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第3話 辺境での静寂な日々 ── 平民夫妻と、至福の隠遁生活

第3章-1 過保護な離れ──霧が晴れるまで


 夜明け直前に覆っていた乳白色の海は、東天の薄紅をひと匙溶かされると途端にたゆたう雲となり、丘陵の稜線をゆっくり吐き出した。

 霧の切れ間から現れた石造りの家は、王都の豪奢とは対極に質素でいて、しかし丹念に磨かれた灰色の切石が朝光を受けて滑らかな銀鼠に輝く。二階建て、尖塔も回廊もなく、四角い輪郭は羊歯の影を背負っている。その均整の取れた静けさが霧の景色と相まって、むしろ小さな城のようだった。


 荷馬車を降りたティナ・ロッテリアは、濡れた芝に靴の先を沈め、石段の最上段へゆるやかに視線を上げた。玄関ポーチの支柱は太いオーク材に蜜蝋を重ねた艶を放ち、戸口の真鍮ノッカーは黒猫の意匠で、磨き込まれた耳が刃のように光を弾いている。窓枠には蔦が絡み、白い小花が夜露を抱いたまま、風にふるふると揺れた。


 ここには追放者が身を潜める陰鬱(いんうつ)も、荒れた屋敷に付随する乾いた匂いもない。代わりにあったのは清潔と温もりの気配、そして誰かの細やかな心尽くし。


 ティナは肩口で息を吸い込み、胸の奥で霧とともにほどける緊張を味わった。

 思い返せば馬車の中で何度も想像したのだ。――朽ちた梁、吹き抜ける隙間風、冷えた暖炉。それでも自由の代償として受け容れるつもりだった。だが目の前にあるのは、そんな予想を涼しく裏切る“丁寧に手入れされた住処”だ。


「ここですか? お父様が用意してくれた屋敷は……」


 独り言が霧に溶ける。曙色のドレスの裾を指でつまみ、石造りの壁面を見上げる。

 苔一つなし、漆喰の白は剥落も縁の汚れもなく、窓硝子は朝陽を映して青い刃のようにきらめいた。


「厄介払いされた身にしては小綺麗で、一人で住むには充分な大きさ……てっきりあばら家が用意されていると思いましたわ」


 言葉尻に小さな笑いが混じる。追放当夜の馬車で抱いた不安は、霧とともに遠のいていた。

 一段ずつ石段を上り、玄関前に立つ。ノッカーを軽く撫でると、ひやりとした真鍮の質感が指先へ伝わる。王都で触れた大理石の冷たさとも違う、計算された適温――家主の心づくしを感じさせる温度だった。


「逆に過保護では……?」


 ぽつりと零した言葉が、静まり返った庭に小さな波紋を作って消える。

 しかし頬を撫でた風は甘やかな草の匂いを運び、「過保護でも悪くない」と囁いている気がした。


 ティナは短く息を整え、真鍮の猫を指先で引き上げた。コツ、と小さな金属音。

 その余韻が硬い木扉の中へ吸い込まれる。

 ――ここから始まる静寂の日々と、思いも寄らぬ邂逅の物語を告げる合図のように。


第3章-2 モンゴメリー夫妻との邂逅──「平民という宝箱」


 石造りの玄関扉が内側から開いた瞬間、燻したオーク材とハニーブッシュの仄かな甘い香りが外気へ漏れ出した。埃ひとつ浮かせぬ白漆喰の土間。その正面に、背筋を糸のように真っすぐ伸ばした老紳士が立っていた。銀髪を艶やかに撫でつけ、燕尾風のリネン上衣に深緑のエプロン。瞳は穏やかな蜂蜜色。彼の横に寄り添う老婦人は、袖口に小花刺繍のある生成りブラウス姿で、頬はりんごのようにふくよか。二人とも平民の質素な装いなのに、そこに漂う気品は王都の侍従と比べても遜色がなかった。


