第11章-1 ティナ教、静かなる発生
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新たな国王となったウォルフガング・ロイエンタールの戴冠式から数日。
冬の冷たい風がまだ王都を包んでいたが、人々の顔には希望の光が戻りつつあった。
長らく王族たちの腐敗に苦しめられてきた民衆にとって、
ウォルフガングの即位は、まさに新時代の到来を意味していた。
だが、その希望と熱狂は、やがて思わぬ方向へと膨れ上がっていくことになる。
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最初は、小さな噂話に過ぎなかった。
市場の片隅、教会の裏手、宿屋の一角。
人々はひそひそと囁き合った。
「我らを救ったのは、ロイエンタール様だけではない」
「そうだ、ティナ様だ。ティナ・ロッテリア公爵令嬢こそ、真の救済者だ」
「ティナ様がいたからこそ、我らは生きている」
王都のあちこちで、ティナの名が口にされるようになった。
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やがて、誰かが言い出した。
「ティナ様は、人ではないかもしれない」
「天から遣わされた守護者かもしれない」
「奇跡だ。あの魔王軍を一瞬で消し飛ばした。
それは聖女以上の神の業だ!」
そんな話が、酔った男たちや老婆たち、果ては子どもたちの間にまで広がり始めた。
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それだけではない。
誰かが、ティナの似顔絵を粗末な木版画にして売り出した。
──金色の光に包まれた、美しい少女。
──片手に剣、片手に聖なる花を持つ。
それは明らかに誇張され、美化されたティナの姿だったが、
民衆は熱狂的にそれを受け入れた。
版画は飛ぶように売れ、今や王都の至る所に、
「ティナ様」の聖像画が飾られるようになっていた。
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さらに悪いことに――
ごく自然な流れとして、祈りが生まれた。
「ティナ様、我らをお守りください」
「ティナ様、我らに救いを」
「ティナ様、我らに正しき道をお示しください」
小さな祈りは、やがて儀式となり、
組織となり、
いつしか『ティナ教』と呼ばれるようになった。
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当然、その動きはすぐにティナ本人の耳にも届いた。
ある日の午後、ティナは離れ屋敷のサロンで、
膝に猫を乗せながら紅茶を啜っていた。
そこへ、モンゴメリー夫妻の老主人が、深刻な顔でやってきた。
「……お嬢様、申し上げにくいことがございます」
「なあに?」
ティナはカップを傾け、無邪気な声で応じる。
モンゴメリーは咳払いし、切り出した。
「……王都で、お嬢様を崇拝する宗教団体が自然発生している模様でございます」
「──は?」
ティナは一瞬だけ、カップを持った手を止めた。
「宗教、ですって?」
「はい。最初は噂話にすぎなかったのですが……
今では、礼拝堂を建てようという動きまで出てきております」
「……」
ティナは無言で紅茶を置き、椅子の背にもたれかかった。
膝の上の猫が、ふにゃあと鳴く。
「……なんて面倒なことに」
静かな声だった。
冷たい冬の光が、サロンの窓から差し込んでいる。
だが、ティナの表情はいつになく冷えていた。
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モンゴメリー夫人も恐る恐る続ける。
「市民たちは、お嬢様を“聖なる守護者”と呼び、
救い主と讃えております。
……ですが、このまま放置すれば、
本格的な宗教化が進んでしまうでしょう」
ティナは瞼を閉じた。
静かに、ゆっくり、深く息を吐く。
(民の支持はありがたい。だが、宗教となれば話は別)
個人崇拝は、やがて盲信を生み、
いずれ制御できない怪物へと成長する。
そんなことは、前世で嫌というほど見てきた。
(わたくしが求めているのは、
民衆の理性と、自立による統治。
信仰に頼った愚かな支配ではありませんわ)
ティナは、そっと目を開いた。
「あらあら、困ったことになりましたわね」
微笑みながら、平然と告げる。
「すぐに布告を出しますわ。
わたくしの名を用いて団体・結社を作ること、
これを厳しく禁じる、と」
モンゴメリー夫妻は、同時に頷いた。
「かしこまりました、お嬢様」
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その夜、ティナ・ロッテリアの名のもとに、王都全域に布告が出された。
──
「ロッテリア・ティナの名を用いての宗教結社、ならびに信仰的活動を一切禁止する」
「違反した場合、不敬罪に問う」
──
その文章は、きっぱりと、そして冷酷に書かれていた。
人々は驚き、戸惑い、
だが次第に理解した。
「ティナ様は……やはり、聡明なお方だ」
