第2章-1 朔望状(そくぼうじょう)──追放令の受領
王都南端、物資搬入用の裏門に併設された小さな詰所は、王宮正門の煌めきとは対照的に質素だった。白壁は石灰が粗く塗られ、ランプがかすかな煤を吐き、床に敷かれた麻布は靴跡と油染みで灰色にくすんでいる。ここは儀仗兵が行進する大理石の回廊ではなく、穀物袋と塩樽が日常的に行き交う現実の通路。だが今日この場所は、公爵令嬢ティナ・ロッテリアの「自由」を法的に確定させる舞台となった。
詰所の中央に据えられた昇降式机には、王家の内務宰府から派遣された中年文官が待ち受けていた。彼は胸の青い羽根章を整えながら、羊皮紙の束を確認している。髪は塩胡椒、鼻眼鏡の向こうで細い瞳が礼儀と疲労の合間を漂う。ティナが入室すると、彼は椅子を半ば蹴るようにして立ち上がり、ぎこちなく敬礼した。
「ロッテリア令嬢、ご足労感謝いたします。追放令関連文書の交付ならびに公印照合の手続きを執り行います」
「お手を煩わせて恐縮ですわ。……急なお達しで大変でしたでしょう?」
ティナは微笑を浮かべつつも、視線は机上の革張りバインダーに注がれていた。文官は咳払いをひとつ置き、最上部の封筒を抜き取り差し出す。真白な羊皮紙の端には赤と金の蝋封が三つ――王家双頭鷲印、王太子私印、そしてロッテリア公爵家の向かい獅子印。
「こちらが朔望状。王都永久追放令、および関連旅券でございます」
ティナは手袋越しに封筒を受け取り、蝋封の温度を確かめる。まだほんのりと柔らかい。つまり作成されたのはほんの数刻前。王太子の激情が紙面を突貫で走らせた証だ。だが開封すると、その乱雑さを補うような整然とした文語が並んでいる。
> ――ティナ・ロッテリアをして、王都および王宮の諸儀礼から永久に遠ざける。
ただし、追放対象者はロッテリア公爵家正嫡であるため、資産目録に記載された動産ならびに使用人二名の同行搬出を許可する。
その一文を読んだ瞬間、ティナの口角がわずかに上がる。父が動いたか、あるいは国王の温情か。いずれにせよ「ロッテリア家の顔を潰さない」という筋書きはまだ生きている。王太子が感情で振り回した石を、大人たちがそっと布で包んだ形だ。
傍らで忠僕マルセルが書見台に立ち、同伴者登録の書式に筆を走らせている。巻き毛の侍女リリアは緊張で瞳を潤ませ、羽ペンを震わせながら同行誓約書にサインしている。ティナは視線を戻し、自筆欄へ流麗な曲線を置いた。ペン先が羊皮紙を滑った瞬間、かすかなインクの香りが立ち上る。
「これで、わたくしの“自由切符”が完成ですわね」
声は柔らかだが、そこに混じる微笑は冷たい硝子細工だ。文官は頷き、次いで厚い登録簿を開いた。
「念のため確認いたします。同行者は忠僕マルセル・キース殿、侍女リリア・グライム嬢の二名で間違いございませんか?」
「はい。あと、猫のリシェルが一匹。生きた家財ですけれど、資産目録には載せておりませんわ」
文官の口元がわずかに緩む。「猫は、検査対象外でございます」
ティナは頷き、封筒を革筒に収納する。マルセルが小声で「馬車の確認が終わりました」と報告した。詰所裏手の荷馬車には最小限のトランク、ティーポット、ペンセット、リシェルのキャリー。そして道中で買い足す分の穀物袋がひとつ。それだけ。宝石箱も絹のガウンも置き去り。鎖の輝きは自由の重さに変換されるとティナはよく知っていた。
「令嬢」