「お待ちしておりました、お嬢様」


 声の張りは低いが、朝の光を反射する透明感を帯びている。ティナは数瞬、言葉を失った。追放者を迎える扉の向こうに、こんなにも整えられた舞台が用意されているとは――。


「貴方がたは……?」


「ワルター・モンゴメリーと申します。こちらは妻のグレイス。公爵閣下より、この離れ屋敷とお嬢様のお世話一切を仰せつかっております」


 老婦人は柔らかくスカートを摘み、ドレスの礼に似た動作で頭を下げた。ティナは曙色の裾を持ち上げ軽く返礼し、あさっての方向に視線を泳がす。


「まさか使用人まで……ますます過保護ですわ」


 控えめに嘆息したものの、胸の奥では小さな温かい火が灯る。王都で失われた家族のまなざしを、異国の老夫婦がそっと差し出している。そんな不思議な錯覚。


「私ども、早く平民の身ゆえ行き届きませんこともありましょう。ただ掃除と洗濯と簡素な料理だけは、長年の習いでございますから」


「とんでもないわ。こちらこそお願いね」


 ティナが差し出した手をグレイスが包む。節くれだった指は驚くほど温かく、長旅の冷えをじわりと吸収してゆく。ティナは無意識に口角を緩め、目許が柔らかく解けるのを感じた。



 案内されたホールは、磨かれた橡(とち)の床板に朝陽が鏡のような光線を描き、階段の手すりは蜜蝋で艶を帯びていた。壁沿いのサイドボードには白磁のティーカップと小さな花瓶。花瓶の中ではスノードロップが朝露を抱え、静かな鐘のように俯いている。


「毎朝、裏庭で摘むんですのよ」


 グレイスが恥ずかしげに説明した。ティナは花を覗きこみながら囁く。


「平民の邸宅とは思えない手入れ……父上、ここまで準備して……」


 ワルターが背後で咳払いし、廊下の奥を示す。


「寝室、書斎、温水室、道具室、そして小さな温室がございます。ゆくゆくはハーブを栽培し、猫様の遊び場にも」


「温室まで!? 徹底した過保護ぶりにむしろ感服いたします」


 ティナは上階へ続く階段を見上げ、木梁の間から差す光を目で追った。王都の石天井の冷たい煌めきを思い出し、今の木漏れ日との対比に深く息を吐く。



 荷解きをひと通り終え、応接間の奥で小休止した頃には朝霧がほとんど溶けていた。グレイスが白磁のカップに温かなミルクティーを注ぎ、脇にはバターの香りを含んだ焼き菓子。初対面ながら細やかなもてなしに、ティナは胸が満ちる。


「これだけ整った家を私一人で使うなんて……本当に贅沢。もっとも、自由を買った対価と考えるなら妥当かしら」


 つぶやくとワルターが穏やかに応じた。


「お嬢様のご滞在が長くなるほど、家も我々も輝きます。どうかご遠慮なくご指示ください」


「では、まず最初のお願い。――“静か”を守ること」


 ティナはカップを口許に運びながら、瞳にふわりと霧を宿す。


「この家の時間をかき乱す客が訪れたなら、お断りを。必要なときはわたくしが表に出ますから」


「かしこまりました」


 ワルターは一拍置き、柔らかな声音で続けた。


「それと……もし剣や魔法の修練をなさるときは、屋敷裏の空き地が広うございまして」


 ティナはクスリと笑い、指を振る。「今日はそんな物騒なものは要りません。まずは静けさと紅茶と……」


 言いかけた時、リシェルが窓辺へ軽やかに跳ね上がり、尻尾を立てて外を凝視した。丘の先を一羽の鷹が滑空し、霧の残り香を切り裂いていく。ティナは猫の背に手を置き、囁く。


「……そして猫」


 部屋を包む静かで濃密な安心感。その芯でティナは確かに理解した。――この離れは、父が彼女の魂を風雨から守るための小さな城。過保護でも、無用でも、いまは甘んじて受け取ればいい。静寂は、決して長くは続かないのだから。


 ティナはティーカップを置き、モンゴメリー夫妻へ向き直る。


「さあ、本格的に始めましょう。わたくしの理想的な隠居生活を」


 老紳士は微笑み、老婦人は深く礼を取った。霧を透かす陽の光が、三人の影を床に柔らかく溶かしていった。


第3章-2 モンゴメリー夫妻との邂逅――“家庭料理”という衝撃


(およそ 2,200 文字)


 真鍮ノッカーがコツンと響くやいなや、木扉が音もなく開いた。

 玄関土間に立つのはワルターと名乗る老紳士、そして妻のグレイス。二人は平民らしい質素なリネン服なのに所作は執事顔負けに端整で、朝霧より静かな笑みでティナ・ロッテリアを迎えた。


