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第7話 第7章 腹いせのドラゴン退治 ── 鋼の剣と消えた憂さ

第7章-1 帰路の凍てつく風――王都へ向かう旅立ち




馬車は辺境伯領の城門を抜け、大陸の幹線道路へと滑り出した。深い森を背に残し、灰色の小道は東へと伸びている。ティナ・ロッテリア公爵令嬢は、侯爵邸を後にして久しい旅装を改めず、灰褐色の外套のフードをゆるく被ったまま、馬車の壁にもたれかかっていた。


「本当に、また王都へ戻るなんて……」


彼女の吐息は窓硝子に白い息を残し、凍てついた風が車輪の軋む音と混ざり合う。昨今の激戦が終わった後の余韻など感じる間もなく、再び皇都プティニエールへ呼び戻されるとは思いもよらなかった。馬車を曳く黒馬の脚元を固める砂利が、凍える大地の荒々しさを伝えてくる。


同行する侯爵の親衛騎士たちは、傍らで厳かに鞭を握りしめ、静謐な視線で周囲を見張っている。彼らの重厚な鎧からは、まだ昨夜の炎の熱気がかすかに立ち上るかのようだ。紅茶を注いだ銀製のタンブラーを持つ令嬢の指先まで緊張感が伝わる。


「侯爵様のお心遣いには感謝しておりますが……」


ティナは薄く笑みを浮かべ、凍える両手を温めるように袖口を押さえた。グレイス夫人が調合したという蜂蜜入りの紅茶は、甘くも苦くもない温かな慰めだ。しかしその一杯を味わう余裕すら、彼女にはほとんどなかった。


馬車は幹線の石畳へと差し掛かり、両脇に立ち並ぶ防衛砦の見張り台を横目に通過する。古の王都を守るために築かれたそれらの小要塞群は、今や冬の霜で白く縁取られ、鉄格子の小窓が無言の警鐘を鳴らしている。


「これから先は、いよいよ王都の領域ですわね」

ティナは小さく呟き、窓外を眺める。道幅は次第に広くなり、貴族や商人を乗せた馬車ともすれ違うようになる。彼女の馬車には侯爵の護衛以外に、数名の侍女と書記官、さらに国王の命を下す使者が同乗していた。


ふと、深々と息を吐いた彼女の肩が小刻みに震えた。幼い頃、王宮の大理石廊下で花々の香りに包まれるパーティへ出席した記憶もある。あの頃の華やぎは今や遠い幻のように霞み、追放と召還を繰り返す人生の荒波に揉まれていた。


「王都へ戻るのは二度目ですが……三度目になるかもしれませんわね」

苦笑がこぼれる。侯爵邸での安らぎは短く、今はただ、漠然とした虚脱感だけが胸を満たしている。だが護身の短剣と侯爵家の護符を胸元に隠し、「静寂を取り戻す」ための次なる一手を考えねばならない。


馬車が深い谷を越える峠道へ差し掛かると、気温はさらに下がり、頬を刺すような風が窓を叩いた。紅茶の湯気が一瞬で冷え、手の平にしみていく。ティナは外套のフードを深く引き寄せ、短剣の柄をそっと握りしめた。


「……あと少しで王都。冬の夜空には燦然たる星が瞬くはずですわ」


彼女の目は闇夜へと鋭く向けられる。辺境の森を抜けた先に広がる平野に、ほんのり雪化粧が施されていることを覚えている。古来より、王都への帰路は星を目印に進むとも伝えられている。ならば、今夜も――旅の終わりを告げる星空のもとで、一度だけ自由を夢見てみたい。


馬車が谷を抜け、凍てつく峠を越えた瞬間、遠方の樹影の間に長い翼の影が滑り込むのを、ティナはかすかに視界の端で捉えた。龍の背か、あるいはただの雲か。しかし、その気配は明らかに――


第7章-2 腹いせにドラゴン退治――路傍の遭遇と一閃


馬車は凍てつく風を切りながら王都へ向かう幹線道路を進んでいた。ティナ・ロッテリア公爵令嬢は外套のフードを深く被り、窓外の林檎畑や雪化粧の野原をぼんやり眺めていた。侯爵の護衛騎士たちは馬車の両脇を警護し、侍女は毛布と紅茶を再度手渡す準備に忙しい。だが令嬢の心は、すでに昨日の召還劇を遥か後方に追いやり、新たな苛立ちへと傾きつつあった。