文官が低く呼び止めた。ティナが振り向くと、彼は声を落とした。
「この条文……最終的には陛下直下の侍従詔で書き足されました。公爵殿のお働きかと」
老獪な配慮が垣間見えた。ティナは青い羽根章へ視線を落とし、静かに礼を取る。
「お気遣い痛み入りますわ。――父に礼を伝える機会があれば、『過保護ですわね』と申し添えてくださいませ」
ほのかな冗談に文官は目尻を緩めた。
詰所を出ると石壁の影はまだ長く、穀物隊商が列を成して門前を横切る。荷馬車が転じる木の軋みと鉄轍のこすれる音。ティナはふっと息を吐き、東雲色のドレスの裾を弾ませた。
門扉へ向かう途中、小さな段差で石畳が切れ土道が始まる。その瞬間、靴底が柔らかな土を踏む感触に変わった。――王都の“石の理”から外へ出た合図。ティナは振り返らない。後ろにはもう、監視と侮蔑と虚飾が混在した舞台しかない。
南門を守る鉄格子の影が伸びる。門兵が朔望状の筒を掲げるティナへ敬礼し、重い扉をゆっくり開いた。隙間から吹き込む風は、干し草と蜜粕と遠い花畑の香りを混ぜている。ティナは鼻腔をくすぐる甘い空気に目を細め、口の端だけで呟いた。
「甘くない自由なんてありませんものね……」
馬車が軋みをあげ進み出す。蹄鉄が石を離れ、土の鼓動を刻む。車輪が門の敷居を越え、王都はティナの背で急速に縮んでいく。
荷台から顔を出したリシェルが「ミャ」と短く鳴き、ティナはキャリーを撫でた。
「大丈夫。静かな場所へ行きますわ。――誰にも利用されず、けれど必要とあらば……そう、利用する側に立つ世界へ」
太陽はまだ東に傾いたばかり。白雲が高く流れ、草いきれの香りが濃くなる。ティナ・ロッテリアは朔望状を胸に抱え、王都という檻を離れて最初の一歩を踏みしめた。自由の重さは羊皮紙より軽く、期待より重い。けれど彼女の足取りは、朝露のきらめきと同じ確かなリズムで土を打った。
第2章-2 るん♪るん♪の小躍り──“自由”という名のステップ
王都南門をあとにした馬車は、城壁から二百歩ほど離れると西へ切れる支道へ入った。大街道は検問が厳しく巾着切りも多い。忠僕マルセルはそれを避け、丘陵を斜めに貫く農耕用の土道を選んだのである。
辺りに建物はなく、立木もまばら。代わりに小麦の刈り株が金色の波をつくり、遠くでは水車小屋の羽根が重たい空気をゆるやかに裂いていた。城壁の白い稜線はもう低い雲と溶け合い、王宮の尖塔は霞んで輪郭を失っている。かつてあれほど重苦しい存在感を持っていた巨大劇場が、今はただの風景の一要素に過ぎなかった。
ティナ・ロッテリアは馬車の窓掛けを跳ね上げた。生ぬるい風がドレスの袖を膨らませ、首筋に麦藁と土の匂いを吹き込む。石畳の硬い振動が消え、土道の柔らかな揺れに変わった瞬間――胸奥に張り付いていた最後の糸がぷつりと音を立てちぎれた。彼女は窓から首を半分出し、乳白色の空に深呼吸で円を描いた。
(本当に……終わったのね。あの退屈きわまる王都劇場)
思わず口元がほどけ、笑いが零れる。それは宮廷の広間で向ける淑女の微笑ではなく、十歳の少女が初めて木苺を盗んだときのような、無邪気で奔放な笑顔だった。
ティナの喜色を感じ取ったのか、御者台からマルセルが声をかける。
「お嬢様、もしお疲れなら少し休ませましょうか? 丘の向こうに古い避雷塔があり、日陰が取れます」
「ええ、お願い。──でも、わたくしだけ歩きますわ」