「お待ちしておりました、お嬢様」

「お嬢様のお世話を仰せつかっております。どうぞお入りくださいませ」


 ティナは曙色のドレスの裾を摘み、軽く会釈する。


「使用人まで用意されてるなんて……ますます過保護ですわ」


 しかし声はどこか弾んでいた。

 玄関を一歩くぐれば、磨かれた橡(とち)の床板がやわらかく鳴り、白漆喰の壁にはラベンダーを乾かした淡い香り。王都の石宮殿とは対極の温度と質感が、瞬時に緊張を溶かした。



---


屋敷案内と“お願い”


 モンゴメリー夫妻に伴われ、ティナは応接間・書斎・温水室・温室まで一巡する。釘一本の錆もなく、窓硝子は朝日を鏡のように返す。

 巡り終えると、ワルターが深く礼を取った。


「早速ですが、夕刻までに荷解きを終え、紅茶と薬草の棚を整えておきます。ほかにご要望は?」


「一つだけ――“静か”を守って。不要な客はお断りよ。必要なときは私が出ます」


「承知しました」


 彼の声は穏やかで、威圧でも諫言でもなく、揺るぎない忠誠の調子だった。ティナは満足げに頷き、旅装をほどいて最初の夜を迎える。



---


翌朝・白霧の丘の食卓


 夜明け。丘を包んでいた霧が潮のように引くころ、ティナは焼き薪の匂いに瞼を開いた。

 食堂の扉を開けると、こぢんまりした丸テーブルに白麻のクロス。中央で銀のティーポットが湯気を立て、籠には焼きたての白パンが山盛り。カボチャ色のポタージュ、ほうれん草とベーコンのソテー、薄切りハム、摘みたてハーブのサラダが並んでいる。


「どうぞお召し上がりくださいませ。家庭料理で恐縮ですが――」


 グレイスが微笑む。ティナはパンを裂き、外皮の香ばしい音に胸が鳴る。ひと口頬張った瞬間、思わずテーブルを叩いた。


「貴方がた! なんですの! この食事は!」


 夫妻が顔を曇らせる。


「申し訳ありません! お口に合いませんでしたか?」


「美味しすぎますわ!」


 ティナはポタージュもすくって飲む。滑らかな舌触りと豆乳の優しい甘みが喉を落ち、ハーブの香りが鼻へ抜ける。王都で供された豪奢なポタージュにはない繊細さだった。


「へ……? お、脅かさないでください。失礼があったのかと……」


「プロの料理人でしたの?」


「とんでもございません。ずっと家庭の台所で煮炊きしてきただけです」


 ティナは頬を膨らませ、パンをもう一切れ裂く。

 ――実家のシェフは高価な食材をこれほど活かせなかった、と胸中で舌打ち。


「料理だけでなく掃除も洗濯も?」


「私たちしかおりませんから」


「素晴らしい。平民とは逸材の宝庫でしたのね」


 夫妻は顔を紅潮させ、深々と頭を下げた。ティナはティーカップを取り、ベルガモットの香りに目を細める。窓外には霧の名残が銀の筋を曳き、猫のリシェルが尻尾を振りながら窓辺を歩く。


 王都を追われた朝。だがテーブルの上には、誰かの心が層を重ねて作った温かさがあった。ティナは紅茶を一口啜り、過保護という贅沢を微笑みで受け止めた。



---


 こうしてティナは、平民夫妻の腕前と人柄に心を溶かされながら「静寂な日々」の第一歩を踏み出した。けれど彼女はまだ知らない。素朴な朝食の香りが、やがて辺境を駆け巡る噂――“銀の剣姫が移り住んだ”という逸話のはじまりだったことを。


第3章-2 モンゴメリー夫妻との邂逅――“家庭料理”という衝撃




 真鍮ノッカーがコツンと響くやいなや、木扉が音もなく開いた。

 玄関土間に立つのはワルターと名乗る老紳士、そして妻のグレイス。二人は平民らしい質素なリネン服なのに所作は執事顔負けに端整で、朝霧より静かな笑みでティナ・ロッテリアを迎えた。


「お待ちしておりました、お嬢様」

「お嬢様のお世話を仰せつかっております。どうぞお入りくださいませ」


 ティナは曙色のドレスの裾を摘み、軽く会釈する。


「使用人まで用意されてるなんて……ますます過保護ですわ」


 しかし声はどこか弾んでいた。

 玄関を一歩くぐれば、磨かれた橡(とち)の床板がやわらかく鳴り、白漆喰の壁にはラベンダーを乾かした淡い香り。王都の石宮殿とは対極の温度と質感が、瞬時に緊張を溶かした。



