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第10話 民衆蜂起と密命 ── 火種を撒き、王政を崩壊へ導く

10-1 ウォルフガングへの不審者報告と「ヒゲダルマ」誕生


**


ロイエンタール領主館。

冬の寒気が石畳を這い、館の重厚な扉を冷たく打ち付けていた。


そんな朝、執務室の扉が急に叩かれた。


「失礼いたします、ウォルフガング様!」


やや緊迫した声に、机に向かっていたウォルフガング・ロイエンタール侯爵は顔を上げた。


「入れ」


副官が慌ただしく入ってきた。


「ご報告がございます。

ティナ様の離れに、正体不明の男が出入りしているとのことです」


「……不審者か?」


ウォルフガングの表情が険しくなる。


副官は頷き、慎重に続けた。


「はい。身なりは粗末、全身を無精髭で覆った大男。

領内の者ではないことは確実。しかも、ティナ様と親しく話している様子も……」


「……ふむ」


ウォルフガングは立ち上がった。

無意識に拳に力がこもる。


(ティナ様に万が一のことがあれば、後悔してもしきれん)


「すぐに案内せよ」


「はっ!」


副官を従え、ウォルフガングは足早に館を出た。


**


渡り廊下を抜け、白壁の離れ屋敷が見えてくる。

その前に、件の男が立っていた。


見間違えるはずもない異様な風貌。

逞しい体躯に、顔中を覆う分厚い髭。

粗末なマントを纏い、じっと門前に立っている。


(……なんだ、あの髭は)


ウォルフガングは思わず眉をひそめた。


(まるで、ヒゲでできた達磨じゃないか)


呆れる気持ちを押し隠し、離れの扉を叩く。


コン、コン――


中から、いつもと変わらぬ涼やかなティナの声が響いた。


「どうぞ」


扉が開き、ティナ・ロッテリア公爵令嬢が現れた。

微笑みを浮かべ、完璧な立ち居振る舞いでウォルフガングを出迎える。


「まあ、ウォルフガング様。

ご機嫌麗しゅうございます」


「……失礼いたします。

少々、確認したいことがありましてな」


ウォルフガングは、そっと男のほうを示す。


「この男について……ご存知で?」


ティナは男を一瞥し、にっこり笑った。


「ええ、もちろん。わたくしがお招きした者ですわ」


「そうでございますか」


ウォルフガングは胸をなで下ろしかけた。

だが、どうにも納得できなかった。


あまりにも怪しい。


思わず、漏れる。


「……しかし、怪しさしかありませんな。

あんなヒゲダルマ」


「……ヒゲダルマ?」


ティナは、目を丸くしたあと、ぱっと顔を輝かせた。


「上手いこと言いますわね!」


くすくすと笑いながら、男のほうを向く。


「じゃあ、これからは『ヒゲダルマさん』と呼ぶことにいたしますわ!」


「……」


髭に覆われた大男は、何も言わずに静かに頭を下げた。


もはや反論の余地もなかった。


ウォルフガングは微妙な表情を浮かべつつも、ティナが機嫌よさそうにしているので、それ以上何も言えなかった。


副官は後ろで肩を震わせ、必死に笑いを堪えている。


**


ティナは、涼しい顔で言葉を続けた。


「ご安心くださいませ。

このヒゲダルマさんは、わたくしが信頼している者です。

害意など決して持ちませんわ」


「……承知しました」


ウォルフガングは一礼しつつも、心の中で複雑な感情を抱えていた。


(ティナ様がそこまで言われるなら、信じるしかない。

しかし……よりによって、ヒゲダルマとは……)


「ただし、周辺の警戒だけは続けさせていただきます。

万一に備え、目立たぬように」


「ありがとうございます。

ですが、目立つと困ることもありますので……お手柔らかにお願いしますね?」


ティナはウィンクしながら軽やかに告げた。


その無邪気な仕草に、ウォルフガングは胸の中で苦笑するしかなかった。


(やはり、この方は只者ではない)


**


離れ屋敷の扉が閉まる。

ティナと「ヒゲダルマ」の姿が見えなくなると、ウォルフガングは大きくため息をついた。


副官が忍び笑いを抑えきれず、漏らす。


「……ヒゲダルマ、でございますか」


「うるさい」


ウォルフガングは小声で返したが、内心では同意していた。


(まったく、ティナ様のセンスは……凄まじいものだ)