「また王都……だけど、あんなバカの顔を見なくて済む道中ぐらいは静かに過ごしたいものですわ」

ティナは小声で呟き、唇を引き結ぶ。追放者としての屈辱や召還への絶望より、今は単純な“面倒くささ”が先立っていた。馬車を曳く馬の蹄音がリズムを刻み、周囲の警護隊が睨みを利かせる中、突然、路傍の茂みが大きく揺れた。


「――な、何かしら、あれ?」

ティナは窓越しに視線を走らせ、険しい顔で茂みの影を探した。護衛騎士の一人が剣を抜き、警戒の構えをとる。


「公爵令嬢、茂みの向こうに……?」

騎士長が声を潜めて囁く。木々の陰から現れたのは、漆黒の鱗に覆われた巨体――ドラゴンであった。燃え立つような赤い瞳が、車列をじっと見つめている。


「ドラゴンって、絶滅危惧種じゃありませんの?」

ティナは呆れたように笑い声を漏らし、窓を開けた。凍える風が髪を乱し、戦闘モードにはほど遠い態度だ。


騎士たちは慌てて構え直す。刃先をドラゴンへ向け、矢筒の中から鋭い矢を次々と抜こうとしたが、ドラゴンの巨躯は微動だにせず、ゆっくりと低い咆哮を響かせるだけだ。その音は地面を揺らし、馬車を震わせる。


「絶滅の危機は、私たちの方かもしれませんわね」

ティナは肩をすくめた後、馬車から身を乗り出し、大剣の柄を取り出した。銀彩の大剣は昨夜の戦火でも曇ることなく、夜露を弾くように青白い輝きを放っている。


「――ちょうど良い腹いせですわ!」

令嬢は高らかに宣言すると、大剣を片手で抜き放した。ドレスの裾が風を切り、馬車から颯爽(さっそう)と降り立つその姿は、まさに凶暴な淑女であった。


護衛騎士は一瞬叫んだが、令嬢の鉈(なた)のような動きに呼吸を忘れる。ティナは大剣を大きく振りかぶり、凍える野道の空気を切り裂きながら踏み込んだ。槍を構える騎士たちが盾を掲げる中、令嬢は一閃――


「せいっ!」


刹那、銀の刃がドラゴンの喉元を真っ二つに切り裂いた。斬撃の衝撃波が野道の枯葉を巻き上げ、轟音とともに巨体は尻餅をついて横たわる。血の海が暗紅に染まり、太い尾が痙攣(けいれん)したのち、微かな呼吸すら止まった。


「……で?」

ティナは呆れたように振り返り、息を弾ませる騎士たちへ両手を腰に当てた。


「あと二、三匹いないかしら?」

令嬢は無邪気な声で続け、鹿の角のようなドラゴンの角をくすぐった。騎士たちは驚愕(きょうがく)の面持ちで声を失い、馬も蹄を踏み鳴らしながら後ずさりした。


「本当に、いらっしゃいませんか?」

ティナはドレスの裾を翻しつつ野道を見回す。雪化粧の森の向こうに、夜明け前の星明かりだけがきらきらと瞬いている。


「まさか空を飛んで来る魔王軍じゃあるまいし……」

ティナは軽口を叩きながら大剣の刃先を拭い、ひらりと大剣を鞘へ納めた。その動作は、まるで狩り上げた獲物を家の火鉢にくべるように優雅である。


騎士たちは再び馬車へと駆け戻り、冷え切った身体を震わせながら護衛位置へ戻る。令嬢の一振りで大勢の敵を討ち果たした事実に、誰もがただただ茫然としていた。


ティナは馬車へゆっくりと歩み寄り、振り返って軽く手を挙げる。

「では、そろそろ王都へ戻りましょうか。せめて空中の魔族軍では、このわたくしがお相手しますわ」


その言葉には微塵も恐れがなく、むしろ好奇心と期待が混じっている。馬車の御者は目を白黒させながら鞭を軽く振り、馬に出発を促した。


――腹いせのドラゴン退治は、令嬢の剣技を改めて世に知らしめたと同時に、馬車は再び王都への帰路へと進み出すのであった。


第7章-3 王都到着――氷雨に霞む宮門の影


馬車は幹線道路から徐々に分岐し、王都の城壁を取り巻く外郭街道へと入った。雪混じりの氷雨がちらつき、車輪と馬蹄の軋む音が石畳を洗うように響く。ティナ・ロッテリア公爵令嬢は窓越しに見える高い城壁を見上げ、重苦しい胸の内をぼんやりと見つめた。灰色に霞む空間に、かつて追放された忌まわしい記憶がひび割れたように蘇る。


