第6章-1 皇都からの聖旨――淡霧の黄昏に響く馬蹄
朝靄が淡く庭園を包み込み、ローズマリーやラベンダーの葉先に夜露がきらきらと揺れる刻、ティナ・ロッテリアは離れ屋敷の窓辺で紅茶を啜っていた。昨夜の戦火を思い返しながらも、焼け焦げた屋根瓦を補修すべき瓦片を手に取り、修理の算段を反芻していた。静寂を取り戻すのはひと仕事ある。そんな思いがゆらゆらと揺れる紅茶の湯気と溶け合う。
そこへ、唐突に深い馬蹄の轟が小径を駆け下りてきた。霧の向こうから銀鎧を纏う騎士数騎が現れ、先頭の一騎が鞄のような革筒を抱えて礼を尽くして止まる。肩で荒い呼吸を整えたその騎士は、侯爵邸直属の伝令兵であった。
「ロッテリア公爵令嬢、御機嫌麗しゅうございます。国王陛下より、御下命の書簡を奉じ参りました」
言い終えると革筒の蓋を外し、中から厚手の羊皮紙を取り出した。三つの金箔印が並ぶ封緘(ふうかん)は、王冠と双頭の鷲を象った重厚なもので、王都の威信がにじみ出ている。騎士は深く頭を下げたまま礼を繰り返す。
ティナは一瞬手を止め、紅茶のカップをテーブルへ戻した。紅茶の香りが残る部屋の空気が、一瞬にして引き締まるのを感じる。指先が震えながらも、令嬢は羊皮紙を受け取り、小さく礼をした。
「わかりました。開封して拝読いたします」
羊皮紙を丁寧に開くと、そこには整然とした筆跡で以下のように綴られていた。
皇都・プティニエール城塞より聖旨(せいし)を下す
ロッテリア公爵令嬢ティナ・ロッテリア殿
貴殿は最近、魔族軍の侵攻を見事に撃退し、辺境伯領の安全を回復せしめられた功績、誠に賞賛に値する。従って、直ちに皇都へ召喚し、国王陛下ならびに王太子殿下へ拝謁(はいえつ)を賜り、勲功の一部を賞与せられたし。
なお、召喚に際し異議なく従われることをここに聖旨とす。
二〇二五年五月一日
国王シャルル・ド・プティニエール
紙面を見つめながら、ティナの瞳には驚きと戸惑いが交錯した。王都への召喚――追放者であった身であるにもかかわらず、異例とも言える勲功によって帝都へ呼び戻される。彼女は心中でため息をついた。
(召還ですか……わたくしも?)
荒れた呼吸が胸の奥でざわめき、彼女は視線を遠くの庭へ向けた。耕作放棄地のように静かだった庭も、今では再び人の声を求めている。しばらくは瓦を積み上げ、ハーブを手入れし、猫と紅茶と読書という“隠居生活”を満喫するつもりだった。だが国王の聖旨は、そのすべてを断ち切るように彼女の前に立ちはだかった。
令嬢は軽く吐息をつくと、書簡をそっと折り畳み、革筒へ戻した。伝令兵は黙して待つ。ティナは深く礼をしてから、騎士に言った。
「国王陛下の御下命、承りました。すぐに準備を整え、王都へ向かいます」
伝令兵は一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、再び深く礼をした。馬蹄音は静寂の庭に再び戻り、令嬢と侯爵邸の侍女たちだけが、その場に残された。
ティナはふと視線を庭のハーブ畑に戻した。焦げ跡の瓦片が朝露を宿し、小さな光を反射している。彼女は呟いた。
(戦火と静寂を往復するこの身。次なる試練は――王都か)
曇った瞳の奥に、静かな決意が宿る。朝霧が晴れゆくその先に、令嬢は再び帝都の大広間へと足を踏み出すしかない。第六の章は、ここ――淡霧の朝に刻まれた聖旨とともに幕を開けるのだった。
