第4章-1 国境の警鐘――黒煙を告げる朝
淡い朝霧に包まれた白霧の丘の頂。そこに設けられた見張り台には、鋭い双眸の狩人のように騎士団の先遣隊が二名配備されていた。彼らが抱えた望遠鏡は、遥か彼方の城塞〈グレーヴェンワルト〉を映し出すためのものではない。今日、彼らの視線は――その先の、大地を割るように迫る黒い影を捉えるためにあった。
「東の稜線を見よ!」
「来るぞ、魔族軍だ!」
空はまだ薄い藍色をたたえ、朝陽は地平線から顔をのぞかせたばかりだというのに、遠方の森を越えた草原には不吉な黒煙が立ち上り始めている。その煙は最初、一本の細い糸のように見えたが、やがて数本に分かれて空へ高く昇り、重苦しい雲を生み出していた。
「報告しろ!」
見張り台の指揮官──ロイエンタール騎士団副長カール・フォン・シュトルツ卿が号令をかける。直ちに本隊への急報が発せられ、丘の麓にある領主直属の駐屯地へ伝令走者が走り出す。
駐屯地の門はまだ開かれておらず、農耕用の荷車が厩舎前に置かれていた。だが伝令は容赦しない。鋭い息を吐き出しながら、旗手が修羅場の色で彩られた領章の入った旗を高く掲げる。
「全騎士、緊急招集! 魔族軍、国境突破の兆候アリ! 速やかに城塞へ援軍を送れ!」
その声を合図に、城塞の鐘楼から非常破戒の鐘が一斉に打ち鳴らされる――深く、重く、地響きを伴うその音は〈今ここで身を守れ〉との厳命だった。
城壁の向こう、獅子門(ライオンゲート)の先には弓騎兵隊が配置され、薄い甲冑を纏った射手たちが矢羽を放り込みつつ、視線を遠方の黒煙へ注いでいる。彼らの肩越しに、最前線の騎士団本隊が蹄音を轟かせながら城塞へ駆け上がる姿が見えた。剣を帯びた騎士たちの甲高い声と、馬蹄が石畳を叩く音が、戦場の序曲を奏でる。
城塞中央の大広間には、ロイエンタール侯爵ヴォルフガング・ロイエンタールが家老たちとともに集結していた。壁にかけられた戦略図の上には、魔族軍の侵攻経路が赤く示され、そのルートは――まさに白霧の丘を越え、離れ屋敷の背後を通り抜けて王都へ至る線状だった。
「国境の警鐘を鳴らし、騎士団を二手に分けよ。主力は城塞防衛へ、速やかに救援を。残余は離れ屋敷を含む丘陵線の防護へ派遣せよ」
侯爵の低い命令が、飽和弾のように大広間を揺らす。集った家老は短く頷き、厳しい表情で準備を進めた。
その間にも、黒煙からは巨大な魔獣の咆哮が断続的に聞こえ、鉄甲の魔族兵がつぎつぎと森を突き抜けてくる。白霧の丘を越えた先に待ち受けるのは、古来から〈魔を隔つ砦〉と呼ばれた城塞だった。その城塞の守り手として、ロイエンタール騎士団は、今まさに最大の試練を迎えようとしている。
第4章-2 騎士団の苦戦と屋敷への脅威――城壁の崩壊と黒煙の波紋
城塞〈グレーヴェンワルト〉の獅子門を突破されたという報せは、まるで破水した堤防のようにあっという間に伝播し、騎士団本隊の心を凍りつかせた。
門を塞ぐべく構えた重盾の列は、魔獣の猛進に押し潰され、槍下を割って飛び込む黒甲の魔族兵が次々と鋭い刃を突き刺してきた。盾の裏側では仲間の悲鳴が連鎖し、重鎧の巨体が矢を突き破るたびに火花が散る。
「押されるぞ! 第二列も前進せよ!」