マルセルは訝しみつつも手綱を絞め、馬を低い丘の麓で止めた。リリアが荷台から降り、ティナの後ろ裾を支える。だが令嬢は「大丈夫」と手で制し、一人で土色の道へ降り立った。足を乗せた瞬間、長靴の踵が柔らかい湿った感触を返す。それだけで心の奥が弾み、ティナは小さく唇を尖らせた。
「るん♪ るん♪……」
誰が見ているわけでもない。胸の中心を占める高揚が勝手に脚へ伝わり、自然にステップが生まれる。右足を前へ、左足を軽く弾ませ、腰をひねる。ドレスの曙色が麦の穂と溶けあい、刺繡の銀糸が午後の陽に散った。
彼女は片手でスカートを摘み、小さな円を描く――たった一回転。裾が風を孕み、ふわりと膨らむ。鈴のような笑い声が漏れた。
「……いけない、嬉しくて踊ってしまいましたわ」
誰にともなく呟き、頬にかかる髪を払う。振り返れば、馬車の御者台でマルセルが眉尻を下げて苦笑している。テラコッタ色の頬は半ば呆れ、半ば安堵で緩んでいた。リリアは荷台の端でハンカチを握りしめ、「かわいい……!」と声音を塞いでいる。
ティナはくすりと笑い、両手を胸の前で交差させた。――が、ふいに眉を跳ね、視線を地平に転じる。さきほどまで耳に残っていた王太子ガンフィールドの怒号が、後ろから追いかけてきたように脳裏で反響した。
《馬鹿にしているだろう! 私の視界に入るな――!》
あの顔、あの声。ティナは片手を額に当て、大袈裟にため息をつく。
「馬鹿にしてる? 今ごろ気づきましたの? 純然たる馬鹿ですもの」
声は甘く、しかし冷え切っていた。柔らかな麦風がその毒気を吹き散らし、あるいは麦が毒を吸い上げたのか。ティナは一歩、二歩と歩を進め、再びステップに切り替える。足元で砂がカラリと弾け、踵が軽快に鳴った。
──王都の宴席で踊るドレスとは違う。今踊っているのは、自分だけの音楽。観客は白い雲と小麦の波。そして、自由という名の無制限の舞台。
◆
ひとしきり踊って心の熱を吐き出すと、ティナは大きく背伸びをした。空気はまだ夏の名残を抱きながらも、遠い山脈の冷気をわずかに帯びている。季節は確実に秋へ傾き、王都の高い壁が遮っていた風の行き先がここにはある。
馬車へ戻る前、ティナはトランクの上に座り込んだリシェルのキャリーを開けた。白猫は黄色い眼を細め、くるりと尻尾を巻きながら鳴く。
「お行儀の良いお姫様ごっこは終わり。次は静かなお姫様ごっこよ。誰も口を出さない国で、好きなときに眠って、好きなときにお茶を飲むの」
言いながら額を寄せると、猫は小さくゴロゴロと喉を鳴らした。ティナは笑みを深め、キャリーの扉を閉じる。
「利用されるくらいなら利用する側へ――でもねリシェル。今は誰も利用したくないの。まずは“静寂”の味を確かめに行くのだから」
◆
「お嬢様、そろそろ出発いたしましょう」
マルセルが控えめに呼びかけた。手綱を握る指が棕櫚縄の感触を確かめる。ティナは軽く頷き、荷台の手すりを握ってよじ登った。リリアがすかさずクッションを差し出し、毛布を畳んで腰かけを作る。
馬車が再び揺れを始める。蹄が乾いた土を蹴立て、車輪が小石を跳ねる音がリズムを刻む。ティナは窓を開け放ち、最後に王都の位置を探す。だが城壁も尖塔ももう見えない。見えるのは麦畑を区切る石垣と、遠い地平線を曇らせる白霧だけだった。
(ロイエンタール辺境領――白霧の丘。静かな生活がわたくしを待っている)