だが、彼にはわかっていた。


この小さな出来事すら、きっと何か大きな計画の一部なのだと。


ティナ・ロッテリア――

あの令嬢は、今、何かを動かし始めている。


そしてそれは、王都プティニエール全体を揺るがす、巨大な波となるだろう。


10-2 ヒゲダルマ、市民を扇動する


**


ロイエンタール領に戻ったティナ・ロッテリアは、静かに動き始めていた。


表向きは何も変わらない。

彼女は毎朝、紅茶を楽しみ、読書にふけり、たまに猫を膝に乗せながらうたた寝するだけの、優雅な令嬢であった。


だがその裏で、ティナの密命を受けた男――

あの髭だらけの大男「ヒゲダルマ」が、王都で水面下の活動を開始していた。


**


王都プティニエール。

一見すると以前と変わらぬ平和な街並み。


だが、魔王軍奇襲の記憶は民衆の心に深い傷を残していた。


「結局、王族たちはなにもしなかった……」

「我々を救ったのは、あのロッテリア公爵令嬢だったんだ」

「なのに、王は彼女を追放したままじゃないか!」


そんな不満が、くすぶる焚き火のように街角に広がっていた。


そこへ、ヒゲダルマが現れる。


彼は粗末な外套に身を包み、街の片隅――市場や居酒屋、教会の裏手など、人が自然に集まる場所に現れては、ぽつりぽつりと噂話を蒔いていった。


「あんたたち、知らないのか? 本当に王都を救ったのは誰だったか」

「聖女だと? 違う、違う。剣も振るえず、治癒すらできなかった」

「ロッテリア公爵令嬢だ。あの方だけが、魔王軍に立ち向かった」


**


最初、民衆は警戒した。


この国では、王族を批判すれば即座に罰せられる。

牢に入れられるだけでは済まない。

家を焼かれ、一族郎党が没落する例もあった。


だが、ヒゲダルマは急かさなかった。

ただ、静かに、確実に言葉を重ねた。


「この国がこんな有様なのは、誰のせいだ?」

「税ばかり重く、民は飢え、王族だけが肥え太る」

「こんな統治を許していいのか?」


酒場の隅、教会の裏手、市場の倉庫――

あらゆる場所でヒゲダルマの声は低く、確実に民衆の心に爪を立てた。


**


やがて、耳打ちされるだけだった不満が、声となり始めた。


「……あいつの言う通りだ」

「もう我慢できない」

「このままじゃ、俺たちはいつか飢え死にだ」


商人たち、鍛冶屋たち、農民たち――

地道に生きる市井の人々が、次第にヒゲダルマの周囲に集まるようになった。


彼らは、もはや自分たちが声を上げなければ何も変わらないことを知っていた。


**


ある夜。


王都の郊外、廃れた納屋に、数十人の民衆が集まっていた。


中央に立つヒゲダルマは、焚き火を背に、重々しい声で語りかけた。


「……諸君。我々は、王に捨てられたのだ」


沈黙。


「魔族が攻めてきたとき、王族たちは何をした?

あの太った王は、玉座に座ったまま震えていただけだ。

王子たちは無能さをさらし、聖女は治癒もできず、ただ逃げ惑った」


民衆の顔に怒りの色が広がる。


「だが――」

ヒゲダルマは拳を握りしめた。


「我々を救った者がいた。

それが誰か、諸君らも知っているはずだ!」


「ロッテリア公爵令嬢だ!」

「ティナ様だ!」


誰かが叫び、次々に声が重なる。


「ティナ様こそ、この国にふさわしい!」


「ティナ様のために立ち上がるべきだ!」


ヒゲダルマは、満足げに頷く。


(……ティナ様、お膳立ては整いつつあります)


**


一方、ロイエンタール領。


離れの屋敷で紅茶を傾けながら、ティナは静かに報告書に目を通していた。


モンゴメリー夫妻が用意した暖炉の前、膝の上には猫が丸まっている。


「ふむふむ……王都で、私の名を掲げる者が増えてきましたわね」


モンゴメリー夫人が心配そうに尋ねた。


「……お嬢様、本当に大丈夫でしょうか?

あまりにも危険なことに……」


ティナは、にっこり微笑んだ。


「大丈夫ですわ。

わたくし、表には一切出ませんもの」


優雅な笑み。


それは、まるで無邪気な少女のようでありながら、

誰よりも冷静で、誰よりも冷酷な支配者の微笑みだった。


(民を扇動するのではありませんわ。

民が勝手に立ち上がるだけ。

わたくしは、それを少し後押ししているだけ――)


