エピローグ 静寂と紅茶と猫
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春の陽光が、離れ屋敷の庭に柔らかく降り注いでいた。
真新しい草花が芽吹き、
ささやかな噴水の水音が、心地よいリズムを奏でている。
ティナ・ロッテリアは、
そんな静謐な庭を背に、サロンのテラスに腰掛けていた。
膝の上では、白い毛並みの猫が丸くなり、
すやすやと小さな寝息を立てている。
傍らの小机には、銀のティーセット。
琥珀色に輝く紅茶が、ティーカップに注がれていた。
ほんのりと漂うダージリンの香りに、ティナは満足げに微笑んだ。
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(──ああ、これこそ、わたくしの求めた日々ですわ)
誰にも邪魔されない。
誰にも追われない。
誰にも媚びず、誰にも従わない。
ただ、紅茶と猫と本に囲まれ、
静かに、穏やかに暮らす日々。
それこそが、ティナ・ロッテリアの唯一の願いだった。
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庭の向こうで、モンゴメリー夫妻が静かに掃き掃除をしている。
モンゴメリー主人は、春の柔らかな陽射しに目を細めながら、
「今年も良い年になりそうですな」と小さく呟いた。
夫人も、ふわりと微笑んで頷く。
「お嬢様のおかげです。
こんなにも、穏やかで、豊かな日々が訪れたのは」
夫妻は、もはやティナを「お嬢様」という以上の存在だと感じていた。
敬愛、そして誇り。
それは言葉にするまでもなく、空気に溶け込んでいた。
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サロンの中では、柔らかな音楽が流れていた。
ティナが気に入って取り寄せさせた、異国の弦楽四重奏曲。
静かな音色に合わせて、
ティナはティーカップを軽く揺らし、猫の背を撫でる。
「ねえ、あなた」
猫がふにゃ、と寝ぼけた声を上げる。
「わたくし、少しだけ、頑張りましたわよね」
問いかけるように言うと、
猫は小さな手を伸ばし、ティナの膝にちょこんと乗せた。
その仕草に、ティナはふふっと笑った。
「ありがとう。
あなたが、わたくしの努力を認めてくれるだけで、十分ですわ」
誰も知らない。
誰も気づかない。
この国を裏から支え、
民に未来を与えたのが、誰だったのかを。
けれど、それでいい。
ティナは、自分が表舞台に立つことを望まなかった。
望むのは、ただひとつ。
この、穏やかで満ち足りた日常だけ。
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春の風が、そっとカーテンを揺らした。
窓辺の小机には、一冊の本が置かれている。
「民衆政治論──統治とは民のために」
ティナが選び、民たちに教えるために簡略化した本だ。
だが、今のティナには難しい理論も、改革の苦労も必要ない。
今はただ、ゆったりと時を感じ、
猫とともに過ごすことだけが、大切だった。
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遠く、王都の方角から、かすかに鐘の音が聞こえた。
市民たちが自主的に開いた、新たな議会の始まりを告げる鐘。
かつて、王族の命令一つで動かされていたこの国が、
今では民自身の手で運営されている。
それはティナの理想──
静かに、だが確実に実現しつつあった。
「……いい流れですわね」
カップを置き、ティナはそっと呟いた。
(民が、自ら歩くことを覚えれば、
わたくしが手を下す必要もない)
それこそが、ティナの静かな野望だった。
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モンゴメリー夫妻が、庭の手入れを終え、ティナに一礼する。
「お嬢様、午後の読書のご用意ができております」
「ありがとう」
優雅に微笑み、ティナは立ち上がった。
膝の猫が、ふにゃあと抗議の声を上げたが、
ティナは器用に抱き上げると、胸元に収めた。
「あなたも、一緒に読書ですわ」
猫は満足そうに喉を鳴らす。
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サロンの奥、陽だまりの中に置かれた肘掛け椅子。
そこに腰掛けると、ティナはそっと本を開いた。
物語の世界へと沈み込む前に、ふと思った。
──これ以上、何も望まない。
──これ以上、誰も傷つけたくない。
──これ以上、誰にも支配されたくない。
すべてを手に入れた今、
ティナ・ロッテリアは、初めて心からの安らぎを得ていた。
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春の陽射し、香る紅茶、猫の温もり、
そしてページをめくる静かな音だけが、
離れ屋敷の空間を満たしていた。
──この静寂こそが、ティナにとっての"王国"だった。
そして、この静かな革命を成し遂げた少女の名は、
誰も知らぬまま、歴史の陰に隠されていく。
それでいい。
なぜなら、ティナは知っていた。
真の支配者とは、
誰にも知られずに世界を動かす者なのだから。
──完──