騎士団副長カール・フォン・シュトルツ卿は檄を飛ばすが、その声は炎と肉の焼ける臭気に掻き消されてしまう。矢羽が空を裂き、太い矢筒が何本も折られた弓兵は数を失い、ついには身をかがめて城内へ退却を開始した。
一方で、侯爵邸の離れ屋敷――ティナ令嬢が一時の静寂を享受していた隠れ家も、もはや安全とは言い難かった。大陸を吹き渡る魔王軍の先遣隊は、城塞の防壁を崩した勢いをそのまま丘陵の斜面へと広げ、烏帽子岩に隠された小径を駆け下りてくる。森の縁を抜けた黒装束の影が四つ、五つと離れを囲み、燻し銀の短剣を彼方に構えて静かに待機していた。
「離れ屋敷も危ない、全員退避を!」
城塞内部からか細い伝令走者が沙汰を持ち込む。重装騎士が小走りで屋敷へ駆けつけ、大剣を抜いて門前に構えた。だが盾を抱えた彼らの目の前には、黒煙を纏った魔獣の咆哮が土煙とともに迫り、眼前の石敷きを蹂躙せんと牙を剥いている。
侯爵家の番兵でさえ、敵影の猛威には顎を打たれた。彼らは急造の防壁で屋敷前を囲むも、魔獣の蹴りで木柵が一瞬にして粉砕され、内側の掩蔽(えんぺい)へ吹き飛ばされた。瓦礫の隙間から飛び散る火の粉が装束を焦がし、呼吸を苦しく締め付ける。
「魔術師を呼べ! 魔導防壁を!」
騎士団長が叫ぶも、侯爵邸の小さな錬金塔には常設の魔導師が滞在しておらず、急遽魔法陣を展開する時間はない。僅かに繰り出せるのは火矢と投擲用の聖印薬だけで、鉄の裂け目を塞ぐには到底足りない。
遥か向こう、城塞の壁上では若き魔導師が咒文(じゅもん)を唱え、蒼い結界を降ろそうと試みている。しかし魔族の数が余りに多く、結界の届く範囲は城門前の一画のみ。炎が吹雪のように屋敷へも流れ込み、振り回す炎焔剣が待ち構えた騎士の盾を赤熱させる。
「ティナ令嬢の屋敷にも火の粉が!」
前線から再び伝令が飛び込む。侯爵家の騎士たちは慌てて陣形を縮め、屋敷の入口を固め直したが、その隙間から飛び込んだ魔族兵が火炎瓶を投じる。熾烈な爆音と閃光が室内を焼き払い、窓枠が砕け散った。
辺境伯領の最前線でこれほどの波状攻撃を浴びるとは──侯爵自身も眉を顰め、重鎧の裾をはためかせながら剣を抜いて飛び込む準備をした。だがその眼差しは、単なる防衛ではなく、領地全体を揺るがす大きな乱の前触れを悟っているかのように冷静だった。
黒煙は今、国境砦から離れ屋敷を包む灰色の波となり、領内の静寂を引き裂いている。ロイエンタール騎士団の苦闘は、まだ頂点に達していない。騎士の刃先が震え、炎が踊り、そして大地が咆哮を繰り返す中――真の戦いはこれから始まろうとしていた。
第4章-3 銀の剣姫覚醒――炎に舞うドレスと大剣
グレーヴェンワルト城塞の黒煙が丘を覆い尽くす中、辺境伯邸の離れ屋敷跡にも炎と煤(すす)の匂いが吹き寄せていた。瓦礫の隙間から焦れたハーブの香りが混じり、地面には火の粉がチリチリと跳ねている。戦火の咆哮は遠くで城壁を震わせ、炎焔(えんえん)の光は雲間を赤く染めた。
侯爵領主ヴォルフガング・ロイエンタールの騎士たちは離れ屋敷前に散開し、残された僅かな防御線を守るために盾を構えている。しかし数に勝る魔族軍の先遣隊は、斧を振りかざし石塀を砕きながら迫り、騎士たちは盾を重ねるも次々と押し倒されていた。
――そのとき、応接間の奥に立てかけられた銀色の大剣が、微かな震えを覚えた。
