:寄り道の理由は、風鈴の音
八月の終わり。うだるような真夏の暑さは幾分か和らぎ、澄んだ青空の向こうに、うっすらと秋の気配が感じられる午後。
車内に広がる冷房の風に包まれながら、氷室澪は後部座席の窓から街の風景をぼんやりと眺めていた。今日は学校行事の一環として、美術館への見学に参加した帰り道だった。
いつもと違うルートを通るその道沿いに、ふとした瞬間、澪の視線がある建物の前で止まった。
――涼しげな風鈴の音。
喫茶店の軒先に吊るされた幾つもの風鈴が、風に揺れては、透き通るような音を奏でていた。その下には、どこか懐かしい雰囲気を漂わせる小さな喫茶店。白いレースのカーテン、木製の看板、そしてテーブル越しに見えるクリームソーダらしきグラス。
「……あそこ、ちょっと素敵ですね」
ぽつりと、思わずこぼれたような澪の呟きに、前席にいた倉子がすぐに反応した。
「喫茶店ですね。少し寄っていきましょうか?」
運転席の真子もバックミラー越しに澪の様子を見つめながら、明るく言った。
「今日はずっと歩きっぱなしでしたし、ちょっと涼みたいっすよね?」
「え……でも……」
戸惑いの表情を浮かべる澪。
彼女は常に護衛されている立場であり、こうして自分から何かを望むことに慣れていない。普段の生活は、自宅と学校の往復だけで構成されていた。無駄な外出はなく、予定されたルート、予定された時間、予定された言動。
それでも、今日の彼女の視線は、確かにあの風鈴に惹かれていた。
倉子は静かに振り返る。
「ご希望があれば、それが最優先です。寄り道をしても、すぐにルートを組み直せます」
その言葉に、澪は一拍置いてから、そっと頷いた。
「……少しだけ、なら」
真子がにっこりと笑った。
「よっしゃ。じゃあ、ちょっと休憩タイムっすね」
車は次の角を右に折れ、喫茶店のそばの駐車場へと滑り込んだ。エンジンが止まり、冷房の風が途切れると、外のセミの声が急に耳に入り始める。
澪がドアを開けると、熱気が一気に押し寄せたが、さっきまで感じていた圧迫感とは違う、どこか心地よい空気だった。
「お気をつけて、足元段差あります」
倉子が先に降りて澪をエスコートする。真子は周囲を警戒しながらも、わざと軽い調子で「この店、当たりっぽいっすよ」と言った。
店の前に立つと、風鈴の音がまた澪の耳をくすぐった。まるで「ようこそ」とでも言っているかのように。
「……音が、きれいですね」
そのつぶやきには、もう先ほどの戸惑いはない。
澪は扉に手をかけ、小さなカウベルの音と共に、店内へと足を踏み入れた。
:喫茶店の午後
「お待たせしました~。アイスティーとクリームソーダになります」
カラン、と涼しげな音を立てて、レトロなグラスがテーブルに並べられる。窓際の席に座った澪たち三人の前には、それぞれ違った冷たいドリンクが揃った。
澪は、運ばれてきたクリームソーダをじっと見つめていた。透明なグラスに閉じ込められた、宝石のようなエメラルドグリーン。そして、その上にふんわりと乗った真っ白なアイスクリーム。まるで小さな夏の贈り物だった。
「……可愛い」
ぽつりとつぶやいた澪の声に、倉子と真子は顔を見合わせてふふっと微笑む。
「どうぞ、澪様。冷たいので、お体を冷やしすぎないようお気をつけて」
いつもの調子で倉子が丁寧に言うと、澪はこくんとうなずいた。
「はい、ありがとうございます。……でも、今日はちょっと暑くて」
そう言って、澪はストローを手に取る。口に運んだ瞬間、炭酸の刺激と甘いアイスが口いっぱいに広がった。
「おいしい……」
ほわ、とした笑顔が浮かぶ。その顔を見た真子が、珍しいものでも見るように目を丸くした。
「澪様がそんな表情されるなんて、ちょっと感動っすね……!」
「へ、変な顔でしたか……?」
