第38章:七夕祭りへの同行
:任務としての“同行依頼”
七月に入ってすぐのある日。蒸し暑い空気が校舎の中にまで漂い始めた午後の放課後、倉子は自分の腕時計に目を落としながら、廊下を早足で歩いていた。教室に戻ると、真子が澪のカバンを手に取って待っていた。
「澪様は準備OKっすよ。帰りの車、いつものルートでいいっすか?」
「うん。エアコン全開でお願い。溶けそう」
倉子が苦笑しつつ答えたその時、警備会社の連絡端末が小さく震えた。画面を見ると、アテナセキュリティの本部からの緊急ではないが、直ちに確認すべき通知だった。
『氷室澪嬢の護衛対象行動申請:外出予定あり。七月七日、地域七夕祭り同行要請』
「七夕祭り……?」
思わず声に出した倉子に、隣で真子が首を傾げた。
「なんすか、それ。澪様が行きたいって言ったんすか?」
「わからない。でも、依頼主は氷室家。つまり……お母様からの依頼だね」
連絡の詳細を確認すると、澪の希望で小規模な地域の七夕祭りへ参加したいとの申し出があったとのこと。ただし、人目を避けるため、時間帯や行動には細心の注意を払う必要がある。護衛兼同行者として倉子と真子の名が明記されていた。
倉子は少し黙って考えたのち、真子の方を見て言った。
「……ま、年に一度のことだし、澪が行きたいなら、付き合うしかないでしょ」
「任務っすからね。でも、お祭りとか久々で、ちょっと楽しみかも」
その後、澪と合流した二人は、車内でその話題を切り出す。
「澪、七夕祭り、行きたいんだって?」
助手席に座る澪は、窓の外を見たまま短く答えた。
「……うん。昔、行ったことがあるの。ちょうどその時、願いごとが叶って」
「へえ、ロマンチックっすね。どんな願いごとしたんすか?」
真子の軽い問いに、澪は小さく首を横に振った。
「秘密」
倉子はバックミラー越しにその表情を見た。無表情にも見えるが、どこか遠い記憶をたどるような、懐かしさのにじむ横顔だった。
「じゃあ、今年は新しい願い事、探さないとだね」
「……うん。そうかも」
それから三人は、当日の行動ルートや時間帯、服装の選定などを含めた打ち合わせに入った。澪の体力や人混みでのストレスも考慮し、比較的空いている夕方の時間帯に訪れ、花火の時間前には帰路につく計画とする。
「ねえ、浴衣とか……着てみる?」と真子が言うと、澪はほんの少し目を見開いてから、こくりと頷いた。
「じゃあ、倉子も!絶対似合うっすよ、和柄のやつ!」
「えぇ……? 私まで?」
「当然っす!」
車内には、夏の訪れを感じさせる会話と、どこか浮き足立った空気が流れていた。
この日、任務は任務であるはずなのに、三人の胸にはそれぞれ、小さな期待と淡い予感が芽生えていた。
七夕祭りの当日、夏の夕暮れが空を茜色に染める頃――。
「先輩、澪さん、準備オッケーっすか!」
真子が元気よく声をかけた。彼女は朝からハイテンションで、いつものようににこにことしている。
「うるさい。もうちょっと落ち着きなよ」
倉子がため息交じりに応える。しかしその顔は、どこか和らいでいた。
澪はというと、静かに鏡の前で髪を整えていた。淡い藤色の浴衣に、銀のかんざしがよく映えている。
「澪さん、その髪飾り、よく似合ってるよ」
倉子がさりげなく声をかけると、澪は小さく微笑んで返す。
「……ありがとうございます、倉子さん」
今日は、アテナセキュリティの任務として、澪の護衛を兼ねて、三人で七夕祭りに同行することになっていた。だが、その空気はいつもと違う。まるで、ちょっとした遠足のような高揚感があった。
「こういうお祭りって、何年ぶりっすかね、先輩」
真子が笑いながら言った。
「数年は行ってないかな。まさか任務で来ることになるとは思わなかったけど」
駅前の商店街は、すでに提灯と短冊で賑わっていた。屋台の甘い香りや、浴衣姿の人々のざわめきが夏の空気を包み込んでいた。
人混みの中、三人は自然に並んで歩いた。澪は最初こそ落ち着かなげだったが、ラムネを片手に微笑んでいる姿は、明らかに普段の任務中の表情とは違っていた。
「澪さん、あれやってみます?射的っすよ」
真子が指差す方向には、にぎやかな屋台が並んでいた。
「……うまくできるかわかりませんが……」
澪はおずおずと前に出て、銃を構える。
