪が色付いていくのを感じる。

 意図していなかった。佐々木くんの母親があの場面で正気に戻ることは。

 浅井すらもそれを予想していなかったらしく、佐々木華菜さんに潰されたあと、彼の方が少しうるっときていた。それくらい予想外なことだったのだ。

 でもそんなことは些末なことだ。

 問題は、――僕は結局、『大人』という威を借りて、佐々木くんに決断を迫ったということ。僕が本当は決断を成し遂げられていない、今になって揺れ動いているというのに、彼に諦める事を間接的とはいえ選択させたこと。

 僕はなんて不甲斐ない大人なんだ。

 一度やると口に出したなら、しっかりとやらないと。何迷ってる。何、弱ってる。何、センチメンタルになってんだよ。こんなんだから、彼女への告白があんなに遅れたんじゃないか。

 くっそぉ。

 こんなんだから僕は、最低な臆病者なんだよ。

「でもね、佐々木にいは臆病なんだ」

 ――僕は、絶句する。

「ずっとどこか困ったかおをしていて、不安で仕方ないみたいで、そんな自分が嫌みたいで、でもそういう自分を変えられなくて。私、まだ小学生だけど、佐々木にいのことお兄ちゃんみたいに思ってるけど、本当は血がつながってないことをしってる。私のままは、居なくなっちゃったから」

 知らない佐々木くんだ。と僕は思っていた。

 でもよくよく思い返してみると、恐らく僕の視界外で彼は四苦八苦していたのだと思う。

 僕が知らない余白の中で、写真を撮っている僕の背後で、彼はいつもそうやって生きていたのかもしれない。それこそ、母を廃人にした元暴徒の墓に、毎朝通っていることも、彼なりの理由があったからなのだろう。

 彼女は僕の方を見た。今、僕は自分の顔がどうなっているか分からない。表情の制御が出来ていない。しかし彼女は僕の顔を見て、続けた。

「私のお兄ちゃんはね。立派になりたがってるけど、その姿はかっこよくないの。ずうっと迷ってて、でも嘘でもいいからがむしゃらにやってる。ぜんぶがぜんぶ、お兄ちゃんががんばってることが、意味のあることだって、いえない。けど、ひっしに生きてるんだ」

「――――」

「村瀬さん」

 彼女は僕を見上げる。僕は自分の目線が彼女を捉えながら、違う場所を見ている事に気が付いた。

「もしかして、りっぱっていうのはかっこいいとか、堂々としてるとかじゃなくて。何かをがむしゃらに、なんだっていっしょうけんめい、やる事なのかもしれないよ。きっと、大事なのは道ばたでころんじゃっても、ころばないように気を付けるんじゃなくて、ころんだあとにすぐ立ち直ることなんだと思うんだ」

「――――」

 彼女は僕から視線を逸らし、前方の沈みかけている夕暮れを見た。

「……そうだね」

 僕は、やっとほぞをかためて、混じりない肯定を彼女に贈った。

「ねえ村瀬さん」

 彼女は足を交互に振りながら云う

「おなじ景色を、おなじ気持ちをこうやってきょうゆうするのって、嬉しいんだね」

 僕は、ゆっくりと頷いた。


「南ちゃん。ひとつ、個人的な相談があるんだけど」

「なあに?」

「僕は彼女の昔の写真を見てもいいのかな?」

「みてなかったの?」

 南ちゃんはえくぼを作って笑いかける。

「うん。ずっと前に、あまり見られたくないって彼女が云ったんだ。それから何だか見るのにストップがかかるようになっちゃって」

「でも、写真って自分だけで楽しむものじゃないわ」

 彼女は、小さな首にかかった自分のカメラを持ち上げた。

「誰かにきょうゆうしてこそ、写真ってい味のあるものだと思う。だから、見てもいいとおもうよ。そうじゃなきゃ、わざわざ写真にのこさないから」



 僕はその日の夜、一人で彼女が撮影した写真を眺めていった。

 彼女が僕に写真を見せたくない理由が何となく分かった気がする。

 それは、村雨さんと中村くん二人一組の写真と同じくらい、僕が被写体になって隠し撮られている様子の画像が、何百枚もあったからだ。きっと彼女は言葉通り恥ずかしかったんだと思う。僕を、隠れていっぱい撮影していることが。

 そして、彼女の撮る写真の真髄を理解した。

 彼女の写真は、彼女がそれを見て感じたこと思った事をそのまま撮影――いや、景色に浮かん四角いきりとり線にそってハサミを動かしただけなのだ。

 ありふれた日常のストーリーを、まっすぐ切って一枚の写真にした。

 それこそが、彼女の愛していた撮影という趣味だった。そしてその大半を埋め尽くすカップルと僕の散り積もったこのデータこそが、彼女の人生の集大成であった。

 僕は枯渇していた彼女への熱い想いを取り戻した。そして、このカメラを彼女に届けなきゃいけないという、立派な決断を下した。

 そういえば、僕も大昔、カセットテープで音声日記を作っていたな。



 パシャ。

 夕焼けが泥濘に溶けあい、冬らしい風が右側から吹き抜けてくる。

 橋と川と影に呑まれた住宅街、そして、三部南のばたつかせた両足から伸びている影が、どこか遠い場所、見渡せない場所までずうっと伸びているような気がした。


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