静かに、密かに。

ティナ・ロッテリアの支配の輪郭が、確実に王都を覆い始めていた。


10-3 ヒゲダルマによる扇動拡大・王政批判の波


**


冬の王都プティニエール。

寒風が吹き抜ける石畳の路地に、暗い噂が渦巻き始めていた。


始まりは小さなものでしかなかった。

酒場で酔っ払った男たちが、誰に聞かせるでもなく愚痴る。

市場で品物を並べる老婆たちが、耳打ちし合う。

広場の噴水の脇で、子どもたちが小声で「ロッテリア様ってすごいんだって」と囁き合う。


だが、その小さなさざ波は、日に日に大きく、力強いうねりへと変わっていった。


**


原因は明らかだった。


ロッテリア公爵令嬢、ティナ・ロッテリア。

魔王軍の奇襲を、たった一人で殲滅した令嬢。

誰よりも民のために剣を振るい、誰よりも王族に見捨てられた存在。


「ロッテリア様こそ、本当の救い主だ」

「国王なんて、ただ玉座に座って震えてただけじゃないか!」

「聖女だって何もできなかった!」

「この国はもう駄目だ!」


口々に交わされる言葉が、街を覆っていく。


それらを巧みに、絶妙なタイミングで焚きつけていたのが――


あの髭面の男、通称『ヒゲダルマ』だった。


**


ヒゲダルマは、まるで見えない火打石のように、

民衆の間を歩き回り、静かに火種を落としていった。


市場では、野菜売りたちに囁く。


「税が高すぎるのは誰のせいだ?

あんたたちが朝早くから畑を耕しても、すべて搾り取られる。

それを決めたのは、誰だ?」


酒場では、疲れ果てた兵士崩れたちに語る。


「命を賭けて戦ったのに、褒美は何だ?

命令を下した王子はどこにいる?

安全な城で酒を飲み、女を侍らせているだけじゃないか」


教会では、膝をすり減らして祈る貧民たちに囁く。


「聖女? 彼女が本当に聖なる存在なら、なぜ苦しみは減らない?

なぜ、飢える子どもたちが後を絶たない?」


彼は決して、大声で叫ぶことはなかった。

あくまで静かに、穏やかに、

まるで親しい隣人のように語りかける。


その「小さな声」が、何よりも民衆の心を打った。


**


やがて、王都のあちこちに奇妙な現象が現れ始める。


貴族たちが馬車で通ると、民衆が無言で道を開ける。

だが、彼らの目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。


教会の鐘が鳴れば、祈りよりも先に、ため息が漏れる。


王族の宣伝隊が「王家の偉業」を誇れば、裏では笑い声が起きる。


民衆たちは、もはや権力を恐れなくなり始めていた。


「ロッテリア様なら……」

「ティナ様なら……」

「この国を変えられるかもしれない」


そんな希望が、まるで春先の雪解け水のように、

街の隅々にまで染み渡っていく。


**


一方、王宮は、その異変にまったく気づいていなかった。


国王シャルル三世は、玉座の上で相変わらず贅沢三昧。

美食に舌鼓を打ち、絹の衣をまとい、昼間から葡萄酒を傾けている。


王子ガンフィールドも同様だった。

自身の婚約者である聖女アルテナとの結婚を控え、

浮かれた日々を過ごしていた。


「民の不満? ただの貧民の戯言だろう」

「わたしが出向けば、民はひれ伏すさ」


そんな傲慢な言葉が、何度も王宮の中で交わされていた。


だが――


それは、あまりにも楽観的すぎた。


**


ティナの離れ屋敷。

モンゴメリー夫妻が暖炉の火をくべる傍ら、

ティナは優雅に紅茶を傾けながら、最新の報告に目を通していた。


ヒゲダルマから届けられた密書。


そこには、王都各地の民衆の動きが、詳細に記されていた。


「ふふ……順調ですわね」


ティナは、膝の上で丸くなる猫を撫でながら、静かに微笑んだ。


「誰も、わたくしが何をしているか気づきません。

民たちが自ら動き、王族たちは気づかぬまま……

愚かでいらして」


彼女の声には、一片の情けもなかった。


それは、圧倒的な勝者の微笑み。

冷たく、しかし限りなく優雅な支配者のそれだった。


(この国を正すためには、まず腐った土壌を洗い流さなくては)