「民に媚びず、正しき道を選ばれるのだ」
逆に、ティナへの信頼と敬意はさらに高まる結果となった。
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離れのサロン。
ティナはまた紅茶を傾けながら、微笑む。
「宗教にすがるような、
みっともない民には育てたくありませんもの」
冬の夜。
焚かれた暖炉の火が、彼女の横顔を照らしていた。
静かに、確実に。
ティナ・ロッテリアの影響力は、王都全体を包み込みつつあった。
第11章-2 宗教禁止布告後、ティナの真意と周囲の反応
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王都プティニエールに貼り出された、ロッテリア・ティナの名による公式布告。
それは衝撃と共に受け止められた。
『ロッテリア・ティナ公爵令嬢は、
自身を信仰対象とする一切の行為を禁ずる』
『名を用いた団体・結社の設立を認めず、違反した者は不敬罪に問う』
内容は明瞭で、非情なまでに断固としていた。
これまでティナを「救いの女神」と讃え、信仰の対象に仕立て上げようとしていた民衆たちは、
一様に困惑し、戸惑った。
だが――
同時に、彼らの心には深い尊敬の念が芽生え始めていた。
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「……ティナ様は、私たちに媚びない。
本当に、民のためだけに動いてくださったのだ」
市場の女商人たちが、集まって囁き合った。
「自分を神格化することで権力を握るような、
下卑たことはなさらないお方だ」
労働者たちが、酒場の奥で静かに杯を交わしながら語った。
「私利私欲ではなく、国を思って行動する方なのだ」
農民たちが、教会の前で誓うように語った。
──ティナの拒絶は、彼女への信頼をさらに強めたのである。
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一方、ロイエンタール城。
国王となったウォルフガング・ロイエンタールも、
この布告に驚きを隠せなかった。
「ティナ様……」
報告を受けたウォルフガングは、しばし沈思黙考した。
正直なところ、彼自身、ティナの存在を民衆の支持を得るために活用すべきか、と考えたこともあった。
だが、ティナはそれを一切許さなかった。
──己の意志で、すべてを拒絶したのだ。
(やはり、ただの令嬢ではない)
ウォルフガングは、改めて実感した。
ティナ・ロッテリア。
この若き令嬢こそが、真に国を動かす存在なのだ、と。
表に立つのは自分――
だが、陰でこの国を導いているのは、紛れもなく彼女なのだと。
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ロイエンタール城の謁見の間で、ウォルフガングは側近たちを集め、こう命じた。
「ロッテリア公爵令嬢の意思を最大限尊重せよ。
今後、彼女の名を利用しようとする動きがあれば、断固排除する」
「はっ!」
臣下たちが頭を垂れた。
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だが、その一方で――
ウォルフガングの胸には、微かな危惧も芽生えていた。
(ティナ様が求めるのは、真に理想の統治。
だが、それは同時に、我々貴族社会全体への挑戦にもなり得る)
彼は理解していた。
ティナの理想は、美しい。
だが、その実現には、多くの既得権益を破壊する必要がある。
(……この国は、変わる)
自分が守ろうとしている秩序すら、
やがてはティナによって変革を迫られるかもしれない。
それでも構わない。
ウォルフガングは、心の中で誓った。
(たとえ、どれほどの困難があろうと──
私は、あの方を信じ、支え抜く)
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その頃、離れの屋敷。
ティナは、膝に猫を乗せながら、報告書を淡々と読んでいた。
「ふむ……混乱は起きなかったようですわね」
静かな声で呟き、紅茶を一口。
モンゴメリー老夫婦が控えめに尋ねる。
「……お嬢様。
あれほどの信仰を、なぜここまできっぱりと拒絶なさったのですか?」
ティナは微笑んだ。
「簡単なことですわ」
カップを置き、猫を優しく撫でる。
「信仰とは、理性を奪うものです。
そして、理性を失った民は、容易に操られ、
やがて暴走します」
「……」
モンゴメリー夫妻は、言葉を失った。
ティナは、淡々と続けた。
「わたくしが目指すのは、
支配でも、独裁でもありません。
民たちが自ら考え、自ら選び、自ら生きる国です」
「ですが、お嬢様……それは非常に難しい道では?」
「ええ、承知の上ですわ」
ティナは微笑んだ。
その微笑みには、少女らしからぬ覚悟と、冷徹な知性が宿っていた。
「でも、だからこそ。
民に媚びる支配者にはならない。
民衆を神格化で縛る支配者にもならない」
静かに、しかし確信をもって言い切る。
それは、圧倒的な意志だった。