「いえいえ、むしろ逆っす。めちゃくちゃ絵になります。あ、スマホ持ってくればよかった~」
「真子、任務中にそんな不用意な発言は禁物です」
倉子がぴしゃりと言いながらも、どこか優しい声色だった。
店内には、時折カランカランと風鈴の音が響き、壁際の扇風機が、ゆっくりと空気を撫でていた。昭和レトロな内装がどこか懐かしく、落ち着いた空間を作り出している。
澪は、ふと窓の外に目をやった。
夕暮れの気配が少しずつ町を染めていく中、喫茶店の軒先に吊された風鈴が揺れていた。ガラスの球が太陽の光を受けてきらめき、その一つひとつが澪の心にそっと触れてくるようだった。
「……こんなふうに、のんびりしたのは久しぶりかも」
「そうですね。最近は試験対策もありましたし、行事も続いていましたから」
「でも、休憩も任務のうちっすよ? 心を整えるの、大事ですから」
真子の言葉に、澪はくすりと笑った。
「ありがとうございます、真子さん。……それに、倉子さんも」
「いえ、私たちはあくまで護衛です。ですが、澪様がご自身の意思でこうして“休むこと”を選ばれたこと……とても嬉しく思います」
倉子はきりりとした表情のまま、アイスティーを一口含む。けれど、その眼差しには澪への温かな尊重がにじんでいた。
これまでは、すべて誰かが決めた日程、誰かが選んだルートの上を歩いてきた。
けれど――今日は違った。
喫茶店に入ろうと決めたのは、紛れもなく澪自身だった。
それがたとえ、わずかな寄り道であったとしても。
「このお店、また来てもいいでしょうか……?」
少し不安げに尋ねるようなその言葉に、倉子と真子はすぐに答えた。
「もちろんです、澪様」
「次は、パフェとかも試してみましょうよ!」
「……ふふ、いいですね」
澪の心の中に、小さな“自由”の芽が静かに育っていた。
喫茶店の窓の外では、蝉の声が、少し遠くへと去っていく。夏の終わりを告げる風が、ゆるやかに店内をすり抜けた。
――そして、束の間の休息が終わろうとしていた。
「そろそろ行きましょうか、澪様。車を回してきます」
「はい……ありがとうございました。お二人とも」
澪はグラスに残ったクリームソーダを見つめ、そっと立ち上がる。
その背筋は、以前よりもほんの少し、しっかりと伸びていた。
(……また、来たい)
澪は心の中で、そう静かに願った。
:帰路 ― 涼風の余韻と静かな微笑み
夏の終わりの午後。静かなひとときを過ごした喫茶店を出ると、空はほんのり茜色に染まり始めていた。
「……思ってたより、長居しちゃいましたね」
澪が小さく呟いた声は、夕焼けに溶けるようにやさしかった。
「それだけ、居心地がよかったってことっすよ。あの風鈴、良かったっすね」
真子が振り返って見上げると、喫茶店の軒先に吊るされた風鈴が、わずかな風に揺れて、かすかな音を立てた。
倉子は無言で、澪のすぐ隣を歩いている。まるで誰にも邪魔されない空気を壊さないように、その足取りさえ静かだった。
3人は、少し歩いたところに停めてある車へと戻る。
倉子が後部ドアを開けると、澪はふっと微笑んで会釈しながら乗り込んだ。シートに体を預けた瞬間、どこか張り詰めていた空気が、すうっと緩んだような気がした。
「本日の目的地から、無事帰還ですなぁ~」
運転席に座った真子が、軽く手を挙げて言った。
「……大げさです」
小さく笑う澪の口元には、わずかに紅茶の香りの余韻が残っていた。
車がゆっくりと発進する。
窓の外には、夕暮れの商店街。閉店準備を始める店先に、日常の音が戻りつつある。
「澪様」
ふいに、倉子が後部座席に向けて穏やかに声をかけた。
「はい?」
「本日、少し遠回りにはなりましたが……気晴らしになりましたか?」