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屋敷案内と“お願い”


 モンゴメリー夫妻に伴われ、ティナは応接間・書斎・温水室・温室まで一巡する。釘一本の錆もなく、窓硝子は朝日を鏡のように返す。

 巡り終えると、ワルターが深く礼を取った。


「早速ですが、夕刻までに荷解きを終え、紅茶と薬草の棚を整えておきます。ほかにご要望は?」


「一つだけ――“静か”を守って。不要な客はお断りよ。必要なときは私が出ます」


「承知しました」


 彼の声は穏やかで、威圧でも諫言でもなく、揺るぎない忠誠の調子だった。ティナは満足げに頷き、旅装をほどいて最初の夜を迎える。



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翌朝・白霧の丘の食卓


 夜明け。丘を包んでいた霧が潮のように引くころ、ティナは焼き薪の匂いに瞼を開いた。

 食堂の扉を開けると、こぢんまりした丸テーブルに白麻のクロス。中央で銀のティーポットが湯気を立て、籠には焼きたての白パンが山盛り。カボチャ色のポタージュ、ほうれん草とベーコンのソテー、薄切りハム、摘みたてハーブのサラダが並んでいる。


「どうぞお召し上がりくださいませ。家庭料理で恐縮ですが――」


 グレイスが微笑む。ティナはパンを裂き、外皮の香ばしい音に胸が鳴る。ひと口頬張った瞬間、思わずテーブルを叩いた。


「貴方がた! なんですの! この食事は!」


 夫妻が顔を曇らせる。


「申し訳ありません! お口に合いませんでしたか?」


「美味しすぎますわ!」


 ティナはポタージュもすくって飲む。滑らかな舌触りと豆乳の優しい甘みが喉を落ち、ハーブの香りが鼻へ抜ける。王都で供された豪奢なポタージュにはない繊細さだった。


「へ……? お、脅かさないでください。失礼があったのかと……」


「プロの料理人でしたの?」


「とんでもございません。ずっと家庭の台所で煮炊きしてきただけです」


 ティナは頬を膨らませ、パンをもう一切れ裂く。

 ――実家のシェフは高価な食材をこれほど活かせなかった、と胸中で舌打ち。


「料理だけでなく掃除も洗濯も?」


「私たちしかおりませんから」


「素晴らしい。平民とは逸材の宝庫でしたのね」


 夫妻は顔を紅潮させ、深々と頭を下げた。ティナはティーカップを取り、ベルガモットの香りに目を細める。窓外には霧の名残が銀の筋を曳き、猫のリシェルが尻尾を振りながら窓辺を歩く。


 王都を追われた朝。だがテーブルの上には、誰かの心が層を重ねて作った温かさがあった。ティナは紅茶を一口啜り、過保護という贅沢を微笑みで受け止めた。



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 こうしてティナは、平民夫妻の腕前と人柄に心を溶かされながら「静寂な日々」の第一歩を踏み出した。けれど彼女はまだ知らない。素朴な朝食の香りが、やがて辺境を駆け巡る噂――“銀の剣姫が移り住んだ”という逸話のはじまりだったことを。


第3章-3 静寂レシピ――紅茶と読書と猫とハーブの午後



朝食の余韻が消えないまま、応接間の窓辺に柔らかな午後の陽射しが差し込んだ。ティナ・ロッテリアは固く結んでいた栗色の髪をゆるめ、ベルガモットの香りを残す銀のティーセットへ向き合う。モンゴメリー夫人が摘み立てのカモミールとミント、ローズマリーを籠から取り出し、ヤカンへそっと沈める。小さな温室で育ったハーブは、花びら一枚ずつに朝露を抱き、湯気の中で淡く揺れていた。


「まずは水温を九十度に……」

ティナはポットの温度計に目を細め、湯を注ぐ角度を調整する。中でハーブがゆっくり開き、茶葉の渦とともに甘く清涼な香りを部屋いっぱいに漂わせる。カップを手に取ると、薄絹のドレスがそっと揺れ、刻まれた薔薇模様が午後光を受けてきらめいた。


一口含むと、爽やかな苦味が舌先に蕩け、喉を滑るとともに全身の毛穴がゆるむ。──これこそ、彼女が長い間求めていた“静寂の味”だった。王都では毎日が儀式だった。だが今、ここでは時間がゆっくり解け、彼女ひとりの心音だけが音楽となる。