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夜更け。
ティナは暖炉の前で独り、星空を見上げていた。
冷たい冬の星たちが、静かに瞬いている。
「……利用されるのではなく、利用するのですわ」
小さく、小さく、ティナは呟いた。
それが、彼女の信条。
従順なふりをして、すべてを意のままに操る。
それこそが、ティナ・ロッテリアという存在なのだ。
そして今――
この国は、確かに彼女の手のひらの上にあった。
第11章-3 民衆の本当の覚醒とティナのさらなる布石
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ティナ・ロッテリアによる宗教活動の禁止布告から数週間。
王都プティニエールの空気は、明らかに変わり始めていた。
民衆たちは、ティナを盲目的に崇めることを止めた。
だが、それは失望や混乱ではなかった。
むしろ、彼らの心に芽生えたのは――
「自ら考え、自ら動かなければならない」という、
理性と自立の意識だった。
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市場では、商人たちが自主的に集まり、
公平な価格取引のための協定を作り始めた。
「高すぎる商品には誰も手を出さない。
値段を吊り上げた者には市場からの退出を求めよう」
農村では、農民たちが互いに助け合い、
余剰作物を融通し合う協同組合を作り始めた。
「困ったときはお互い様だ。
金だけじゃない、助け合いで生きよう」
職人たちは、質の悪い仕事をする者を自浄し、
技術を正当に評価する仕組みを作ろうと動き出していた。
──誰に命令されたわけでもない。
──誰かに崇めろと言われたわけでもない。
民たち自身が、変わり始めたのである。
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それを、ティナは離れ屋敷から静かに見守っていた。
暖炉の前、膝に乗せた猫を撫でながら、
毎朝届けられる報告書に目を通す。
「ふふ……順調ですわね」
優雅な微笑みを浮かべながら、静かに呟く。
モンゴメリー老夫妻は、最初こそ戸惑っていたが、
今ではすっかりティナの意図を理解し始めていた。
「……お嬢様が宗教を禁じた理由が、今になってよく分かります」
老主人が感慨深げに言う。
ティナは紅茶を啜り、さらりと答えた。
「ええ。
民を縛るために宗教を使うのは、短期的には便利ですわ。
ですが、長い目で見れば、必ず腐敗を招きますもの」
「……」
モンゴメリー夫人が、小さく頷く。
「信仰ではなく、理性と責任感を。
民衆自身に、自らの未来を選ばせる」
それが、ティナ・ロッテリアの流儀だった。
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だが、ティナは決して「見守る」だけで満足してはいなかった。
彼女は次なる布石を、静かに、しかし確実に打ち始めていた。
──民衆教育の推進である。
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「民に、学問と知識を」
それが、ティナの掲げた新たな目標だった。
まず、ティナはウォルフガング・ロイエンタール国王に提案書を送った。
内容はこうだ。
・識字率向上のため、各地に無償の基礎学校を設立する。
・農民や職人向けに、計算や基本的な法律知識を教える。
・王国法をわかりやすくまとめ、民に公開する。
・貴族や役人にも同様に、倫理教育を義務付ける。
提案を受け取ったウォルフガングは、最初こそ驚いた。
「民に知識を与える、だと……?」
だが、ティナの真意を聞かされ、深く頷いた。
「……無知なままでは、また圧政を許してしまう。
民が賢くならなければ、この国はまた腐る」
ウォルフガングは、ティナの提案を全面的に採用した。
こうして、ティナ主導による「民衆啓発計画」が静かに動き出した。
**
新たに建てられた簡素な学校。
木の机と石板だけの、粗末な教室。
だが、そこには活気が満ちていた。
子どもたちが読み書きを学び、
農民たちがそろばんを覚え、
職人たちが契約書の読み方を習う。
「先生、王国法って、民も守ってもらえるんですか?」
小さな少年の問いに、教師は答えた。
「もちろんだ。
法は、民を守るためにある。
それを忘れた王や貴族には、正義を求めることができる」
少年は目を輝かせた。
希望。
未来への希望が、確かに根を張り始めていた。
**
そして、そのすべてを動かしている中心に、
ティナ・ロッテリアがいた。
だが、彼女は表には一切出なかった。
あくまで、離れ屋敷の奥で、静かに微笑みながら――
(ふふ……順調ですわね)
**
夜。
ティナはバルコニーに出て、冬の星空を仰いだ。
冷たい夜風が、長い金髪をさらりと揺らす。
「……これで、よろしいですわ」
誰にともなく呟く。
民を奴隷にせず、
民を信仰で縛らず、
民が自ら立つ国を作る。
それが、ティナ・ロッテリアが目指す理想だった。
たとえ、それがどれほど遠く、困難な道であろうとも――