第6章-2 絶望の拒絶――召還に抗う令嬢
朝陽が城塞の石壁を淡く照らす頃、ティナ・ロッテリアは侯爵邸の応接間で紅茶を啜っていた。昨夜の戦火の余韻を引きずる庭から運ばれてきた冷気が、まだドレスの裾を冷たく撫でる。そんな折に届けられた国王陛下の聖旨――「直ちに皇都へ召還せよ」という重厚な命令書が、まるで鎖の如く令嬢の自由を縛りつけた。
羊皮紙を手にしたまま、ティナは震える声で問いかける。
「……召還、ですか……? わたくしも――?」
言葉の後半は掠れ、まるで自分自身にすら信じられない事態を呟くようだった。震える指先が紙を握りしめる。辺境の小さな離れ屋敷で静寂と紅茶と猫に包まれていたはずの令嬢は、いつの間にか再び王都の大地へ引き戻される運命に突き落とされている。
侯爵が静かに立ち上がり、深い溜息をつく。
「陛下の御下命に異議は申せぬ。故に、召還には従わねばならぬ」
その声音に、ティナの胸に怒りと絶望が同時に沸き起こる。馬蹄を響かせた戦場の喧騒が遠く霞む中、令嬢はつい苛立ちを露わにした。
「もう――もう、わたくしの顔など見たくないと、あの王子がおっしゃったではありませんか! 二度と宮殿へ戻るなと追放された身です! それなのにまた、召還ですか? わたくしも……?!」
ティナは完全に声を荒らげ、テーブルの銀製トレーさえ震わせた。侯爵の表情は一瞬、痛みを帯びる。しかし理を説くように、侯爵は静かに制した。
「追放の詔(みことのり)は王太子殿下によるもの、今回の召還は国王陛下の御下命だ。父と子の意志は別だ。国の存亡を前に、臣は王の命を優先せねばならぬ」
令嬢は思わず肩をすくめ、冷たい笑みを浮かべる。
「国の存亡……なんて大層な言葉。でも、わたくしはただ、静かな生活を望んだだけ。王子の顔を二度と見ずに済むと――それだけで十分だったのに」
言葉の端に滲む哀惜を、侯爵は見逃さない。だが裁定は変わらず、伝令兵もまた厳粛に任務を遂行しようとしていた。
「令嬢、異を唱えるなら申せ。しかし聖旨は絶対だ。私には、これを翻す力はない」
その強い眼差しに、令嬢は視線を伏せた。そして、杖のように握る大剣の柄をぎゅっと締めつけ、胸中で激しい葛藤を繰り広げる。
(終わり……また、あの宮殿の檻へ戻らねばならぬの? )
思考が暗い淵に沈みかけたとき、使者の一人がそっと口を開いた。
「失礼ながら、既に国王にはティナ公爵令嬢が生存し、辺境伯領で功績を挙げた旨が報告済みでございます。『死んだことにしてほしい』という御意志も……届いておりません」
その報告は鋭い矢のように令嬢の心を射抜いた。ほんの短い間でも、「戦死」という偽装をすれば、二度と王都へ戻る必要はないかと皮算用した自分の浅はかさを恥じた。沈黙が重く部屋を支配する。
侯爵は黙してティナを見つめ、やがて静かに頷いた。
「……ならば、従うほかあるまい。王都への帰還は避けられぬ。しかし、必ずや静寂を取り戻し、貴女の望む生活を再構築してみせる」
絶望の中にもわずかな光を探すように、侯爵の言葉は令嬢へ届く。ティナは深く息を吐き、最後の抵抗を飲み込むようにうなずいた。
「わかりました……仕方ありませんわ。聖旨には従います」
その声は乾ききっていたが、確かに次章への決意を含んでいる。令嬢は震える手で封緘を握りしめ、侯爵と共に王都への長い帰途へと足を踏み出したのだった。
