第5章-1 焼け焦げた朝――静寂のお城の傷跡
朝の薄明が辺境伯邸の離れ屋敷を淡く照らす頃、ティナ・ロッテリアは馬車の扉をそっと開けて静かに降り立った。昨夜、魔族軍の残党を蹴散らしたあと戻るはずだった「静寂の城」は──屋根の一角をのぞき見ただけで、その光景が一瞬で胸を締めつけた。
瓦葺きの屋根は全体の大部分が無事だった。しかし東側の軒先にあたる数メートルが、まるで墨を流したかのように黒く焼け焦げ、一部の瓦は煽られて変形し、隙間から木組みの梁が顔をのぞかせている。熱に浮かされた瓦はごうりごうりと歪み、まだ煙を吐きながら沈黙する。朝露を含んだ周囲の草が、その黒ずんだ軒先だけを際立たせ、まるで「戦火の爪痕」を誇示しているかのようだった。
「……これは」
ティナは言葉を失い、その場に立ち尽くした。冬の澄んだ空気が彼女の頬を冷たく撫で、胸の奥でかすかに残る動悸を掻き消そうとする。だが視線を屋根から離せず、彼女は瓦片を一枚、手のひらへそっと載せた。表面はすでに熱を帯びて冷めきらず、指先にじんわりとした熱痛を残す。
「こんなに焼け焦げるなんて……」
遠くで小屋を守る番兵が馬蹄を響かせて寄ってくる中、ティナは瓦片をそっと地面へ戻し、応接間へ続く小径をゆっくりと進んだ。その小径の脇には、昨夜まで鮮やかな緑を茂らせていたハーブのプランターが並んでいたが、火の粉が散った隅だけは土が黒く焼け、葉先がすっかり焦げている。カモミールもローズマリーも、小さな芽を残すだけで、かつての瑞々しさは微塵も見当たらない。
応接間の扉を開くと、木枠には煤(すす)が細く筋を描き、当夜の火の粉が欄間に黒い点を残していた。しかし室内は思いのほか無傷で、棚に並ぶ白磁のティーカップや銀色のティースプーン、書籍の革表紙は一切熱に晒されずに安置されている。ティナはほっと胸をなでおろし、椅子の背を撫でた。そこには昨夜、暖かい紅茶と読書で命の安らぎを得た記憶が確かに残っていた。
「住むことは……決して不可能ではないわね」
吐息のような独り言を零し、ティナは内装に被害が及ばなかったことに感謝する。焦げ跡の上からでも、瓦を積み直し、屋根裏を補強すれば、この家は再び「静寂の城」として蘇るだろう。だがそれを行う前に、今の冷気と不安から身を守る方法をまず考えなくてはならない。
小窓から外を見ると、青空には雲一つなく、東の稜線の向こうでは太陽がゆっくりと顔をのぞかせている。軒先の隙間からこぼれ落ちた瓦片が白い朝露を抱き、その上に小さな虹色の光を宿していた。ティナは瓦片を再び手に取り、朝陽を受けたその輝きに目を細める。
「この瓦さえ補修できれば、屋根は元に戻せる。石壁も棚も被害を免れたのだから」
微かな笑みを浮かべつつ瓦片を地面へ戻し、ティナは決意を新たにした。この静寂は、一度破られたとしても、必ず取り戻してみせる。まずは瓦を積み直し、次に梁を補強し、最後に温室の透明板を張り替える――その計画を胸の中で紡ぎながら、令嬢は馬車の元へと戻っていった。
第5章-2 侯爵駆けつけ――救援と招待の約束
(約2,200文字)
朝の光が薄く屋敷の廊下を濡らすころ、黒煙の残り香を鼻へ含みながらティナ・ロッテリアは焼け焦げた軒先を見上げていた。瓦屋根の一角が炭化し、木組みが黒ずんでいるものの、石造りの外壁はほとんど無傷のままだ。瓦片だけが痛々しく散乱し、朝露に濡れる草むらの緑が、逆にその痛手を際立たせている。
