お花見防衛戦線
――開始二時間前。
桜が咲き乱れる城東公園。その中でも見晴らしのよい斜面のエリアに、一人の女が静かに歩いていた。
氷室澪の護衛、氷室家直属のSP・倉子だ。
淡いグレーのジャケットに、スニーカー。一見して一般人にしか見えないが、彼女の目線は常に鋭く、死角と人の流れを確認している。
ベンチの裏、植え込みの陰、トイレの出入口、そして桜の枝にぶら下がるカラスの巣まで。
「異常なし、っと。あとは……あの飲み物売ってる屋台、氷室家に献上履歴なし。立ち入り時は距離取ってもらおうかしら」
彼女の行動は警備員のそれを遥かに超えていた。もはや、プロのシークレットサービスの領域である。
*
――開始30分前。
公園入り口から、二人の女性が歩いてくる。その姿を見たクラスメイトたちは、ぽかんと口を開けた。
「え、だれ……?」
「……えっ? あの人たち……倉子さんと真子さんじゃない!?」
そう。制服ではない――つまり、スーツでもない私服姿の倉子と真子が、珍しく一般人のような恰好で現れたのだ。
倉子は、落ち着いた色味のロングスカートにシンプルなシャツとカーディガン。真子はカジュアルなパーカーにジーンズ姿という、年相応なラフな装い。
「制服である必要はないわよね? むしろ、スーツじゃ逆に目立つと判断したの」
倉子がそう言いながら、手にしたジュースのペットボトルを軽く振ってからストローをさす。
だが、クラスの中には混乱する者もいた。
「えっ……引率の先生?」
「うちの水無瀬先生より年上に見えるんだけど……あの美人さん……」
「美人っていうか、圧あるよね……SPだって忘れそうになるけど」
「なにあの落ち着き……下手な大人より大人だよ……」
その視線の中、倉子と真子は人混みに溶け込むように、澪の近くに腰を下ろす。
「……あー……酒が欲しいわ」
そうつぶやいたのは倉子。手にしたぶどうジュースのボトルを虚ろに見つめている。
「勤務中っす。だめっす」
「わかってるわよ。でも……ほら、春の風って……飲みたくなるじゃない?」
「そりゃわかりますけど……高校生の集まりっすよ、ここ」
「……常識くらいあるわよ……」
そこへ桜の花びらが一枚、倉子の肩にふわりと落ちる。春らしい一幕――にもかかわらず。
「帰りたいっす」
「私もよ」
「でも、お開きになるまで、澪お嬢様を送り届けるまでが任務っす」
「……わかってるわよ……」
二人はため息をつきつつも、常に澪の周囲を視界に捉えていた。見た目は完全に休日を満喫する大人の女性――だが、内面はいつも通り臨戦態勢。
「……やっぱ酒がほしい……」
「帰りたいっす……」
「わかってるわ……」
「わかってるっす……」
そして、そんなぼやきも、澪の笑顔を守るためならば、彼女たちにとっては“平和な一日”の証なのだった。
小さな侵入者
春の日差しに包まれ、公園の桜は満開だった。 倉子と真子の見守る中、クラスの花見は穏やかに進んでいた。澪を中心に、和やかな空気が流れ、お弁当やジュースを囲んで、皆が笑顔を浮かべていた。
だが、事件は静かに起こる。
「……あれ? この子……誰?」 弓子がふと気づいた。輪の中に、小さな女の子が混じっていた。
「どこから来たの? ママと一緒じゃないの?」 そう声をかけると、女の子はキョロキョロと周囲を見回し、やがて倉子を見つけるなり、ぱぁっと顔を輝かせて──
「ママーっ!」
トコトコと駆け寄ってきて、倉子の腰に抱きついた。
「はぁ!? ちょ、ちょっと待って!」
周囲が一斉に固まる。
「先輩……隠し子がいたっすか?」 「く、倉子さん……?」
驚いた顔の真子と澪、そしてクラスメイトたち。
「違う! 知らない! 私の子じゃない! あなた、お名前は?」
「ちぃちゃん!」
「このお姉さんがママっすか?」
真子がそう聞くとちぃちゃんは倉子から離れ、今度は真子に駆け寄り──
「ママーっ!」
「へ!?」
「なんだ、真子の隠し子じゃない」 倉子がニヤニヤと笑いながら言う。
「ち、違うっす! 本当のママはどこにいるっす?」
「本当のママ……?」
ちぃちゃんはさらにキョロキョロし、今度は澪に抱きついた。 「ママーっ!」
「え? え? 違います! 産んでませんーっ!」
「澪お嬢様、何歳で産んだっすか?」
と、真子が小声でツッコミを入れる。
ついには、誰かれ構わず「ママーっ!」と抱きつくちぃちゃん。
弓子が困惑の声を漏らした。
「これは、困りましたね……」
その弓子にも、ちぃちゃんがしっかり抱きつく。 「ママーっ!」
「ええ!? ……はい、ママでちゅよ~」 と、半ばあきらめた顔で抱き上げる弓子。
「委員長、その子を連れて、公園の管理事務所に行ってみましょう。真子は、澪お嬢様についていて」 「了解っす!」 「はい、倉子さん、一緒に……行きます」
倉子と弓子はちぃちゃんを連れて、管理事務所へ向かった。
そこでは、すでに母親らしき人物が待っていた。
「ちぃちゃんっ!」 「ママーっ!」
弓子からちぃちゃんを受け取り、母親が抱き上げる。どうやら、ひと安心のようだ。
「よかった、委員長、戻りましょう」 と、倉子が言い、歩きながら二人は会話を交わす。
「本当によかったですね、倉子さんって……すごいんですね」
「え? なにが?」
「わたし、あんなとき、どうすればいいかわからなくて……」
「まあ、こんなのも仕事のうちよ」
「仕事……?」
「警備の仕事って、迷子の対応も含まれるの。だから、こういうのも想定内」
「なるほど……。もし管理事務所がなかったら?」
「その場合は、交番ね。たとえば、ここなら公園前交番に連れて行くわ」
「勉強になります」
「何の勉強よ?」
と、くすくすと笑い合う二人。
やがてクラスメイトの元へ戻ると──
「どうだったっすか?」
「無事、迎えに来てたわ」
「それはよかったっすね」
ほっとした空気が流れ、笑顔が広がる。
そのまま、お花見は楽しくも温かな雰囲気に包まれながら、お開きを迎えた。