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第36話 弓子

:委員長の視線


 放課後の教室。静かになった空間に、ほんのわずかなざわめきが残っていた。

 倉子はいつものように鞄をまとめながら、ふと背後からの視線に気づいて顔を上げた。

 目の前に立っていたのは、大橋弓子――クラスの委員長。成績優秀、真面目で、公平。そんな評価を持つ彼女が、まっすぐこちらを見つめていた。


「倉子さん……少し、お話しできますか?」


 柔らかい声ではあったが、その表情は真剣だった。

 倉子は一瞬だけ戸惑いながらも、椅子に座ったまま「いいよ」と返した。

 弓子は空いている席に腰を下ろし、手帳をぎゅっと抱えるようにして口を開く。


「前から、ちょっと気になっていたんですけど……警備のお仕事って、どんな感じなんですか?」


 思わぬ質問に、周囲にいた生徒たちが「え?」と目を見開く。倉子も一瞬、目を細めた。


「なんでそんなこと聞くの? まさか、警備員になりたいとか?」


 冗談交じりに笑うと、隣にいた真子が口を挟んだ。


「いやいや、委員長は進学コースっす。そんなわけないっすよ!」


「ですよね~」と倉子も肩をすくめるが、弓子の表情は変わらなかった。


「ただ……前からずっと、気になってて。倉子さんと真子さんって、クラスに溶け込んでるのに、なんか別の世界の人っていうか……」


「そりゃまあ、一応お仕事だからね。公にはしてないけど、みんな知ってるし」


 それは“公然の秘密”だ。澪の護衛として潜入しているが、もはや2年の学生生活を通して、周囲も何となく理解していた。

 それでも弓子の声には、もっと踏み込んだ興味がにじんでいた。


「その、毎日どんなことしてるんですか? 大変じゃないですか?」


「んー……ブラックよ、正直」


 倉子は真顔で言った。弓子は目を丸くする。


「休日はなくなるし、交代制だけど深夜勤務もあるし……あと命の危険もつきもの」


「ひゃっ……」


 思わず弓子が肩をすくめると、真子が笑った。


「でも、その分やりがいもあるっすよ。澪お嬢様、良い子だし」


「うん……それは、わかります。氷室さんって、全然偉そうにしないし、自然体ですよね」


「……なんか、今日は委員長、やたらフレンドリーね」


 倉子が眉をひそめると、弓子は少し顔を赤らめながらも、きゅっと手帳を握りしめた。


「倉子さんと話すの、ずっと勇気が出なくて……今日、思い切ってみました」


 その一言に、倉子はむしろ気圧された。警備員である自分に、そんな風に近づいてくる人はあまりいない。


「……そうなんだ」


「それで、あの、もしよかったら……今度の休日に、お茶とか、ご一緒できませんか?」


「お茶?」


「はいっ……その、もっとお話ししたいです。いろいろ、聞いてみたいことがあって」


「うーん……まあ、暇ならいいよ」


「ほんとですか!? やった……ありがとうございます!」


 ぱっと笑顔になる弓子。その無邪気さに、倉子は少しだけ頬を緩めた。

 そしてその様子を見ていた真子が、ぼそっと呟いた。


「委員長、マジで倉子さんのこと……憧れてるっすね」


「……だから、変なこと言わないでってば」


 そんなやり取りの中で、教室の外にはもう夕日が差し込み始めていた。


:二人きりの喫茶店


放課後の陽射しは、春の終わりにしてはまだ柔らかく、まるで彼女たちの間の距離を少しだけ縮めようとしているかのようだった。


「ここ、知ってました?校門から徒歩五分くらいで来れるんですよ」


そう言って大橋弓子が案内したのは、木造の温もりを感じさせる小さな喫茶店だった。クラシック音楽が静かに流れ、壁一面に並ぶ本棚が印象的な空間だ。


「…知らなかったわ。こんな落ち着いた店があったなんて」


倉子は少し警戒しながらも、弓子と向かい合って席に着いた。


「コーヒーでいいですか?ここのブレンド、意外と美味しいんですよ」


「ありがと。でも…ほんとに何なの?急に私に興味なんて」


倉子の問いに、弓子はカップを手に取りながら、少し頬を赤らめた。