「これでは、住むことはかなわないでしょう……」
背後から響いた深い声に振り返ると、侯爵ヴォルフガング・ロイエンタールが馬上から飛び降りていた。侯爵の黒馬はまだ汗を滴らせ、尻尾を揺らしながら息を吐いている。侯爵自身は脇息に手を置くと瓦の焦げ跡を淡々と視察し、令嬢へ歩み寄った。
「ロッテリア公爵令嬢、被害は軒先の一部のみのようだ。石壁や内装は無事のようだが、雨や夜の冷えには心許ない。住むには──」
侯爵は言葉を切り、瓦片を手に取る。表面はまだ熱を秘め、指先に軽い熱痛を伝えた。令嬢は馬車道脇の草むらへ足を一歩踏み入れ、冷えた地面に視線を落とす。
「住むことは……決してかなわないわけではありませんが、夜風が冷たく凍えるでしょうね」
ティナは瓦の焦げ跡を指で撫でながら、澄んだ空を見上げた。軒先の隙間からは青空が顔を覗かせ、星の名残がまだ淡く輝いている。
「ふむ……その星空も、今夜までのものだろうな」
侯爵は柔らかく呟き、令嬢の言葉に続けた。
「せめて瓦の補修が済むまでの間、我が侯爵邸にご滞在ください。暖炉も客間も、夜食も紅茶も、すべて手配いたします」
侯爵は毅然と外套を取り出し、令嬢へ差し出す。その外套は侯爵家の双頭鷲の紋章が金糸で煌めき、重厚な黒絹が朝の光を柔らかく遮っている。
令嬢は驚きのまま外套を受け取り、そっと肩へ掛けた。煤(すす)まみれのドレスに否応なく寄り添う暖かさに、思わず小さく息を吸い込む。
「よろしいのですか?」
ティナは震える声で問いかけた。
侯爵は深く頷いた。
「もちろんだ。あなたは我が領の恩人。遠慮は無用だ」
その言葉は、焦土に立つ令嬢への確かな誠意として胸を揺さぶった。周囲では侯爵の番兵が瓦片を片づけ、修繕の下見に向かう者、屋敷へ続く小道に夜間照明を設置する者が慌ただしく動き回っている。
令嬢は外套の裾を胸元へ引き寄せ、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。実は、ちょっと寒そうだなと思っておりましたの……」
ティナは素直に告白し、侯爵の真摯な眼差しを受け止めた。侯爵は帷子(かたびら)の裾を整え、隣で手配の指示を続ける。
「では馬車を整え次第、侯爵邸へ。グレイス夫人が温かな夜食と、書斎の暖炉前での休息を用意してくれるはずだ」
侍女たちが紅茶セットと毛布を抱えて近づき、令嬢を優しく馬車へと導いていく。侯爵は一瞬、令嬢の視線を受け止めたのち、低く言葉を添えた。
「安心して休まれよ。静寂は奪われても、その復活は我らが誓おう」
灯火が揺れる侯爵邸への坂道を、一行は馬車でゆっくりと登っていった。瓦葺きの傷は再建への序章。今宵の静寂は侯爵邸の暖炉の火が守り、明日の修理が再生の礎となるだろう。
第5章-3 遠慮と甘え――凍える令嬢の素直
侯爵邸の錆びた鉄門が背後で静かに閉じられると、ティナ・ロッテリアは深い石敷きの車寄せに一歩を踏み出した。馬車の扉を開けた侯爵の黒鎧騎士が手早く外套を受け取り、侍女たちが淑女用の小袋や毛布を手渡す。冷えた大気に混じる暖炉の煙の匂いが、荒涼の離れ屋敷とは打って変わって甘く優しかった。
「こちらへどうぞ」