「……王都か」


吐息とともに呟いた声は、外套のフードに掻き消される。護衛の侯爵家騎士たちは馬車の両脇を固め、赤い外套を翻しながら視線を鋭く巡らせる。令嬢は手許に抱えた護符と短剣をそっと確かめ、わずかな緊張を隠しつつ、氷雨に濡れた頬をそっと拭った。


やがて馬車は城門前の車寄せへ到着し、巨大な鉄の門がギギギと音を立てて開かれた。かつて見慣れたはずのこの風景だが、今は冷たい緊張が優雅さを拭い去っている。門番の衛士たちが一礼し、大理石の車寄せに誘導する。石畳は凍てつき、長靴の爪先にわずかに氷片が張りついた。


「公爵令嬢、ここからは王府の警護隊が引き継ぎます」

侯爵家騎士長が低く囁き、馬車の扉をそっと開けた。外套の裾から覗く金刺繍の双剣紋が、王都の錆びた石壁に映えて淡い輝きを放つ。


令嬢は侯爵と軽く目礼を交わすと、馬車の階段を一歩一歩上がった。冷えた空気が頬を刺し、細いスカートの裾が氷雨で重く濡れている。侍女たちが物音を立てないよう背後から支え、二人がかりで大外套を整えた。


「深々と一礼を」

侯爵家騎士長の声は厳かだ。令嬢は足元を確かめ、胸元で紋章を抱きしめるように一礼した。


城門を抜けると、門前広場には王都警護隊の重装騎士が列を成し、長槍を天に突き立てて整列している。凍える雨の中、彼らの甲冑は鈍い銀灰色に曇り、いっそうの威容を湛えていた。令嬢はその列をくぐり抜け、石畳に刻まれた古代の紋章を踏みしめながら、中枢へ誘導される。


遠く、天鵞絨(ビロード)のような黒い幕が垂れ下がる巨大な門廊──王府の大扉が見えた。その向こうには、栄華の宮廷と冷酷な政局が待ち受けている。令嬢は深呼吸を一つして、周囲の華やかな装いの貴族たちをかき分けるように足を進めた。豪奢な外套や羽毛の帽子、煌めく宝石が飾られたローブの群れの中で、彼女の灰褐色の外套はひときわ異彩を放つ。


宮廷侍従が一人寄り添い、「公爵令嬢、こちらへ」と耳元で囁く。令嬢は頷き、重厚な扉へと向かう。扉には王家の紋章である双頭の鷲が鋳造され、その翼先端は金箔で縁取られている。侍従が両手で扉を押し開けると、豪奢な大理石のホールが視界に広がった。


大ホールの天井は高く、ステンドグラス越しに朝陽が差し込み、鮮やかな彩色を床に映し出す。両脇の列柱には王家の歴代国王の肖像画が飾られ、その威圧感に令嬢は一瞬身を引いた。だが護衛の騎士たちが背後を固め、侍女たちが人目を避けるように横へ誘ってくれたおかげで、一陣の冷たい緊張を乗り越えられた。


やがて列柱の彼方、高き玉座の台座が視界に入る。国王シャルル・ド・プティニエールと、その横に並ぶ王太子ガンフィールドの姿が、天鵞絨の玉座から令嬢を見下ろしていた。令嬢は足を止め、再び深く一礼した。その姿勢は追放者の屈辱ではなく、恩賞を受ける戦士の凛々しさを漂わせていた。


国王と王太子は無言で令嬢を眺め、議場の重々しい静寂が続く。しばしの沈黙の後、王太子がゆっくりと口を開いた。


「ロッテリア公爵令嬢ティナ殿、貴殿の勇名は帝域に轟き、その剣技は魔族を震え上がらせたと聞く。まずは、この場を以て我が国の最高勲章を贈呈しよう」


令嬢は絞り出すように礼をし、胸の内に去来する複雑な思いを抑えた。王都の大気は、追放された日の灰よりも冷たく重かったが、その中でこそ新たな挑戦と再起が始まる。氷雨に霞む王都の朝は、凍える視線と心の奥に新たな火をともすための序曲だった。


