1:午前授業とSPたちのため息
ゴールデンウィーク――それは、学生たちにとって待ちに待った長期休暇……のはずだった。
しかし、今年のそれは様相が違った。
「受験対策のため、ゴールデンウィーク中は午前授業を実施します」
そんな通達が出されたのは、ほんの数日前のこと。
学園内ではささやかなブーイングが起きたが、最終的には「午後は休み」という条件に皆折れた。
「ふぅー……午前だけでも授業があるならマシっすよ。変に学校休みになって“別任務”とか言われたら地獄っすからね」
机に突っ伏しながら、真子が心底ほっとした表情でそう呟いた。
「ええ。むしろ歓迎すべき事態だわ」
淡々と答えたのは、もう一人の少女・倉子だった。
二人は並んで机を並べ、制服姿で登校しているが、実のところその正体は――民間警備会社『アテナセキュリティ』の所属警備員。
彼女たちは現在、氷室財閥の一人娘である氷室澪の身辺警護を任され、学園に“生徒として”潜入している最中である。
任務の発端は、澪の父親である氷室財閥当主・氷室将英からの依頼だった。
多方面に敵を抱える氷室家の令嬢を学園に通わせるにあたり、潜入警護体制を敷くよう要望があり、それを受けたアテナが送り込んだのがこの二人だった。
「去年のGWは、たしか山奥のイベント会場で警備でしたっけ?」
「……ええ、虫の群れと格闘しながらね。あのときは本当に、泣きたくなったわ」
「マジであの任務だけは、トラウマっす……」
二人は、警備員という立場とは思えないほど砕けたやりとりを交わしているが、それもまた“潜入中”ゆえの演技の一環でもある。
とはいえ、学園生活を通じて、多少なりとも本音が漏れるようになってきたのもまた事実だった。
「今はこうして、“澪お嬢様”のそばで平穏に過ごせてるからいいっすよね」
「警戒は常に必要よ。油断してるときに限って“それ”は起きるものだもの」
「うわ、またそういうフラグ立てるようなことを……」
そのとき、彼女たちの会話を遮るように、やわらかい声がかかった。
「おはよう、倉子さん、真子さん」
声の主は、澄んだ瞳の少女――氷室澪だった。
彼女は長い黒髪をきれいに結い上げ、無駄のない所作で椅子に腰掛ける。
氷室家の名に違わず、気品と存在感をまとったその姿は、学園内でも一目置かれる存在だ。
「おはようございます、澪お嬢……いえ、澪ちゃん」
「おはようございますっす、澪っち」
「“っち”って……」
苦笑する澪に、真子はぺろりと舌を出す。
かつては“財閥のお嬢様”というだけで距離を置かれていた澪も、今ではクラスメイトたちと少しずつ打ち解けつつあった。
それは、生徒会活動を通じて積み重ねてきた実績と、澪自身の地道な努力の賜物でもある。
「最近、学校がちょっと楽しいなって思うんだ」
ぽつりと、澪がつぶやく。
「前は、周りの目が気になって、緊張してばっかりだったけど……」
「それは澪ちゃんが頑張ってきた成果っすよ」
「ええ。私たちは、少し手助けしただけです」
倉子はそう言って、微笑みながら軽く頭を下げた。
澪の目に、少しだけ感謝の色が宿る。
警護対象としての関係から、ゆっくりと「信頼」という絆が育ち始めていた。
「でも、本当に午後は自由でよかった……! もし休みになってたら、どこか地方の怪しい温泉地に飛ばされてたかもしれないっす」
「怪しいは余計。あれはれっきとした県認定の保養施設だったわ」
「夜に廊下で子供の笑い声聞こえたっすけど?」
「それは……たぶん気のせい」
くだらない冗談を交わしながらも、彼女たちの耳は常に周囲の物音に集中している。
任務に就いている以上、いかなるときも“有事”を想定し、備えるのが彼女たちの役目だ。
チャイムが鳴り、1限目の開始を告げる。
席に着きながら、倉子は小さくつぶやいた。