胸の内で呟き、朔望状の筒を抱き直す。羊皮紙の角が胸骨に触れ、ひんやりした感触を残す。それは冷たいはずなのに、暖炉の種火のように彼女の内部で熱を灯した。
荷馬車は丘を越え、小さな渓谷へ差しかかる。鳥の影が急降下して草藪に消え、どこかで鈴虫が鳴き始めた。やがて風は西へ向かい、夕陽はまだ遙か。旅路は始まったばかり。だがティナの心のワルツは、もう完璧なイントロを奏でていた。
第2章-3 旅支度と同行者――荷馬車は夜風を抱いて
南門外の空き地には、王都の雑踏から取り残されたように古びた四輪馬車が一台止まっていた。車体は樫材を黒く塗り、幌には雨よけの油布が二重に張られている。豪奢とはほど遠いが、軸は丈夫でタイヤの鉄輪にも亀裂ひとつない。マルセルが厩舎で選び抜いた中古品だった。
夕刻――陽はまだ落ちきらず、麦畑の向こうに薄橙の残光を漂わせている。馬車の周囲には荷箱が六つ、革鞄が三つ。王都で公爵令嬢が通常用意する旅装の、せいぜい五分の一の量でしかない。
「これで全部?」
ティナ・ロッテリアは腰に手を当て、荷の山を眺めた。侍女リリアが「はいっ」と強く頷く。栗色の髪を三つ編みに束ね、額に汗をにじませていた。
「ご覧のとおり、ドレス二着、下着三組、旅装用マント一枚。それと常備薬、裁縫道具、猫の餌、ティーポット、紅茶の缶──」
「それだけ?」
「ええ。お嬢様のご指示は『余計な光物は要りません』でしたもの」
リリアは胸を張った後、急に不安げに眉尻を下げた。
「本当によろしかったのですか? 宝石も鏡台も持たずに行くなんて……公爵令嬢のお立場が」
「立場より軽さのほうが大事ですわ。──重い鎖はもう十分」
ティナは微笑み、足元のキャリーを指で叩いた。中から真白な猫リシェルが伸びをし、小さく欠伸を漏らす。
「この方と紅茶、それに筆があれば退屈しません。……あ、試作品のお菓子だけ包んで。途中で味見しますから」
リリアが「かしこまりました」と駆けていくと、マルセルが馬車の御者台から降りてきた。手には油布の修繕キットと木槌。
「軸受けに麻油を差し終わりました。途中で雨に降られても幌があれば大丈夫ですが、夜の冷え込みが強いので毛布を積んでおきましょう」
「毛布は三枚だけよ。リリアが寒がりだから一枚多く」
ティナは即答し、革鞄を抱えあげた。鞄の中には朔望状入りの革筒と、父から託された手書き地図、そして万年筆とブルーブラックのインクボトル。わずかな重量が肩にかかるたび、胸の内で弾む。自由の重さはこれくらいで丁度いい。
日が傾き切る前に馬車へ荷を積み込む。大きな木箱には茶葉、保存パン、ジャーキー。もう一つの箱は猫用砂と皿、そしてティナ自作のハーブクッキーが布袋に収まっている。彼女は箱の蓋を軽く開け、中のクッキーを一枚つまんだ。ラベンダーと蜂蜜の香りがふわりと立つ。
「味見、します?」
マルセルが笑いながら首を振る。「もったいなさすぎて恐れ多いです」
「ふふ。では道中のお楽しみに取っておきましょう」
◆
積み込みを終えるころ、薄曇りの天に西風が走り、乾いた土埃が靴の踵にまとわりつく。リリアは小さなくしゃみをし、ティナにハンカチを差し出されて頬を赤くした。マルセルは馬具を再確認し、荷締めロープを二重に通す。
「お嬢様。出発は夜半にいたしましょう。陽が残るうちは追放令を嗅ぎつけた野次馬が近づくかもしれませんから」
「了解。日が落ちるまで小道の木陰で待機ね」