「こういうのは、狙いよりも、勢いっすよ!」
「真子、無責任なこと言わない」
「はーい、先輩」
澪は小さく息を吸って、引き金を引いた。ぽん、と軽い音と共に、景品のヨーヨーが落ちた。
「……やりました」
その瞬間、三人の視線が交差し、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がる。
「すごいじゃん、澪さん」
「才能っすね!」
「ふふ……ありがとうございます、真子さん、倉子さん」
次は、たこ焼きを分け合い、金魚すくいを冷やかしながら歩く。途中、竹笹に吊るす短冊が用意されたコーナーを見つけると、澪はそっと筆を取った。
「書いてみます……」
短冊に何かを丁寧に書き終えた後、彼女はそれを高い位置に吊るした。
「……また、来年も三人で来られますように」
倉子はその内容をちらりと見て、わずかに目を見開いた。そして、小さく微笑む。
やがて、空に第一発の花火が上がる。
「綺麗……」
澪が呟く。
「はいっすね!」
真子も嬉しそうに応える。
「この時間が……ずっと続けばいいのに」
静かにそう漏らした澪の言葉に、倉子が口元をほころばせた。
「任務報告書に、『澪さん、満面の笑み』って書いておこうかな」
「……ふふっ」
夜空に咲く大輪の花火が、三人の影を浮かび上がらせた。
それは、守るための距離感と、心の絆が絶妙に交差する、一夏の幻のような時間だった。
了解しました。それでは、第38章 セクション3「短冊に込めた、それぞれの願い」を2000文字以上で執筆いたします。
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:短冊に込めた、それぞれの願い
地元商店街の七夕祭りは、夏の始まりを告げる風物詩だった。空を覆うように張り巡らされた笹と無数の短冊、煌びやかな提灯の明かりに、歩く人々の顔もどこか浮き立って見える。
「人、多いっすね……でも、にぎやかで楽しいっす!」
真子が目を輝かせて言う。浴衣姿の彼女は、いつもの動きやすい警備服とは違い、どこか年相応の少女のような柔らかさがあった。
倉子はそれを斜め後ろから見ながら、すこし目を細めた。
「そうね。澪さん、大丈夫?」
「……はい、倉子さん。こういうお祭り、初めてですけど……」
澪は一瞬言葉を切り、提灯の光を映した瞳を少しだけ潤ませた。
「……なんだか、不思議です。賑やかで、人がたくさんいて、知らない匂いがして。でも、どこか懐かしいような気もします」
「それ、夏祭りあるあるっすよ」
真子が屋台から買ってきた焼きとうもろこしを差し出しながら言った。
「ほら、澪様も食べてみてください。これ、祭りの味っす!」
「……いただきます」
三人は通りに並んだ屋台を歩き、ラムネやたこ焼き、金魚すくいなどを楽しんだ。澪は時折表情を緩め、微笑んでいた。普段は警護任務という枠の中で、どこか無機質になりがちな日常。それが今日はほんの少し柔らかく、穏やかに揺れていた。
やがて、笹飾りと短冊のコーナーにたどり着いた。
風にそよぐ無数の願い事――「志望校に合格しますように」「推しと会えますように」「世界平和」と、色とりどりの思いが揺れていた。
「願い事、書いてみるっすか?」
真子が先に短冊とペンを手に取り、すらすらと書き始めた。
『夏休みの宿題が風で飛ばされますように』
それを見て、倉子は思わず吹き出した。
「それ、叶っても一瞬だけ嬉しいやつじゃないの?」
「いやいや、毎年本気で願ってるっす。願い事って、そういうもんっすよ」
倉子も短冊を手に取り、少し迷ってから、さらさらと書いた。
『今年も無事に任務を全うできますように』
地味かもしれない。けれど、それが彼女にとってのリアルな願いだった。
そして――
澪は静かに短冊を取り、一歩下がって誰にも見られないように背を向けた。ペンを持つ手がわずかに震えている。
ふいに、倉子はその横顔を見て気づいた。いつもの無表情とは違う、ほんの少しだけ紅潮した頬。そして――
風に吹かれた短冊の裏に、倉子の視線が一瞬だけ重なった。
『――また、来年も三人で』
倉子は、何も言わなかった。ただ少しだけ目を見開き、そっとその場を離れる。
やがて澪が戻ってきたとき、真子が楽しげに言った。