「こうしてると、本当に私たち、普通の学生みたいね」
「“みたい”じゃなくて、“なりきる”んすよ。完璧に」
「……努力するわ」
澪の視線の先で、朝の陽が教室に優しく差し込んでいた。
日常を守るために、今日も仮面をつけて、彼女たちは“学生”を演じ続ける。
だが――
まだ誰も知らなかった。
この翌日、澪がぽつりと切り出す「ちょっとしたお誘い」が、彼女たちの日常に、少しだけ優しい風を吹かせることになるということを。
2:護衛か、友達か
翌日の朝、氷室澪はややそわそわとした様子で教室に入ってきた。席に着くとすぐ、後ろの席の倉子へと身を乗り出す。
「ねえ、倉子さん。明日、ちょっとお願いしたいことがあるの」
「……お願い?」
隣の席の真子も、声を聞きつけてぴょこりと顔を上げる。
「何っすか? また学園行事の手伝いっすか?」
「ううん、そうじゃなくて……実は、クラスの子たちと一緒に、映画を観に行こうって話になってて。明日の午後、近くのシネコンに」
倉子の目が一瞬だけ鋭くなる。
「それは……つまり、学外への外出ですね」
「うん。でも、そんな遠くじゃないし、前にみんなで話してた映画の公開日がちょうど明日で、チケットも予約してあるの」
真子が、ふと緊張を含んだ声で言った。
「澪っち、それ、我々に黙って外出しようとしたら、上から怒られるやつっすよ?」
「だ、だから今ちゃんと話してるのよ?」
澪は両手を合わせて、苦笑交じりにぺこりと頭を下げた。
その仕草が妙に可愛らしくて、真子は思わず口元をほころばせる。
「まあ……事情を聞かずに否定するのも野暮っすから、一応確認するっすけど。同行者は?」
「女子だけ、クラスの仲良い子たち数人。もちろん、映画だけで、終わったらすぐ解散のつもりよ」
倉子は一度静かに目を閉じた後、口を開く。
「了解しました。影から護衛にあたります。こちらで先に劇場と館内動線を調べて、非常時の退避ルートも確保します」
「え……? 影から?」
「当然です。護衛任務中ですので」
「ちょ、ちょっと待って。それって、私が友達と映画観てる間、二人はずっと隠れてるってこと?」
倉子と真子は、ほぼ同時にうなずく。
「それが本来の任務の形ですから」
「映画館は暗いっすし、背後の通路から警戒すればバレないっすよ。ポップコーンは買いませんけど」
「いや、ポップコーンの有無は別に……」
澪は額に手を当てて、困ったように小さくため息をついた。
そして、意を決したように言葉を続ける。
「ねえ、二人とも。私の“護衛”であることはわかってる。でも……それだけじゃなくて、私は、二人を“友達”だと思ってるの」
言葉の温度が、空気を変えた。
倉子が目を丸くし、真子は息を呑んだ。
「だからね、明日は“影から”なんて言わないで、一緒に来てよ。友達として。一緒に映画、観ようよ」
「……」
言葉を失ったのは、倉子の方だった。
これまで幾度となく護衛任務をこなしてきた彼女にとって、“対象”と“友人”という区別は絶対だった。プロとしての一線。それを越えることは、あってはならない――そう教え込まれてきた。
だが今、その“対象”が自分を真正面から「友達」と呼び、手を差し伸べてきたのだ。
「我々が……一緒に、ですか?」
「うん。制服じゃなくて、私服で。並んで映画観て、笑って、ちょっと泣いたりして……。そんなこと、一度でいいからしてみたくて」
真子が、気まずそうに頭をかく。
「……正直、それ、ちょっと楽しそうっすね。映画館行くの、学生時代ぶりかも」
「真子さん、いまも学生よ」
「……あっ、そうっすね」
思わず笑ってしまった澪に釣られて、倉子も小さく息を吐いた。
「……本部に確認を取りましょう。任務外行動ではなく、“親密関係構築による護衛補強”という名目ならば、同伴も可能です」