ティナはカップを置き、窓の外を見やった。


遠く、王都の中心、王宮の尖塔が霞んで見える。


「まもなくですわ。

すべてを正す、その時が」


冬空に、白い息を吐きながら、

ティナ・ロッテリアは、静かに宣告した。


10-4 民衆蜂起、そして王政崩壊の序曲


**


王都プティニエールの空は、夜でも赤く染まっていた。


各地で上がる火の手、広場を埋め尽くす民衆の怒号。

この国の長い歴史の中でも、これほど大規模な民衆蜂起は未曾有だった。


だが、王族たちはそれでも現実を認めようとしなかった。


「何を騒いでいる!民どもを押さえつけろ!」


玉座に座ったまま怒鳴る国王シャルル三世。

王子ガンフィールドもまた、力を誇示するかのように命令を下す。


「親衛隊を出せ!反乱者どもを叩き潰せ!」


王族直属の親衛隊。

王都で最も精鋭とされる兵たちが、王子の命令のもと民衆の制圧に乗り出した。


剣を抜き、盾を構え、

武器も持たぬ市民たちへ無慈悲な暴力を振るい始めたのだ。


叫び、泣き叫ぶ民衆。

血が石畳を赤く染めていく。


──この瞬間、火に油が注がれた。


**


「貴様ら!民を守るはずの貴族と王族が、市民を暴力で鎮圧するだと!?」


ロイエンタール領主館。

報告を受けたウォルフガング・ロイエンタールは、怒りに震えていた。


彼の周囲に控える家臣たちは、戸惑いを隠せない。


「しかし……ロイエンタール様、それでは、骨抜きとはいえ反逆罪に……!」


「知るか!」


ウォルフガングは叫んだ。

青い瞳が、烈火のように燃えていた。


「私は市民を守るために立つ!

民を守ることこそが、貴族として、武人として、いや、人としての当然の義務だ!」


騎士たちが次々と顔を上げる。


「私も行きます!」

「殿に続きます!」


館にいた者たちは、一人残らずウォルフガングに従う覚悟を決めた。


さらに、驚くべきことに──


国王直属以外の国軍兵たちすら、ウォルフガングの決起に呼応した。


「これ以上、民を殺すのは御免だ」

「本当に国を救う者についていく!」


兵士たちもまた、心の奥では民衆と同じ怒りを抱いていたのだ。


**


ウォルフガング軍と国軍兵士たちは、まるで合図を合わせたかのように王宮へ進軍した。


親衛隊は抵抗したが、数に勝る民衆と兵士たちの怒りの波に飲み込まれた。

抵抗らしい抵抗もできぬまま、彼らは次々に武装解除されていった。


**


国王シャルル三世は震えながら玉座にしがみついていた。


「ば、馬鹿な……民草ごときが……!」


ガンフィールド王子も、もはや命令すらできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「く、くるなぁあああ!」


数時間後、国王シャルル三世、王太子ガンフィールド、その他王族と主要な貴族たちは、

すべて捕縛された。


もはや王権は地に堕ちた。


**


夜が明け、王都広場には民衆と兵たちが集まっていた。


臨時の市民会議が開かれ、捕えられた王族たちの処遇について話し合われた。


結論は、早かった。


──市民たちの怒りは深く、王族一派の処刑が圧倒的多数で決定されたのだ。


**


ティナ・ロッテリアは、静かに離れ屋敷で報告を受けていた。


膝の上で猫を撫でながら、紅茶を一口。


「ふうん。処刑、ですのね」


感情のない声。


(当然の結果ですわ)


王族たちが民を裏切り、暴力で鎮圧しようとした時点で、もはや彼らに未来はなかった。


**


市民たちの間で、新たな指導者を決めようという声が上がった。


自然と、ティナ・ロッテリアの名前が挙がった。


「ティナ様を女王に!」

「ティナ様なら、この国を変えられる!」


民衆の熱狂はすさまじかった。


だが――


ティナは、あっさりとそれを辞退した。


「ご辞退いたしますわ」


王都に集まった代表者たちに向かって、優雅に微笑む。


「私はただ、一市民として平穏な生活を望んでいるだけですの。

それに、民を導くに相応しい方は、すでにおります」


そう言って、彼女は一人の男に視線を向けた。


──ウォルフガング・ロイエンタール。


市民たちは驚いた。


だが、すぐに納得の声が広がった。


「そうだ!ウォルフガング様だ!」

「市民のために剣を取った、真の騎士だ!」


圧倒的な支持を受け、ウォルフガング・ロイエンタールは、新たな国王に推戴された。


**


式典の夜。

ロイエンタールは、離れ屋敷を訪れた。


ティナに、頭を深々と下げた。


「──この国を、あなたが守ったのだ。

私は、ただ剣を取っただけです」


ティナは、微笑みながら答えた。


「いいえ、ウォルフガング様。

あなたこそが、民の希望ですわ。

わたくしは、静かに紅茶を飲みながら、見守るだけで十分です」


ふふっと、冗談めかして笑う。


だが、その瞳の奥には、冷静な光が宿っていた。


──そう、すべては彼女の計画通り。


ロイエンタールを表の王とし、

ティナ・ロッテリアは、この国を陰から支配する黒幕となったのである。





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