侯爵は柔らかな声で令嬢の手を誘い、石造りの回廊へ導いた。回廊の壁には侯爵家の紋章が刻まれたタペストリーがかかり、足元には深紅のカーペットが敷き詰められている。窓の外では黎明の薄青い光が庭園を薄氷のように浮かび上がらせていた。
「客間はこの先です」
侯爵が扉を押し開けると、温かな暖炉のある書斎が姿を現す。壁一面の書棚と大きなデスクには、夜食と紅茶の準備が整っていた。絨毯の上には吟味された羊毛の毛布が二枚、折り畳まれて置かれている。
ティナは足音を忍ばせながら室内へ入り、たおやかな立ち居振る舞いで毛布の一枚を受け取った。肩に掛けると、重みのある織地が背筋をそっと撫で、冷え切った心と身体を優しく包んだ。
「……こんなにも温かいなんて」
ティナは呟き、手すり代わりの書架へそっと寄りかかる。紅茶の湯気がカップの縁で揺れ、香り高いベルガモットの香りが窓から差し込む曙の光と溶け合った。
侯爵は書斎の片隅に腰掛け、じっと令嬢を見守る。隣には侯爵夫人が優雅にお茶と焼菓子を運んできた。その姿はまさに、この邸を護る慈母のようである。
「お召し上がりくださいませ」
侯爵夫人の柔らかな声音に促されて、ティナは席へと腰を下ろした。淡い金色の焼菓子を口に運ぶと、バターと蜂蜜の甘みが舌先から胸奥までゆっくりと広がる。
「美味しい……」
思わず目を潤ませ、ティナは焼菓子をもう一口。侯爵が微笑み、深い頷きを返す。
「冷えは体力を奪います。お腹から温めてください」
その言葉を受け、ティナは大きく息を吸い込み、改めて毛布の裾を引き寄せた。
「実は、ちょっと寒そうだなと思っておりましたの……」
令嬢は俯きながら告げる。凍えた肌を僅かに震わせ、素直な言葉を零したその声には、これまで見せたことのない飾らぬ弱さが滲んでいた。
侯爵はすかさず立ち上がり、暖炉の前へ向かった。横長の石造りの炉床には既に熾火が揃い、侯爵は堆く積まれた薪を一握り放り込み、ぱちぱちと小気味よい火の粉を散らす。
「これで暖かくなるはずだ。どうぞご安心を」
暖炉の炎はみるみるうちに勢いを増し、書斎全体を柔らかな橙色で照らし始めた。ティナはそっと顔を上げ、揺れる火影を見つめる。
「……侯爵様、ありがとうございます」
令嬢は深々と礼をして、下一杯の紅茶を口へ運んだ。紅茶の熱が喉を穏やかに温め、冷えた全身がゆるやかにほどけていく。
侯爵夫人と侍女たちは微笑みながら書棚へ戻り、書斎は再び静謐な図書室の風情を取り戻した。ページを繰る音も、書庫の扉を閉める音も、すべてが心地よい調べとなり、ティナは深い安堵に包まれた。
「この邸での一夜が、何よりの静寂となりますわ」
ティナは毛布に包まれたまま囁き、暖炉の炎を愛おしげに見つめた。焦燥と不安に満ちたはずの朝は、遠い記憶のように曖昧になり、彼女はゆるやかな夢うつつへと身を沈めていった。
第5章-4 求婚と「錯覚」――静寂を揺さぶる一夜
侯爵邸の書斎で、暖炉の炎がゆらゆらと揺れるその光景は、まるで流れ星のように室内を淡く照らしていた。書棚の背には古今の叙事詩や魔法理論書がずらりと並び、深紅の絨毯は侯爵家の紋章を模した幾何学模様を惜しげもなく描いている。窓の外には、燃え残る夜空に無数の星が瞬き、寒さを忘れさせる幻想的な輝きを放っていた。
ティナ・ロッテリアは、侯爵邸に到着して以来初めて、羽根布団にもたれかかるソファで静かに目を閉じていた。外套に包まれたまま、心地よい暖炉の熱が背筋を温め、紅茶の残り香が頬をくすぐる。戦火と焦土から一転、まるで異世界に招かれたかのような安らぎが、彼女の体と魂をゆっくりとほどいていった。