第7章-4 凱旋の影――栄光の裏に潜む孤影


王都プティニエールの大理石の舞踏広間では、すでに宴の準備が整いつつあった。天鵞絨(ビロード)の深紅の絨毯が玉座から大扉まで延々と敷かれ、窓際には銀製の燭台が煌く。四季を問わず温かな室内には、午餐(ランチ)用の果実やビスケット、上質な紅茶が高梁酒とともにずらりと並んでいる。


ティナ・ロッテリア公爵令嬢は、玉座の前で国王陛下から最高勲章白銀の月華章の佩用を許され、双肩にかけられたリボンの輝きが顔を照らしていた。同時に、王太子ガンフィールドからは銀糸で縫い込まれた金襴(きんらん)の束帯(そくたい)が贈呈される。数多の貴族や騎士たちが整列し、深い祝福の拍手を送る中、令嬢は静かに頭を下げ、目を伏せてその祝意を受け止めた。


「ロッテリア公爵令嬢、その剣技と魔法の才は、我が帝国の誇りである」

国王シャルルは穏やかに声をかけ、令嬢の肩へ祝福の手を置いた。その手のひらは温かく、しかしその重みは一国の存亡を託すほど重厚だった。


令嬢は一瞬だけ視線を上げ、陛下の瞳と交わした。そこには、追放された過去を許し、今は同盟と信頼を誓う強い覚悟が映っていた。ティナは深々と一礼し、ゆるやかな声で答える。


「このような栄誉を賜り、身に余る光栄です。必ずや領地と帝国の安寧を守る所存にございます」


甲高い拍手が再び広間を包む。暖かな陽光がステンドグラス越しに放たれ、銀糸の束帯や勲章がまるで月光に照らされたかのようにきらめいた。


――宴は続いた。宮廷音楽隊が優雅に弦楽を奏で、貴族たちは杯を傾けながら令嬢の武勲を讃えた。令嬢自身も一口ずつ用意された香り高い紅茶を啜り、折々には薄紅色の頬で微笑を返す。しかし、その瞳はどこか遠くを見つめ、華やかな宴の喧噪から一歩引いているようだった。


宴が最高潮に達したとき、王太子ガンフィールドが令嬢の腕を取り、軽く踵を返して静かな廊下へ誘った。廊下の壁には歴代国王の肖像画が並び、その中には令嬢の幻のように幼い頃の肖像もあった。王太子は封を開けたばかりの書簡をそっと渡し、囁くように告げた。


「こちらは国王陛下からの書簡です。近日中に議会への出席が求められています」

令嬢は書簡に目を通し、軽くため息をついた。


「また、新たな御命令ですか……」

ティナの声には、祝賀の余韻と同じくらいの重苦しさが混ざっていた。


廊下を抜け、静かな中庭へ出ると、冷たい夜気が頬を刺す。星々が銀灰色の空に零れ落ち、王都最大の広場からは宮廷楽器の遠い音色がかすかに聞こえていた。令嬢は短剣を握りしめ、護符を胸元に確かめる。


(また戻るのね、この世界へ……)


心の奥で呟きつつも、一歩ずつ深い石段を降りていく。背後には王都の灯が延々と続き、何百もの窓から漏れる光は、まるで星辰(せいしん)が大地に降り注いだかのように煌めいている。


宮門を抜けたところで、侯爵の親衛騎士長と侍女が待ち受けていた。令嬢は再び深く礼をし、馬車へと誘導される。馬車は石畳の宮門をゆるやかに進み、王都の華やかな街並みへと滑り出した。護衛騎士たちが再び配置について警護を固める中、令嬢は手元の護符をそっとつまみ、窓外の光景を見詰めた。


雪混じりの路傍に立つ市井の人々が、旅の行商人や街灯を掲げた市兵たちと交差し、その隙間から令嬢の外套姿にひそやかな祝意を送る。ティナは小さく笑みを浮かべながらも、胸の奥に冷たい戦慄を抱えていた。


(これが――栄光の帰還なら、代償はあまりにも高すぎるわ)


馬車の車輪は轟音を立てて次の交差点へと進み、王都の深奥へと誘う。胸の中で燻る不協和音を握りしめつつ、令嬢は石畳の軋みに身を委ねた。この凱旋は、真の勝利ではなく、さらなる試練の序章に過ぎない――と。





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