ティナは頷き、馬車後方の幌をめくって内部に入った。車内は薄暗いが、床に敷いた絹のラグにリリアが小瓶入りの香油を垂らしてある。ベルガモットの香気が狭い空間に優しく広がる。彼女は箱を一つ開け、包み紙のまま入れた万年筆を取り出した。銀製の軸は陽を失ってもわずかに青い光を返す。そして地図を広げ、父が赤墨で記し付けた〈白霧の丘〉という文字を指でなぞった。
(ロイエンタール領北端。静寂と朝霧と――たぶん猫が伸び伸びできる庭)
期待の温度が胸を満たす。王都では一瞬たりとも味わえなかった安穏のカケラが、もう手の届く範囲にあるのだ。
◆
夜半直前。陽は完全に落ち、空は墨を溶いた紺青。そのキャンバスに針で穿ったような星が散り、遠くで雲が閃光を孕む。風は冷え、馬車の油布をひゅうと鳴らした。リリアはマントの襟を立て、「寒い」と小声。ティナは隣で肩を貸すように座り、小さな湯指しポットを振って温度を確かめる。
「大丈夫。冷えたらこれを」
リリアは感謝しつつ、青い目を伏せて呟く。「お嬢様は……怖くないのですか?」
「何がかしら」
「王都を離れて、未知の地へ行くことです。私は少し怖いです。……けれど一緒に行きたいんです」
ティナは笑みを深めた。車窓の外、マルセルが納戸から懐中ランプを下げて戻ってくる。
「怖い?」
「ええ。でも退屈な劇よりは、三文芝居でも自分が脚本を書ける舞台の方がずっと楽しいわ」
言いながらティナはリリアの肩を軽く叩く。「だいじょうぶ。わたくしが守ります。あなたも、マルセルも、リシェルも」
――この言葉に説得力があるのは、彼女が先ほど大剣を振り回したわけでも、大魔法を披露したわけでもない。それでもリリアは素直に頷くしかなかった。ティナ・ロッテリアの瞳の底には、見えない剣と炎が棲んでいると知っていたから。
外ではマルセルが馬を軽く叩き、低く囁く。「さて、自由行の始まりです」
二頭は鼻を鳴らし、蹄を土に刻んだ。黒い夜気の中、車輪がゆっくりと回り出す。草むらの虫が音を吸い込み、遠くの鐘が最後の九つ目を数える。ティナは胸に革筒を抱き、雲間の星を仰いだ。
王都で聞いた音楽は、これで全部終わり。
今、車輪が奏でるのは彼女だけの序曲――るん♪るん♪と軽やかに弾む自由のステップだった。
第2章-4 辺境への旅立ち──白霧へ続く暁の轍
黒い夜気をはらんで馬車が静かに転がり出る。蹄鉄が土を打つ鈍いリズムに、車輪の軋みが絡まり、闇は低いチェロのように唸った。王都の灯は背後の谷を隔てて瞬き、城壁すら茶褐の稜線へ溶けこみつつある。荷台の中でティナ・ロッテリアは革筒を両腕に抱え、揺れに合わせて小さく息を整えた。朔望状の羊皮紙は冷たいはずなのに、胸の内側では微かな熱となって脈を打つ。自由の温度だ、と彼女は思った。
隊路の両脇には麦畑が無人の海となり、稀に立つ案山子が星明かりを受けて骸骨めいて揺れている。御者台のマルセルは手綱をゆるく掲げたまま、馬の歩度に合わせて鼻歌を絞る。侍女リリアは毛布を肩にかけ、ティナの隣に座って瞼を三分ほど閉じていた。車輪が石を弾くたびに彼女の編み込みが揺れ、微かなカモミールの香が漂う。
ひと刻ほど走ると、畑は小さな雑木林に変わった。月を遮る枝葉が不規則な影を地面に刻み、ランプの灯芯が風で瞬く。そこでマルセルは馬の首綱を引き、速度をさらに落とした。林を抜けると古い石橋。その向こうは植林の杉並木が道を包み、王都の追手どころか月光すら届きにくい。
「気配はありません」