「…あの、憧れてるんです。倉子さんのこと」


その一言に、倉子の眉がぴくりと動く。


「は?」


「私、ずっと見てたんです。1年生のときから。クラスの中でもちょっと浮いてたけど、澪さんのこと、いつも本気で守ってて。時々すごく冷たそうに見えるのに、困ってる子にはさりげなく手を貸す。そういうとこ、格好いいなって思ってました」


「……いや、あれは仕事で…」


「分かってます。民間のセキュリティ会社所属で、氷室会長の依頼で潜入してるんですよね?それって、もうほとんどバレてるし、みんな理解してますよ。だから、そういうことも含めて、ちゃんと向き合ってて、偽らない倉子さんが好きです」


「好きって…」


「尊敬、です。…多分」


少し視線を逸らした弓子に、倉子は返す言葉を見つけられなかった。


その瞬間、店内の静けさが、逆に心臓の鼓動を際立たせる。


「……あのさ」


「はい」


「私、たしかに仕事してるだけだし、学生っていうのも建前。でも、たまにさ、こうして普通の子として見られると、ちょっと、嬉しいかも」


弓子は目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。


「じゃあ、また一緒にお茶してもいいですか?」


「……考えとく」


倉子はそう言いながらも、目の奥ではほんの少し笑っていた。



---


:憧れの距離


日曜の午後。澪の護衛任務もなく、久々に完全なオフとなった倉子は、真子と連絡を取り合ったあと、一人で街へ出かけていた。


「たまのオフなんだから、たまには一人でぶらぶらするのもいいわよね」


そんな呟きを口にしながら、駅前のショッピングビルのカフェへと足を運ぶ。


すると、ガラス張りの入口の外で、まるで待ち伏せでもしていたかのように、制服姿ではない大橋弓子の姿があった。


「倉子さん!」


「あれ、委員長? ……え、なんで?」


「この前言ったでしょ?『今度お茶でも』って。ちゃんと約束通り来ましたよ」


「いや、それって社交辞令じゃなかった?」


「そんなことないです!」


弓子は満面の笑みでそう言って、倉子の腕を取ると店内に誘導する。こうして、二人のカフェタイムが始まった。


店内の奥まった二人席に通され、倉子は戸惑いながらもメニューを開く。一方、弓子は嬉しそうにストローを指でくるくるしながら話を切り出した。


「倉子さんって、ホントかっこいいですよね。あの柔道の授業のときも、先生に投げ技かけて止めたでしょ? あれ、クラス中の女子が見てて騒いでましたよ」


「……あれ、必要最低限の制止だったんだけど」


「しかも、制服姿でも姿勢がピシッとしてて、すごく様になってます。どうしてそんなに凛としてるんですか?」


「……現場仕事してたら、自然とね。警備ってそういうもんよ」


「その警備って、やっぱり大変なんですか?」


弓子の目は真剣だった。


倉子は、いつもの調子で軽く笑って返そうとしたが、ふと真面目な口調になった。


「大変っていうか……いつでも気を張ってるから、油断したら終わり。でも、澪お嬢様の護衛任務は、ある意味では恵まれてる。あの子、素直で優しいし、無理もしないから、守りやすい。……うん、ありがたい現場よ」


「やっぱり……」


「え?」


弓子は、紅茶を一口飲んでから、カップをそっとソーサーに戻した。


「私、ずっと見てたんです。1年生のときから。倉子さんがどうクラスに溶け込んで、でも芯を曲げずに、任務をこなしてたのか。かっこいいってずっと思ってました」


「そんな大したもんじゃないわよ。私は私の仕事をしてるだけ」


「それがすごいんです」


急に静まり返るテーブル。


倉子は少し照れたように視線をそらし、ミルクティーに口をつける。


「でも、委員長……あんた、進学希望だったでしょ? なんで私の仕事なんかにそんな興味を?」


「うーん……進学はするつもりです。でも、それはそれとして……。あ、私、ちょっとだけ憧れてたんですよ。警備って、誰かのために立つ仕事でしょ? それってすごく素敵だなって」