それはつまり、**“一緒に行く”**という返答だった。
「やった!」
澪は満面の笑みを浮かべて、ふたりの手をぎゅっと握った。
「明日、楽しみにしてるね。ちゃんと私服で来てよ?」
「……その、“らしい”服、持ってるかしら……」
「倉子さん、地味なのばっかですもんね。たまにはガーリーなの着るといいっすよ!」
「……考えておくわ」
こうして、任務の境界線はほんの少しだけ揺らぎ始める。
氷室澪と、彼女を護る二人のSP。
明日――彼女たちは初めて、“護衛と対象”ではなく、“友達”として並んで映画館のスクリーンを見つめることになる。
3:クラスメイト、そして仲間
翌日――
朝から空は晴れ渡り、まるで休日のために用意されたような完璧な青空が広がっていた。
午後からの映画に備えて、午前授業が終わった教室は、どこか浮足立った雰囲気に包まれていた。
「倉子さん、真子さん! 一緒に行くんでしょ?」
昼休み、クラスの女子のひとりが声をかけてきた。問いかけの先には、制服から私服に着替えた倉子と真子の姿があった。
「え、ええ。お誘いを受けて……その……」
倉子は少しぎこちない笑みを浮かべる。校内で“学生のふり”をすることには慣れていたが、こうして**“クラスの仲間として出かける”**というのは初めてだった。
「ふふ、意外。倉子さんって、いつも硬いイメージあったけど、ちゃんと私服も似合ってるじゃん」
「そ、そうですか……?」
見慣れない私服姿に戸惑いつつも、倉子は静かに礼を返す。
一方の真子は、動きやすいラフなパンツスタイルにジャケットを羽織り、いつも通りのテンションでにやけていた。
「つーか、倉子さん、ほんと地味っすね。もうちょい明るい色着ればよかったのに」
「うるさい。私は地味ではなく、シンプルなの」
「澪っちに選んでもらえばよかったのに~」
その澪はというと、駅前でクラスメイトたちに囲まれながら、嬉しそうに手を振っていた。
「倉子さん、真子さん! こっちこっち!」
澪の私服は、清楚な白のワンピースに薄手のカーディガン。派手ではないのに、どこか絵になるその姿は、やはり“財閥令嬢”の品を感じさせた。
だが、それ以上に目を引いたのは、彼女が心から楽しそうにしているということだった。
かつて、周囲の視線を恐れていた澪は、今やこうして友人たちの輪の中心にいる。
「……変わったわね、澪お嬢様」
倉子が小さくつぶやく。
「環境も、本人も、ちょっとずつ。……いいことっすよ」
真子が横でうなずく。
グループは映画館のロビーに到着し、受付の前でチケットをスマホで表示する組、紙で持ってきた組とでわちゃわちゃと慌ただしくしていた。
「倉子さんたち、並び席だから、あたしの横ね!」
「えっ、私の横が澪ちゃんなのに!」
「えー、交代してよー!」
いつの間にか、倉子と真子は“当然のようにその輪の中”にいた。
護衛対象の“同行者”ではなく、仲間のひとりとして。
やがてシアターに入り、映画が始まる。
途中、真子の鼻すする音が聞こえたり、後ろの席の誰かがうっかりジュースを倒したりと小さなトラブルもあったが――
澪は一度も後ろを気にせず、終始まっすぐスクリーンを見つめていた。
まるで、「信頼してる」とでも言うように。
上映が終わり、館内が明るくなると、すぐに拍手と感想の嵐が巻き起こった。
「泣いたー! あのラストはずるい!」
「音楽も最高だったね!」
「でも主人公、途中までめっちゃ空気読まなかった?」
「それがリアルなんじゃん!」
騒がしい空気の中、澪がそっと倉子の袖を引いた。
「倉子さん、どうだった?」
「……感想ですか?」
「うん。たぶん、こういうの一緒に観るの、初めてだったでしょ?」
倉子は少しだけ口元を緩めた。