第6章-3 戦死偽装の策と挫折――闇夜に誓う逃避と現実の壁
侯爵邸の書斎で、ティナ・ロッテリアは深々と椅子にもたれかかり、灰色の瞳を揺らしていた。国王の召還に背くことはできず、追放者としての屈辱と、再び王都へ戻らねばならない絶望が胸中でうずまいている。
「――いっそ、戦死したことにしましょう!」
彼女は唐突に立ち上がり、書棚から重厚な写本を片手で叩きながら叫んだ。震える声には、本気と嘲りが混じる。侯爵ヴォルフガングは驚きの色を隠せず、ティナの肩をそっと掴んで制した。
「戦死偽装とは……無茶な考えだ。それに、国王陛下に嘘を届ければ、国際的にも内乱につながりかねぬ」
侯爵の低い声には、令嬢の苦悩を思いやる優しさが滲んでいた。それでもティナは俯いたまま首を振り続ける。
「それでも……戦死しさえしていれば、二度と王都へ戻る必要はありませんわ! わたくしは、自由を奪われたくないだけ――」
彼女の声は切羽詰まっていた。侯爵は視線を外し、重い呼吸を数秒間だけ吐き出した。そしてやわらかな手つきで紅茶のティーカップを差し出した。
「まずは落ち着け。紅茶でも飲んでから考え直そう」
侯爵の言葉を受け、ティナは震える指でカップを受け取り、一口含んだ。ベルガモットの香りが胸を和らげ、血の気を少し取り戻させる。
そのとき、扉がノックもなく開き、先ほどの伝令兵が靴音も忍ばせずに駆け込んできた。彼の革筒は再び息を切らし、顔には申し訳なさげな焦燥が浮かぶ。
「失礼いたします、侯爵閣下。先ほどの報告に補足がございます」
令嬢を見る伝令の瞳には、厳粛な使命感が宿っている。ティナは紅茶のカップを持つ手を止め、冷たい視線を送り返した。
「何か問題でも?」
侯爵が声をかけると、伝令兵は深く頭を下げ、一枚の羊皮紙を差し出した。
「国王陛下には既に、ティナ公爵令嬢が辺境伯領で魔族軍を撃退し、生存している旨が報告済みでございます。『戦死したことにしてほしい』との御意志も、既に王府へは届いておりませんでした」
その一言は、火矢のように令嬢の胸を撃ち抜いた。紅茶の熱は一瞬で冷たく引いていき、頬を伝う唇の震えが隠しきれない。ティナはカップを音もなく置き、しばらく床を見つめたまま動けなくなる。
侯爵は伝令兵に礼を言い、扉の外へ促すと、再び令嬢へ向き直った。
「つまり、貴女の死を偽装する余地は、もはやないということだ」
ティナは苦々しく唇を噛み締め、ゆっくりと顔を上げた。青白い朝の光が窓辺から差し込み、令嬢の瞳に静かに映る。彼女は小さく息を吸い込んで、懸命に感情を押し殺す。
「……そうですわね」
微かな声には、敗北と深い悲嘆がにじんでいた。戦死を偽装する幻想は、王府の情報網の前にあっという間に潰えた。
侯爵は静かに頷き、テーブルの上へ手を置いた。
「これで、すべての選択肢は尽きた。王都への帰還は避けられない。だが、それを終わりとする必要はない。貴女が望む“静寂”を取り戻す方法は、まだあるはずだ」
その言葉は、深い谷底に落ちた令嬢への切なる呼びかけであった。ティナは涙でかすれた瞳を閉じ、一瞬だけ侯爵の肩に寄りかかった。
(終わりではない。まだ、静寂を取り戻す方法を探すのだ……)
その決意の残響が、侯爵邸の静謐な書斎に小さく波紋を広げた。
第6章-4 終焉の嘆きと帰途への出立――凍える瞳に託す未来