倉子は目を見開いたあと、やや苦笑気味に言った。


「……でも、あんまり勧められる仕事じゃないよ? 不規則だし、危険だし。何より、体力勝負」


「はい。それでも、知りたかったんです。倉子さんが何を見て、何を考えて、この2年間を過ごしてたのか」


「……なんか、変な気分ね。私なんかが、誰かに憧れられるなんて」


「憧れますよ! それに――」


弓子は少し顔を赤らめた。


「……私、もっと倉子さんと仲良くなりたいです。もし迷惑じゃなければ、またご一緒してもらえませんか?」


一瞬、言葉に詰まった倉子だったが、やがて苦笑を浮かべて答えた。


「……ま、悪い気はしないわ。気が向いたら、また付き合うわよ」


「ありがとうございますっ!」


澄んだ日曜の午後、カフェのテラス席には、心地よい風と、ちょっとくすぐったいような空気が流れていた。


:雨上がり、三人の放課後


六月の雨は、放課後の空をしっとりと濡らしていた。


護衛任務として、澪を無事に邸宅まで送り届けた後、倉子は車をそのまま走らせ、真子を助手席に乗せて市街地へ向かっていた。


「じゃあ倉子、このまま真っすぐ駅前でいいっすよ」


「了解。……でも、その前に一人、ピックアップしてくる」


「……誰っすか?」


「弓子さん。クラス委員の用事で、ちょっとだけ話したいことがあるんだって」


「へぇ~、放課後の密会っすか?」


「違うってば!」


倉子の顔がわずかに赤くなるのを、真子は楽しげに見ていた。


校門近くの歩道に傘を差して立っていた弓子が、倉子の車に気づいて軽く手を振った。


「どうも、お邪魔します」


「いえ、乗ってください。……委員会の話って?」


「うん、それもあるけど……放課後ちょっとだけ、お茶しませんか?お礼も言いたくて」


「お礼……?」


「この前の、体育祭の後。助けてくれたでしょ、澪さんのことで」


真子が後部座席で「おおっ」と反応しつつ、「じゃあ三人でお茶タイムっすね」とにやけた。


三人が立ち寄ったのは、駅前の落ち着いた雰囲気のカフェだった。雨に濡れたガラス越しに、夕暮れの光が差し込む。


「こうして普通に、友達と放課後を過ごせるなんて、少し不思議な気がするわね」


弓子がそう呟いたとき、倉子はふと手元のマグカップを見つめた。


「私たち、ただの“普通の生徒”じゃないけど――」


「でも、普通の生徒として過ごすことに意味があるって思ってます。……澪さんにとっても、私たちにとっても」


「……そうかもね」


真子がストローをくるくると回しながら、ニヤリと笑う。


「なんか、青春してる感じっすね。こういうの、嫌いじゃないっすよ」


倉子と弓子も、思わず笑った。


帰り道、日が傾き始めた空は、うっすらと朱色に染まっていた。


倉子が再びハンドルを握り、弓子を最寄り駅まで送り届けると、助手席の真子がぼそりと呟いた。


「なんか……こういう日って、忘れたくないっすよね」


「うん。雨上がりって、ちょっと特別だよね」


「次は七夕か、夏祭りか……」


「その前に、テストがある」


「あぁ、それは聞きたくなかったっす……」


車内に笑いが満ちたまま、日常の時間が静かに流れていく。


六月の雨は止み、アスファルトには夕陽が映り込んでいた。


――そして、少女たちの「任務」と「日常」は、今日も静かに交差している。




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