御者台から低く投げられた声が夜気に溶ける。ティナは「ご苦労さま」と囁き返し、窓掛けの隙間から狭い夜空を仰いだ。星が薄雲を透かして白い矢を放ち、あたかもこの馬車の行方を示しているかのよう。
やがて並木が途切れると、遠くに羊小屋の油灯が三つ、疎らな集落を示していた。土道の両側に低石垣が連なり、夜風は牛乳と野草を混ぜた匂いを運んでくる。ティナは見取り図を書き込んだ地図を開き、父の字で書かれた〈白霧の丘〉と現在地の距離を指で測る。紙上の一指は実際の十数リーグ。あと二晩で到達できる計算だった。
「お嬢様、少し休まれますか?」
リリアが遠慮がちに問う。ティナは首を振り、窓枠に肘をついた。
「いいえ。眠るには惜しい夜色ですわ。……ほら、雲がとても静かでしょ。王都じゃあり得なかった静けさ」
リリアも窓辺を覗き込み、闇にぼんやり滲む雲を確かめた。湿りを帯びた冷気が頬を撫で、彼女は小さく身震いしたが、すぐに胸元で十字を切り「本当に、静か」と呟いた。ティナは笑みを深め、革筒をごそりと動かす。
「静けさは、音を溜め込む宝箱だと私は思います。この旅が終わる頃、宝箱はどれだけ満ちるのかしら」
マルセルが御者台で聞き耳を立てたように肩を揺らし、「きっとあふれ返るほど」と相槌を打った。そして馬の歩度を再び速足へ上げる。蹄鉄が湿った路面を刻むたび、水気を帯びた土が柔らかく跳ねた。
真夜中を回る頃、北から風向きが変わった。冷たい霧が地表を這い、馬車のランプが照らす範囲が淡い乳白に霞む。ティナはそれを見てほそく微笑む。――白霧の丘の前触れだ。地図に赤丸で示された辺境地帯は霧が名高い。風が湿りを運び、夜明けとともに銀の海へ変わるという。
「お嬢様、ブランケットを」
リリアが毛布を差し出す。ティナは礼を言い、それを肩へかけた。真綿の温度が背から伝わり、眠気が瞳底を揺らす。だがまだ眠れない。霧の丘に入る最初の瞬間を、はっきりと眼で捉えておきたいのだ。
さらに半刻後――土道は緩い坂へ差しかかった。息が白く染まり、霧が膝下まで濃くなる。マルセルが手綱を引き締め、馬の鼻息が白煙を散らす。薄闇に沈む前方には、草の丘陵が波のように連なり、その全てに雲母を溶かしたような乳白の霧がまとわりついている。ランプの光は届かず、しかし月明かりが霧を内側から淡く励起させていた。
「……着きましたわね」
ティナは囁き、霧の海を見つめた。白霧が音もなく往きつ戻りつし、丘の輪郭をぼかしていく。王都の鋭い塔や石壁とは対極の柔らかな境界。そして、この霧こそが辺境領ロイエンタールの玄関だった。
マルセルが馬車を止める。「ここから先、夜中は視界が利きません。夜明けを待ち、霧が少し晴れてから進むのが安全です」
ティナは頷き、「では、ここを野営地に」と決めた。リリアと協力して幌の内側に敷いた毛布を整え、猫のリシェルを膝へ呼ぶ。リシェルは霧の匂いを嗅いでから丸くなり、喉を鳴らした。
車内のランプを落とすと、外の霧光が幌から淡く漏れる。ティナは革筒を胸に当て、瞼を閉じた。脳裏を掠めるのは王太子の紅潮した顔でも侍女たちのざわめきでもない。白霧の向こうで自分を待つ、静寂と猫と紅茶の朝。そして必要とあらば、世界を利用し直すための舞台。
夜は深い。しかし霧は夜明けを孕んだ銀。遠くでリュートの弦を撫でるような風が吹いた。辺境へ続くその旋律が、ティナの浅い眠りをそっと導く子守歌となった。