「じゃあ、花火の前に最後の屋台、行ってみるっすよ!あっちにスーパーボールすくいあったっす!」
「……うん、行ってみたい」
「わたしは見てるわ。楽しんできて」
真子と澪が先に歩き出す。倉子は、風に揺れる短冊の列をひとり見つめていた。
――また、来年も三人で。
それが任務の延長であるにせよ。誰かが“この時間”を願いにしたのなら。
「……叶うといいね、澪さん」
風が少し強く吹いた。揺れる短冊たちは、夜空に届くかのように、静かに舞っていた。
打ち上げ花火が夜空に咲くと、人々の歓声がいっせいに上がった。
屋台の明かりもかき消されるほどの大輪が、真夏の夜空に広がっていく。
「すっごい!先輩、見てくださいよ! 金色と青のが同時に咲いたっす!」
「真子さん、声が大きいです……」と、澪は小さく笑った。
「まあまあ、たまにはいいじゃない?」倉子はそう言って、屋台のベンチに座る澪の横に腰を下ろした。
澪は少し離れた場所で賑やかに動き回る真子を見つめながら、ふっとため息を漏らす。
「……賑やかなのに、不思議と、寂しくなります」
「寂しい? どうして?」倉子が尋ねると、澪はゆっくり首を横に振った。
「きっと、全部が一瞬だから……。花火も、お祭りも、こうしていられる時間も……」
また夜空に花が咲き、音が遅れて届いた。澪の顔が、淡く照らされる。
「ほんの少し前まで、こういう場所に来ること自体、考えられませんでした。……でも、今は」
澪は、胸元に手を置いた。
「また来たいなって、思ってしまうんです」
倉子は、その言葉に何も言わず、ただ隣でうなずいた。
やがて真子が駆け戻ってきて、スーパーボールすくいで取った景品を澪に見せた。
「見てください、澪様! 金色の星、取れたっす! なかなか出ないって言ってました!」
「……きれいですね」澪はそれをそっと受け取った。
その星の形をしたスーパーボールを掌に乗せながら、澪は再び空を見上げた。
打ち上げ花火は、クライマックスに向かって激しさを増していく。
鮮やかな色彩と爆音が夜を彩り、空気さえ振動する。
人々の顔が明るく照らされるなかで、澪の表情はどこか遠くを見ていた。
「澪様」
倉子が、静かに声をかけた。
「……はい?」
「楽しかった?」
「……はい、とても」
ふわりと笑ったその表情は、今までの任務の中で見たどの笑顔よりも、自然で、柔らかだった。
やがて、花火は一発の大輪で幕を閉じた。空には余韻だけが残り、祭りの喧騒も次第に落ち着いていく。
澪たち三人は人混みを避けて、裏通りを歩いていた。
「すみません。……ちょっと、疲れてしまって」
澪が立ち止まると、倉子は「大丈夫」と言って小さな階段の縁に腰を下ろすよう勧めた。
真子がさっと飲み物を買いに行き、澪はその間、浴衣の袖をそっと撫でながら言った。
「こうして誰かと並んで歩くのも、……幸せなんですね」
倉子は答えず、ただ隣に座って寄り添った。
それが彼女なりの答えだった。
戻ってきた真子が、「はいっ、ラムネです!」と笑顔で差し出した瓶を、澪は大事そうに受け取った。
「……ありがとう、真子さん」
夜風が、3人の髪を優しく揺らした。
ふと澪が、ぽつりと呟く。
「来年も……一緒に、来てくれますか?」
倉子と真子は顔を見合わせたあと、揃ってうなずいた。
「もちろんっすよ」
「当たり前じゃない」
その一言が、何よりの約束だった。
後日、アテナセキュリティの本部に提出された報告書には、こう記されていた。
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【任務報告】
任務対象:氷室澪様
日時:7月7日 18:30~21:00
場所:西高商店街 七夕祭り
状況:特異事象なし
心理状態:終始安定
笑顔確認:複数回有
備考:対象が短冊に「来年も三人で」と記入していたことを確認。
本件、記録保留の上、次年度計画に参考。
報告者:天城倉子
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報告書を読み終えた管理担当は、静かにファイルを閉じながら微笑む。
それがただの「任務」以上のものであったことを、報告書の行間がすべて物語っていた。
――七夕の夜、ひとつの記憶が、三人の間にそっと灯った。