そのとき――扉が静かに開かれ、侯爵ヴォルフガングが書類を携え、静謐(せいひつ)な足音を忍ばせて入室した。彼の紋章入りの書類は、今夜の戦況報告や城塞再建の項目が整然と記されている。だが侯爵の瞳は、それらの紙ではなく、ソファに身を横たえた令嬢の姿を真っ先に捉えていた。
「ロッテリア公爵令嬢」
侯爵は穏やかに呼びかけ、書類を小さなサイドテーブルへ置いた。ティナはゆっくりと目を開け、その深い藍色の瞳を侯爵へ向ける。
「はい、侯爵様」
静かに応じる令嬢に、侯爵は一歩、書斎の中心へ進み出た。溢れる尊敬と、一筋の逡巡(しゅんじゅん)がその表情に混じる。
「今夜は、貴女に心から感謝を申し上げたい。魔族軍の襲来を迎え撃ち、わが領を守り抜いたその剣技と勇気――」
侯爵は深く息をつき、剣の柄のようにしっかりした拳をわずかに握りしめた。「その功績に報いるため、そして何より、私自身の幸福を願うためにも、貴女と生涯を共にしたい」
――侯爵の胸の奥に秘められた願いが、真剣な祈りのように、夜気を震わせた。
ティナは一瞬、呼吸を忘れたかのように侯爵を見つめた。暖炉の橙色の灯りがその横顔を照らし、瞳の奥に浮かぶ切なさをやわらかに映し出す。
「……求婚、ですか?」
声はかすかに震え、揺れる暖炉の炎のように甘く響いた。令嬢には想像を超えた出来事だった。侯爵は微笑の片鱗を浮かべ、深く頷く。
「はい。貴女の意志を尊重しますが、私にとってこれ以上大切なものはありません。どうか、令嬢の心を受け止めさせてください」
静寂が書斎を包む中、ティナの胸の奥では嵐が巻き起こっていた。侯爵への感謝と敬愛、そしてこれから来るであろう二人の未来の温もり。しかし、それ以上に彼女には守るべき“静寂”と“自由”への鋭利な執着があった。
――沈黙のまま、ティナはゆっくりと身を起こし、両手を膝の上で重ねた。
「侯爵様……本当に、光栄なお申し出ですわ」
戸惑いと敬意を込めて言いながら、令嬢は一度深く頭を下げる。侯爵は息を呑み、喜びと期待を宿したまま、その頭をそっと上げさせた。
「ですが──」
令嬢はゆっくりと言葉を続ける。声は決して冷たくはないが、その響きには断固たる意思が宿っている。
「それは……錯覚ですわ」
侯爵は一瞬、目を見開いた。課題を突きつけられたかのように呼吸が止まり、静寂がさらに深まる。だがその直後、侯爵はかすかに苦笑いを浮かべ、爽やかに肩をすくめた。
「錯覚か……なるほど、貴女らしい軽妙な返しだ」
侯爵はくるりと背を向け、書棚から古びた地図をひとつ取り出した。それは、二人が初めて出会ったときに駐屯地へ向かう途中に眺めた辺境の地図だった。侯爵は地図を広げ、ゆっくりとティナの視界へ寄せる。
「では、この“錯覚”を現実に変える方法を、一緒に考えようではないか。貴女の静寂と自由を尊重しながら、共に歩む道を探すのだ」
令嬢は地図に寄りかかる侯爵の後ろ姿をじっと見つめ、やがて微笑んだ。その笑みは静かな誓いの花びらのように、夜の書斎へひそやかに舞い落ちた。
侯爵邸の暖炉が、再び二人の未来を照らし始める。
――静寂を抱きしめつつ、新たな絆を結ぶための第一歩が、今ここで刻まれたのである。