裾の煤で黒ずんだ黄昏色のドレスと、胸元の銀刺繍がほのかに揺れる。ティナ・ロッテリア公爵令嬢は、文字通りドレスのまま、大剣へと歩み寄った。馬蹄の音が遠ざかり、氷のような静寂が自らの鼓動だけを際立たせる。
「降りかかる火の粉は、払わねばなりませんわ」
その声は囁きにも似て冷たく、しかし戦場の喧噪さえも掻き消す鋭さを帯びていた。ティナは袂(たもと)から銀色の竜紋大剣(りゅうもんたいけん)を滑り出すように抜き放す。刃は夜露を弾き、黒煙の中で淡い蒼い輝きを放った。
離れ屋敷前に集結する魔獣──巨獣の咆哮を合図に、ティナは一歩前へ踏み出す。ドレスの裾を巻き上げ、素早く足を運ぶさまは、まるで戦場に咲く一輪の花のように華麗だ。足元の瓦礫が粉塵となって舞い上がる。
「せいっ!」
大剣を大きく振りかぶり、高速の斬撃を繰り出す。
蒼い刃が一閃すると、巨獣の前脚がまるで枝を払うように宙へ飛び、獣の咆哮が悲鳴へと変わる。断末魔の肉塊が石壁へ飛び散り、続く群れが一瞬たじろぐ。
「――次は貴様らよ!」
ティナは躊躇なく連続斬撃を繰り出す。
第一の一撃で両断した巨獣の背を越え、振り向きざまに黒甲の魔族兵二十余体を波状斬撃で殲滅した。刃が大気を切り裂くたびに、砂塵と火花が飛散し、斬鉄剣(ざんてつけん)の異名にふさわしい閃光が辺境の夜を切り裂いた。
騎士団の旗手は、その勇姿に再び奮起し、盾を掲げて突撃を開始する。
「銀の剣姫、前へ!」
副長カール卿の号令とともに、騎士たちは盾列を再構築し、焼け跡を吹き飛ばしたかのように勢いよく魔族軍へ突入した。
炎焔剣となった大剣を肩に担ぎ、ティナは炎が燃え盛る瓦礫の中を優雅に歩む。斬撃の軌跡には、最前列を蹴散らす波が生まれ、魔獣の群れは崩壊し、黒甲の兵たちは逃げ惑う。まるで風のように、彼女の動きは戦場を駆け抜け、死の匂いを雪げ落とした。
やがて魔族軍の先陣が崩れ去った瞬間、空には一瞬の静寂が訪れる。
赤い焔がまだ石畳に揺れているが、魔獣の咆哮は遠ざかり、黒煙は霧散(むさん)しつつある。騎士たちは傷痍(しょうい)を払い、剣を架け直しながら、令嬢の背を振り返った。
ティナ・ロッテリアは杖のように大剣を地面へ突き立て、水面のように凪いだ瞳で騎士たちを見渡す。
「ここでひとまず敵は払えましたわね。侯爵邸へ退いて、治療と再編成を――」
その言葉を聞いた騎士たちは、ひときわ高い志気を得て、士気を鼓舞する甲冑の軋みを響かせながら頷いた。夜明けの蒼い空がまた少しずつ淡みを帯び、戦火の残滓を隠すかのように陽が差し込んでいる。
銀の剣姫は大剣を肩へ担ぎ直し、戦場に残る最後の焔を見つめた。
「皆、ご苦労さまでした。これで一度、侯爵邸へ」
彼女の静かな指示が、戦士たちの疲労を癒す鐘の音のように響き渡り、焦土と化した辺境の夜に、新たな静寂が芽吹き始めた──刃を通して。
第4章-4 静寂の代償と次章への序曲
魔王軍の先遣隊を殲滅し、黒煙渦巻く城塞〈グレーヴェンワルト〉の防衛線がようやく再建されたころ、辺境の夜明けは赤く燃え尽きた灰を隠すように、蒼白の光を丘陵へ注いでいた。
騎士団は全員、生還した仲間を迎えるかのように盾を掲げ合い、斬り崩れた石垣へ土嚢を積み直す。炎で崩れた狭間(さま)を修復し、損耗した弓と矢筒を交換し、息を切らしながらも再び槍列を形成するその手際は、まるで一つの鎖を編むかのように無駄がなかった。