ティナは胸の前でカップを抱え込み、傍らの書棚を見渡す。そこには古書の革表紙や、父から譲られた詩集、さらには旅先で集めた古地図などが並ぶ。手に取ったのは、森の伝説を綴った薄い羊皮の写本。指先でページを繰ると、細い罫線の隙間から墨の匂いが立ち上る。彼女は深々と息を吸い、赤いリボンしおりを当てながら読み始めた。


物語は、月光に導かれた少女が古城を探し歩く幻想譚。折に触れてティナは顔を上げ、窓の外に視線を走らせる。窓辺には白猫リシェルが丸く座り、柔らかな毛並みを日光に晒していた。リシェルは、ティナがページをめくる度にそっと視線を合わせ、丸い瞳をゆっくり瞬かせる。


「リシェル、そろそろ遊びましょうか」

ティナは写本を閉じ、猫の目線に合わせて膝を曲げた。リシェルは待っていましたとばかりに体を伸ばし、後ろ足でお尻を掻く仕草を見せる。ティナは小さなリボンを手に取り、猫じゃらしのように揺らすと、リシェルはしっぽを高く立ててじゃれついた。


その後、ティナは温室へ向かった。そこにはローズマリー、タイム、バジル、セージなど、心を落ち着かせる薬草が鉢ごとに整然と並んでいる。彼女はひと株を抜き取り、根元の土を丁寧に払うと、剪定鋏で健やかな葉を刈り取った。葉の香気を手のひらでこすり、軽く試し摘みしてから、籠に戻す。やがて乾燥棚に並べられたハーブは、数日後に自作のポプリやティーとして再び応接間に香りを運ぶだろう。


庭へ出ると、小径の両脇に野花が咲き乱れ、蝶が淡い羽音を立てて舞っていた。ティナは朝露を含む麦の茎を踏み分けながら散策し、野兎の足跡を追ってみたり、石垣の苔を撫でたりする。全身で息づく自然のリズムが、宮廷の高慢とも、冒険の緊張とも違う安心感を与えた。


午後が深まるにつれ、屋敷の門前にはかすかな人影が集まり始めた。丘の麓の村では、風の便りとともに「銀の剣姫が移り住んだ」という噂が広まり、好奇心と畏れを混ぜた顔つきで人々が駆けつけているらしい。ティナは蔦の絡まる窓辺に戻り、遠巻きの群れを見下ろしながら微笑んだ。


「噂は噂。わたくしはここで、静かに暮らしますもの」


 紅茶を注いで溶け込む午後の日差しに、ティナは柔らかな満足を噛み締めた。静寂レシピ――紅茶、読書、猫、ハーブ、自然散策。これが彼女の望んだ日常。だが、その核心にあるのは、誰にも利用されず、しかし必要ならば利用するという揺るがぬ意志だった。静かな日々はまだ始まったばかり。だがティナは知っている、深い森の静寂ほどに波瀾は潜んでいるものだと。


第3章-4 不穏の前兆――銀の剣姫の影と蠢く風


 午後の陽光は、応接間の窓を淡い金色に染める一方で、辺境の空にはひんやりとした空気の波が立ち込めていた。ティナ・ロッテリアは、書斎の古書棚から一冊の羊皮写本を取り出し、細い巻き糸を解いた。そこに記された錆びた城の描写を眺めながら、「静寂」と「不穏」が同じ薄絹のように折り重なる不思議を考えていた。


 紅茶の香りを含んだサロンには、書斎から持ち込んだ古地図や詩集、そしてハーブのポプリが静かに置かれている。だが、外の世界では静かな気配を装いつつ、じわじわと政治の蠢きと民衆のざわめきが満ちていた。扉の向こう、廊下で足音がする。モンゴメリー夫妻を呼んでいたのだろう、老執事がそっとやってきて、声を潜めた。


「お嬢様、何やら村の噂が高まっております。『銀の剣姫』なるお方が、この離れ屋敷にお住まいという話でございまして――」


 その言葉に、ティナは写本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。草花の絵入りのティーカップを置き、掌で顎を支える。窓の外では、薄曇りの空を小鳥が一羽飛び交い、落ちる葦の種子がふわりと舞っている。