(民たちが育つのを、ゆっくり見守りますわ)
第11章-4 ティナの静かな支配確立と新時代の始まり
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冬の厳しい寒さがようやく和らぎ、
王都プティニエールには春の気配が訪れようとしていた。
瓦礫と血にまみれた王政崩壊から数ヶ月。
今、王都は再び息を吹き返していた。
商人たちは再び市を開き、
農民たちは種を蒔き、
職人たちはハンマーを振るい始めた。
すべてが、静かに、力強く回り始めたのだ。
そして――
その中心には、誰も知らぬままティナ・ロッテリアがいた。
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表向きの権力者は、国王ウォルフガング・ロイエンタール。
彼は民衆の信頼を集め、実直な改革を進めていた。
だが、その政策の骨子、進め方、調整案――
すべてが、ティナ・ロッテリアの手によるものだった。
ウォルフガング自身も、それを認めていた。
(私は、ただ前に立つ盾だ)
(真にこの国を導く光は、離れにおられるあの方だ)
だからこそ、彼は忠実にティナの意向を汲み、国を動かしていた。
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ティナは決して表舞台に立たなかった。
市民の前に出ることもなく、
政務の場に姿を見せることもない。
だが、すべての流れは彼女の意図した通りに進んでいった。
民衆啓発計画による教育の普及。
地方自治制度の導入による貴族権限の削減。
税制の改革による負担の公平化。
司法制度の整備による民衆の権利保障。
一つ一つが、小さな改革だった。
だが、それらは確実に国の土台を作り変えていった。
ティナの支配は、
力で縛るものではなく、
知識と制度で包み込むものだった。
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「民を信じて、任せる」
それがティナの哲学だった。
だからこそ、
民は「誰かにすがる」のではなく、
「自分たちの力で生きる」道を歩み始めたのだ。
──かつて、王族たちが民衆を支配し、搾取していたこの国。
──今は、民衆が自らの手で未来を切り開く国へと変貌しつつあった。
**
離れの屋敷。
ティナは、変わらず暖炉の前で紅茶を啜っていた。
モンゴメリー老夫婦が静かに控えている。
「……順調ですわね」
膝の上で丸くなる猫を撫でながら、ティナは呟いた。
モンゴメリー主人が、そっと口を開く。
「……お嬢様。
王都では、貴族たちの間でも、
『ティナ様こそ真の導き手だ』と囁かれております」
「ふふ……そうでしょうね」
ティナは、何も驚いた様子を見せなかった。
「けれど、それで良いのですわ。
わたくしは、民たちが理性を持ち、
自ら生きる道を歩んでくれるだけで、満足ですもの」
「……」
モンゴメリー夫妻は、胸を打たれる思いだった。
彼らの目の前にいるのは、
かつて『ただの公爵令嬢』だったはずの少女ではない。
冷徹な知性と、揺るがぬ覚悟を持った、
一人の支配者だった。
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だが、ティナ自身はそんなことに頓着しなかった。
彼女が求めていたのは、権力の座ではない。
自身が崇められることでもない。
「ただ、静かに暮らしたいだけですわ」
猫に頬を寄せ、愛おしそうに囁く。
(……静かに、自由に、
紅茶を飲み、本を読み、猫と戯れる日々)
そのためならば、多少手を汚すことなど、何でもなかった。
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やがて、春の陽射しが王都を包み込んだ。
市場には笑顔が戻り、
教会には感謝の祈りが捧げられ、
民衆の顔に、かつてなかった誇りが宿っていた。
誰もが、未来に希望を持ち、
自らの意志で歩み出していた。
かつて、この国に絶望していた者たちが、
今や、胸を張って生きていた。
──それこそが、ティナ・ロッテリアが望んだ光景だった。
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夜。
離れ屋敷のバルコニーで、ティナは夜空を仰いだ。
無数の星々がきらめき、
まだ少し冷たい春風が、彼女の髪を撫でた。
「……利用されるのではなく、利用する」
自らに言い聞かせるように、静かに呟く。
「民も、貴族も、王族も……
すべて、この国も」
微笑みながら、ティナは続けた。
「──でも、誰も不幸にしない形で、ですわ」
彼女は、誰よりも冷酷で、
誰よりも優しい支配者だった。
すべては、
彼女が愛する「静かなる日々」を守るために。
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こうして、ティナ・ロッテリアによる静かな支配が確立した。
王国に、本当の意味での新時代が訪れたのだった。
──それと気づく者は、ほとんどいなかったが。