黎明の淡い光が王都へ通じる小径を照らす頃、ティナ・ロッテリアは重い毛布に肩を包まれ、侯爵邸の門前に駆けつけた侍女たちを静かに見送っていた。昨夜まで焼け焦げた屋根瓦と戦火の残骸に囲まれていた身にとって、この厩舎に続く石畳はまるで別世界のようである。侯爵邸の大扉をくぐった瞬間、椅子に腰かけていた侯爵と侯爵夫人グレイスが、揃って深い礼を捧げた。
侯爵ヴォルフガングは、柔らかな微笑を湛えながらも憂いを帯びた目でティナを見つめる。グレイス夫人は端正な手つきでティナの外套を整え、侯爵は書斎から特製の小箱を取り出した。そこには、皇都へ向かう令嬢のための護符と、侯爵家伝来の護身用短剣が納められている。
「ロッテリア公爵令嬢、この護身具は……どうかご笑納を」
侯爵はそっと短剣を差し出す。その刃には侯爵家の紋章――双頭の鷲が小さく刻まれていた。
ティナは重い息をつき、震える指で短剣の柄に触れた。剣身の冷たさが、思わず熱い涙を誘う。
「侯爵様……」
「遠慮は無用だ。あなたが安らかな道を歩めるよう、我が家としてできる限りのことをしたい」
侯爵の声には揺るぎない誠意が込められている。しかし、ティナの瞳にはすでに深い諦念が宿っていた。
馬車へ向かう小径の両脇では、侯爵家の親衛騎士たちが盾を構え、王都への護衛の準備を進める。その背後には、侯爵領地を見守ってきた古い二頭立ての黒馬が静かに蹄跡を刻んでいた。ティナは短剣を胸元で抱え、大扉へとゆっくり歩みを進める。
馬車の側には、侯爵の侍女が敷き屋根を取り外し、柔らかな毛布を車内に敷き詰めている。紅茶の湯気がまだ残る銀のトレーや、小さな夜食の籠も整えられ、出発の間際に至るまで、侯爵邸の者たちは一切の手を抜かない。その手際の良さが、令嬢への深い哀惜と優しさを物語っていた。
ティナは馬車の扉を開き、重い毛布にくるまれながらそっと身を横たえた。煤(すす)まみれのドレスはもう見えず、ただ侯爵夫人が持たせてくれた暖炉用の大衣が両肩を包む。侯爵が短剣を手渡し、しばしその柄に掌をかけるよう促す。
「どうか、万全の備えで」
侯爵の声は囁きに近く、しかしその響きは夜気の冷たさを溶かすほど暖かい。ティナは短剣を握り、軽く頷いた。
車輪が回転し始める。軒先の瓦片を散らしながら、馬車は重い軋みを上げて馬場を進む。身を横たえたまま窓外を見下ろすと、侯爵邸の石造りの城壁が徐々に遠ざかり、門前に残る侯爵と侯爵夫人のシルエットが小さくなる。
「この世は、終わりましたわ……」
ティナは呟き、静かに瞳を閉じた。その言葉は絶望の宣言であり、しかしまた「新たな終わりから始まる、静寂への旅立ち」をも意味していた。
馬車の車輪は凍てつく朝露に冷えながらも、やがて辺境伯領を離れる国境街道へと踏み出す。護衛の騎士たちは御者席の両脇へ、羽布団のような毛布に丹念に包まれたティナを守るべく並走し、その盾と剣は王都までの道中を隙なく見張る。
遠ざかる侯爵邸の影を背に、ティナは深い眠りへと落ちないまま、この世の終焉を胸に刻み込む。馬車が轟音とともに石畳を滑るたび、護符と短剣が揺れ、小さな金属音を奏でる。
「行かねばならぬ……だが、必ず戻る」
哀切な誓いを胸に、令嬢は薄氷のように冷え切った朝気の中、王都への長い帰路へと身をゆだねた。その黒い車輪は、刻の音を残しながら凍土を刻み、やがて新たな試練の幕開けとして、大地を揺るがす序章を奏で始めたのである。