「思ったより、悪くなかったわ。映画というものも、たまには良いものですね」
「ふふっ、よかった」
そこに真子が割り込んでくる。
「でさー、次はあれっすよ! カラオケっす! 行くでしょ? 全員で!」
「えぇっ、そんな流れだったっけ!?」
「行こう行こう! だって、連休だもん!」
「……午後だけな」
4:笑顔と昭和と、ちょっとした照れ隠し
映画館を後にした澪たち一行は、すっかりテンションの上がったまま駅前のカラオケボックスに向かっていた。
「まさか泣くとは思わなかった~!」
「上映後、真子さんの鼻すすりがすごくて隣の人もらい泣きしてたよね!」
「ばっ、ばれてたっすか!? くそっ……プロとしてあるまじきっ!」
「それ言うなら、ポップコーン三回も落とした人がいたけど……」
「……それは、うっかりっす……」
わいわいと騒ぐ中、予約した大部屋に通されたメンバーは靴を脱ぎ、思い思いにソファへと腰を下ろしていく。
澪も笑顔で座りながら、隣の倉子にこっそり囁く。
「……こんなふうに、みんなと一緒に騒げるの、夢みたい」
「それが夢なら、私たちがちゃんと護ってますから。全力で、安心して楽しんでください」
そう言ってから、倉子は小さく笑った。
その笑みが、澪には何より嬉しかった。
「よーし! 最初の一曲、誰行くー!?」
「じゃあ、真子さん!」
「ええっ!? いきなりっすか!?」
「ほら、場を温める係でしょ?」
「それ、空気読み係ってやつっすよね!? わかったっす、やってやるっす!」
真子は立ち上がると、マイクを手に取ってアニメソングを選んだ。
サビの部分では変顔で熱唱し、全員が大笑い。会場が一気にあたたまる。
そして次々に回るマイク。澪も控えめながら可愛らしいアイドルソングを歌い、「澪ちゃん歌うまっ!」と歓声が上がった。
そして――
「じゃあ、次は倉子さん!」
「……え?」
「もう逃げられないよー!」
渋々ながらもマイクを手にした倉子は、真剣な眼差しでリモコンを操作した。
(歌詞をちゃんと覚えてる曲……無難なものを……)
そして選んだのは――
♪ 時をかける少女~ ♪
イントロが流れた瞬間、部屋の空気が一瞬静まり、その後でどっと笑いが起きた。
「えっ、それ昭和の曲じゃない!?」
「っていうか、親のカラオケ定番曲じゃん!」
「うそ、渋すぎる!」
頬をほんのり赤らめながらも、倉子は真顔で歌い始めた。
真剣そのものの歌唱に、逆にみんなが聴き入ってしまい、サビで自然と手拍子が始まった。
歌い終えると、どこからともなく拍手が。
「すご……地味に歌うまい……」
「選曲が昭和なのが逆にクセになる……!」
「ギャップ萌えってやつだね!」
倉子は席に戻りながら、小声で真子に囁く。
「……地味って言われたわね」
「褒めてたっすよ、たぶん。“地味かわ”ってやつっす!」
「そんなジャンル、あったかしら……」
その後も、澪とクラスの女子たちはリレーのようにマイクを回し、恋愛ソングで盛り上がったり、懐メロをぶっこんだり、アニソンで踊りだしたりと、大騒ぎの午後を過ごした。
気づけば、あっという間に夕方になっていた。
「……今日は、本当にありがとう」
店を出る頃、澪がぽつりと呟いた。
その顔には、充実した一日の余韻と、名残惜しさがにじんでいた。
「こちらこそ。私たちも楽しかったです」
「……また、行ってくれますか? 今度は、映画じゃなくても。お茶とかでも、普通の放課後でもいいから」
その問いかけに、倉子は一拍置いてから、静かにうなずいた。
「もちろんです。“護衛”としてだけじゃなく、“友人”として」
澪の笑顔が、春の夕焼けのように優しく広がった。
こうして――
氷室澪と、護衛に扮するふたりの少女は、護衛対象と警備員ではなく、“クラスの仲間”としての一歩を、確かに踏み出したのだった。