「銀の剣姫……ですって?」


 呟くように問うと、老執事は申し訳なさそうに頭を下げる。


「その……近隣の村々で、『見事な剣捌きで魔族の先遣隊を撃退したお嬢様』という評判が走り、いつしか“銀の剣姫”と呼ばれるようになったようでございます。貴族や下級騎士が、その噂を確かめに来る者もあるとか……」


 不意に、サロンの一角に置かれた鏡が微かに揺れた。ティナは立ち上がり、鏡越しに背後の壁をちらりと見た。そこには誰の影も映っていなかった。ただ、庭へ通じる小窓のカーテンが、気流に誘われてそっと揺れている。


「……それで?」


 ティナの声には怒りよりも冷徹な好奇心が含まれていた。老執事は唇を噛みながら答える。


「公爵領主殿も“その剣技”に関心を抱き、領内の警備を強めるとともに、屋敷周辺の見張りを二十四時体制に切り替えるよう申しております。それに、先ほど侯爵様からもお電話があり、屋敷までの警護を強化するとの要請がございました」


 侯爵ヴォルフガングの名に、ティナは眉をひそめた。それは、彼女を敬意と共に保護する申し出でもあるが、同時に「魔族軍の襲来を警戒せよ」という宣告に他ならない。


「わかりました。見張りは結構ですが、私自身は素顔で過ごしますわ。過剰な警護は、静寂の邪魔になるだけですから」


 そう告げると、ティナは扇型の書架から外套を取り出し、肩に羽織った。その薄い生地の内側には、小型の短剣と魔導書が仕込まれている。必要とあらば、いつでも行動できる準備だ。


      ◆


 サロンを出ると、庭先の小径に用心棒の騎士二名が控えていた。黒い鎧は刻印こそないが、鍛え上げられた鋼鉄の感触を髄まで伝えてくる。騎士頭が敬礼し、低い声で告げた。


「お嬢様、先ほど境界近くで魔族の先遣隊が目撃されました。我々はすぐに迎撃部隊を編成し──」


「待て、その話は聞いている。こちらは今のところ必要ない。日中の私は、静かに過ごす」


 ティナは微笑み、一人は苦笑し、もう一人は深くうなずいた。無用な緊張を外すことで、むしろ緻密な警戒網が緩まぬことを知っている。


 庭を歩くと、ひいらぎの枝の影が砂利に映り、波打つ。彼女は霧の丘の先端までゆっくり足を運び、遠くの樹影を確かめる。そこには、かすかに不規則な動き──猛禽のような翼ではない、人の影が木立の隙間を横切っている。


「……誰かが隠れ家を覗いている」


 呟くと、ティナは裾を掴み、静かな駆け足で蔦の絡まる塀へ駆け寄った。塀の向こうには小道が続き、その先には半壊した監視塔が見える。廃墟の柱に腰掛け、眼鏡を外した老学者が双眼鏡を覗き込んでいた。


「貴方は……?」


 学者はティナと視線が合うと、驚いた顔で双眼鏡を下ろした。


「銀の剣姫様、あなたにお目にかかれるとは……! 私はロイエンタール領の学究、エンゲルハルトと申します」


 二十年以上探求のために辺境を歩き続けたその老学者は、今、ティナを「研究対象」かのように見つめ返している。彼の手には古書と測量道具、そして奇妙な紋章の入った布が挟まれていた。


「お願いがあります。あなたの魔導能力と剣技を学術的に解明させてほしい。その成果は領の防衛に役立てます」


 エンゲルハルトの要請に、ティナは静かに眉を上げる。興味と嫌悪が混じった眼差し。だが、その直後にのびやかな笑みを浮かべた。


「研究ですって? 妖精狩りでもするつもりかしら。その布は、魔族の紋章の一部のようですが」


 彼女はあざけるように布を指でつまみ、くるりとひるがえす。エンゲルハルトは額を押さえ、苦笑まじりに答えた。


「いいえ、そんな乱暴なことは──ただ、未来を守るための学問です」


 遠くでは霧の丘から冷たい風が吹き降ろし、小道の落ち葉を一枚二枚と舞い上げる。ティナは埃を払うように手を振り、短剣の柄に軽く触れた。


「研究でも防衛でもいいわ。けれど、この屋敷での“静寂”は私のもの。必要なときは招けばいい。それまでは……」

 そう言って、彼女はゆっくりと背を向けた。


 不穏の前兆が世界の淵で囁く。銀の剣姫の静寂は、今まさに修羅の序章を迎えようとしていた。



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