目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第10話

「てか、ひなもよくそんな男と付き合い続けてたな?」


渇いた喉を潤すように彼が、ハイボールをごくごくと勢いよく飲む。


「今となってはほんと、謎ですよ。

あれですかね、こう、好きって気持ちだけで視野が狭まって、思考が停止してたとか?」


状況を説明するように両手を顔の脇に添えて横への視界を遮る。

もう、こうやって周りが見えず、彼氏しか見えていなかったとしか思えない。


「そうかもなー。

ひな、ちょっと頑固なところあったし」


「え、頑固じゃないですよ!」


うんうんと猪狩さんは頷いているが、私としては心外だ。


「えーっ、こう!って決めたらてこでも動かなかったじゃないか。

ぽんスケだって飼うって、おじさんとおばさんが折れるまで何時間も動かなくてさ。

ボランティアさんも苦笑いしてたぞ」


「うっ」


それを持ち出されると反論できなくなる。

ぽんスケは以前、飼っていた柴犬だ。

生活環境の変化で飼えなくなり、保護センターに来た犬だった。

たまたま通りかかったところであっていた譲渡会で一目惚れし、絶対、弟にすると譲らない私にとうとう両親が折れ、うちの子になった。

それから十年、私が高三のときに十五年の天寿をまっとうした。


「ぽんスケにはなんか、運命感じたんだもん」


目があった瞬間、動けなくなっちゃったんだよね。

ぽんスケもそれまで誰にもなびかなかったのに、私にはすり寄ってきて。


「まー、そういうのはあるかもな」


「でしょ?

大学受かったの、ぽんスケのおかげだって思ってるもん」


ぽんスケが死んだのは受験の直前で、ぐずぐずのまま、しかも判定ボーダーラインで受けた第一志望の大学は当然、落ちた。

けれどそのあと、補欠合格の連絡が来たのだ。

あれは絶対、ぽんスケのおかげだと私は今でも思っている。


「ぽんスケかー。

懐かしいな」


思い出しているのか眼鏡の奥で猪狩さんは目を細めた。


「さすがにもう、生きてないよな?」


唐揚げを口に運びながら彼が苦笑いする。


「もちろんですよ。

私が高三のときに虹の橋を渡りました」


「そっかー」


猪狩さんがどこか淋しげなのは、ぽんスケは彼にも懐いていたからだろう。


結局、明日のデートは私の要望どおり、映画を観てショッピングとなった。

なんの映画を観るか、ふたりで同じ携帯の画面を見ながら話しあう。


「俺が今、気になってるのはホラーだけど、デートでホラーはなー。

でもデートっぽいこういう映画は寝る自信がある。

ごめん」


猪狩さんが指した作品は「切なすぎる純愛ラブストーリー」などという宣伝文句がついていた。


「あー、私もこういう、いかにも泣かせてやろう!って感じのヤツ、苦手なんで大丈夫です」


彼に苦笑いで返す。

もう予告から泣かせてやろうという制作側の意図が見え見えな作品にはうんざりしていた。

自然に感動して泣く作品は好きだが、泣かせにかかってくる作品は反対に冷める。

しかしこれを言うと大抵、私はひねくれていると言われるのが心外だった。

彼もそうだったらどうしようと、ちらっと上目でうかがう。


「それ、わかるわー」


しかし猪狩さんも同意見みたいで、ほっとした。


結局、SFサスペンスものに落ち着いた。

チケット予約は猪狩さんがしてくれる。


「じゃあ、明日は俺が……」


「げっ、岡藤隊長だ」


唐突に声が聞こえ、猪狩さんが言いかけて止まる。

そちらを見ると若い二人組の男性が立っていた。


「げってなんだ、げって。

上司に向かって」


嫌そうに顔を顰める猪狩さんをよそに、ふたりが隣のテーブルに座る。

猪狩さんが上司ってことは、職場の部下なのかな。


「プライベートまで鬼隊長と顔をあわせたくないですよ」


二人組も嫌そうにため息をつく。

のはいいが、〝鬼隊長〟って?

私が知っている猪狩さんのイメージから鬼なんて単語は結びつかない。


「あー……」


私が困惑しているのに気づいたのか、猪狩さんは長く発して天井を仰いだ。


「……職場で俺、鬼隊長って呼ばれてるんだ」


少しして視線を戻した彼が、気まずそうに人差し指で頬を掻きながら情けなく笑った――瞬間。


「きっもっ!」


半ば叫んだかと持ったら、隣の席のふたりが本当に気持ち悪そうに両手で肩をさする。


「……見たか、今の」


「……ああ。

あの鬼が緩みきった顔してたぞ」


ちらちらとこちらをうかがいながらふたりはこそこそ話しているが、全部聞こえています。

それにしてもその、猪狩さんが笑うとか気持ち悪がるほど珍事なんだろうか。


「一瞬の油断が大惨事を招きかねない職場だからな。

いつも部下には厳しくしてるから、鬼隊長って恐れられているんだ」


苦笑いで猪狩さんがハイボールのグラスを口に運ぶ。

そっかー、なら仕方ないというのは理解するが、部下さんたちのあの反応はあんまりじゃないかな。


……その後も。


「……なあ。

鬼隊長が女連れってどういうこと?」


「……まさか彼女、彼女なのか?」


「……それこそありえなくないか?」


ふたりは届いたビールを飲みながらこちらをちらちらうかがい、頭を突きあわせてひそひそと話している。

彼女なんてありえないなどと言われていて、よほど猪狩さんは彼らに怖がられているらしい。


「……てか、彼女だとしたら犯罪じゃね?

彼女、オレらより年下に見えるぞ」


「……えっ、警察官が犯罪ってヤバくね?」


「あのなー」


それにはさすがに耐えかねたらしく、呆れたような大声を出して猪狩さんが彼らのほうへと身体を向ける。

おかげでふたりの身体が怯えたようにびくりと大きく跳ねた。


「このあいだ、結婚式で福岡行っただろ?

あのときの親友の妹なんだ」


「でも、年が離れすぎてませんか!?」


すぐにひとりが反論し、もうひとりもうんうんと頷いている。


「そりゃ、年の離れた兄妹なんだから仕方ない」


はぁーっと面倒臭そうに猪狩さんはため息をついた。

小さい頃、猪狩さんと歩いているとあまりの年の差にたまに不審者に間違われていたので、そのときを思い出しているのかもしれない。


「今、ここの近くの銀行に勤めてるってわかって、それから昔みたいに兄妹付き合いしてる。

それだけだ」


まだ付き合ってもいないのに彼らに私を彼女だと紹介するのは都合が悪いのも、自分からしばらくは兄妹付き合いでと言ったのもわかっている。

けれど彼の口からそう言われ、なぜか少し胸の内がもやっとした。


「うっす」


あまりに失礼なタイトだったと反省したのか、ふたりが身体を小さく縮み込ませる。


「わかったなら、いい」


それでようやく安心したのか猪狩さんは身体をこちらに戻し始めた。

それを見てふたりも解放されたのだとジョッキに手を伸ばした、が。


「なあ」


なにかを思い出したかのように猪狩さんが急にまたそちらを見て、彼らは勢いよくジョッキを置いて姿勢を正した。


「よかったらお前らもひな……愛川さんの勤めてる銀行で口座作れよ」


「は、はいーっ!

そうさせていただきます!」


にっこりと微笑んだ猪狩さんとは対照的に、よっぽど怖いのかふたりの目にはうっすらと涙が浮いていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?