「こちらの損害状況を迅速に報告せよ」
騎士団副長カール・フォン・シュトルツ卿が厳しく命じると、直属の伝令兵が血まみれの鎧を翻し、書簡を携えて邸内へと駆け去った。冷たい朝露が鎧の隙間を流れ、かつて炎に焼かれた兵の傷もそっと冷やしていた。
離れ屋敷跡から再び馬車に戻ったロッテリア公爵令嬢ティナ様は、曙光に染まる砦壁を背に立ち尽くした。灰と煤でくすんだドレスの裾をそっと整え、銀刺繍の双剣紋が淡い輝きを取り戻す。大剣を腰に佩き、深呼吸で荒れ狂った鼓動を抑えたその瞳には、先ほどまでの戦火の残響が、まるで過去の幻のように静かに映っている。
「……これで一度、静寂を取り戻せましたわね」
ティナ様の声音はかすかに震えながらも、内に秘めた決意を宿している。顎を引き、そっと戦場を見渡すと、騎士たちは再び盾を掲げ、故郷を取り戻すかの勢いで顔を上げた。その姿を見て、令嬢は薄く微笑む。まるで舞踏会の終幕を見守る観客のごとく。
◆
侯爵邸の大理石廊下では、侯爵ヴォルフガング様が城塞の報告書を手に、家老たちと対策会議を重ねていた。戦況と損耗状況、補給の目安、人員回復のスケジュール……冷徹な数字と地図を前に、閣僚たちは緊張の溜息を漏らす。やがて侯爵は書類を傍らへ置き、堂々と立ち上がった。
「よくやってくれた。だが、今夜の勝利は“代償”だ。城塞防衛線は一時的に回復したが、これほどの魔族軍を相手に長期戦は許されない。支援要請を王都へ送るとともに、令嬢は侯爵邸にしばらく留まってほしい」
侯爵の声は深く、戦場の喧噪よりも重く響いた。ティナ様は応接間で侯爵に従い、深い礼を捧げた。
「侯爵様、仰せのままに。静寂を取り戻すには、まず補給と再編成が必要ですものね」
侯爵は頷き、再び書類へ視線を落とした。
◆
朝の光が邸内に満ち始めるころ、王都への緊急使節が到着した。侯爵邸の門番を過ぎると、黒革の騎士甲冑に身を固めた使者が、双頭鷲の徽章入りの長剣を奥儀の手つきで差し出す。
「こちらは青の王太子殿下からの御信書にございます。ロイエンタール侯爵閣下、そしてロッテリア公爵令嬢に、深甚なる感謝と、更なる御助力の奏請が記されております」
伝令兵は嗚咽しかけたかのように声を震わせ、ティナ様に信書を託し、侯爵へ一礼して去っていく。侯爵は石の机に信書を置き、蒼いインクで紋章を確認した。
令嬢の手に渡った書簡には、王都からの追認と勲功の称号、そして国防会議への極秘招集が記されている。ティナ様は軽く息を吸い込み、箱から取り出した国章入りの封筒をゆっくりと開封した。
「国王陛下ならびに王太子殿下より、貴女の軍功と剣技に対し、
侯爵が穏やかに付け加えた。ティナ様はしばし封書を見つめ、そして毅然と顔を上げた。
「静寂はしばしの仮面です。ですが、この領地を、そして国を守るために必要な場所――王都へ参りますわ」
侯爵は深く頷き、侍女を呼んで新たな礼装を用意させた。その目には誇りと、次なる波乱への期待が宿る。
◆
庭園の噴水邸では、再び噂が駆け巡っている。戦場となった白霧の丘では「銀の剣姫が炎の中で舞った」という伝説が生まれ始め、民衆の間では今や祈念の的と化しているという。だがその噂は、やがて王都の巨壁をも越えて――内乱と策謀の狼煙として、貴族たちの胸中に静かに揺らめいていくのだった。