その問いに、澪はしばらくの沈黙のあとで、ゆっくりと頷いた。
「……はい。思ったより、いい時間でした」
その言葉に、倉子は微かに目を細めた。
「また、気になる場所があれば教えてくださいっす」
真子が言うと、澪はちらりと運転席に目を向ける。
「……いいんですか?」
「もちろんっすよ。護衛って、守るだけじゃないっすからね。澪様が“ちゃんと生きてる”って実感できる日常も、大事なんすよ」
「真子さん、急にいいこと言う……」
澪が小さく吹き出し、倉子もくすりと笑う。
「本来、護衛というものは目立たぬことが理想ですが、澪様の笑顔を引き出せたなら、これ以上の成果はありません」
それは淡々とした口調のなかに、明確な温度を含んでいた。
車内に、しばしの沈黙が流れる。
その沈黙は気まずさではなく、むしろ安心に近いものだった。
外の景色はゆっくりと流れ、住宅街に入ると、聞き慣れた生活音が耳に届く。洗濯物を取り込む音。夕飯の支度をする香り。
「……また行きたいです。ああいうところ」
澪がぼそりとつぶやくと、真子はすぐに笑顔で応じた。
「了解っす!次は、アイスが美味しい店なんかどうっすか?」
「それ、私がチェックしておきます」
倉子が真剣な顔で答えると、澪はもう一度笑った。
その笑顔は、喫茶店で見せたときよりも、ほんの少しだけ柔らかかった。
車は、いつもの道を走っていく。
窓の外、街路樹の葉が揺れる。
今日の風は、夏の名残をほんのり残した、秋の予感をはらんだ風だった。
澪は目を閉じて、その風の音を感じた。
それは、自分の意思で踏み出した、ほんの少しの自由。
たったそれだけのことが、彼女にとっては、とても大きな一歩だったのだ。
「――ただいま」
口に出したその言葉に、誰も返さなかった。
けれど、それは確かに、彼女の中で響いた。
夏の終わり。静かな車内。澪は、少しだけ胸を張って、前を見つめた。
車に戻った澪は、窓の外に揺れる風鈴を見上げていた。喫茶店の軒先で、夕風を受けて微かに音を鳴らすそれは、まるで先ほどまでの時間を名残惜しむように、やさしく揺れていた。
「……あの音、なんだか好きです」
ぽつりと澪が呟いた言葉に、助手席の真子が振り返る。
「風鈴っすか? なんかこう、懐かしい感じしますよね」
倉子がエンジンをかけながら、ちらりとバックミラー越しに澪の顔を見る。
「次は買って帰りますか? 窓辺に飾れば、少しは風情が出ます」
「うちのマンション、窓辺に風鈴飾るような感じじゃないですよ」
くすりと笑った澪の表情は、どこか柔らかい。先ほどまでの喫茶店で過ごした静かな時間が、彼女の内面に小さな変化をもたらしたのだろう。
夕暮れの街を車は走る。倉子の運転は相変わらず無駄のない滑らかさで、真子がときおり流す音楽に、車内の空気はほどよくリラックスしていた。
「今日は……ありがと。寄り道させてもらって」
澪が静かに口を開く。
「いえ、澪様のご要望でしたら、どこへでも」
「たまには、ね。必要っすよ。心の栄養、ってやつっす」
「……あの、私、ちょっと聞いてもいいですか」
急に澪が真剣な口調になった。車内の空気が少しだけ張り詰める。
「お二人は今までの人生で……一番、友達です。親友です。そう思って……いいですか?」
静かな問いかけだった。
けれど、それは澪にとって、勇気を振り絞った言葉だった。
倉子がそっと笑って、言った。
「友達になるのに許可は要らないのよ」
「そうっす。許可が必要なのは、友達とはいわないっす」
その言葉に、澪は一瞬目を見開き――次の瞬間、安堵したように頷いた。
そして、再びぽつりと口を開く。
「一つだけ……不安なんです」
「何かしら?」
倉子がルームミラー越しに優しく目を向ける。
「来年、卒業したら……もう、お別れなのでしょうか?」
その言葉に、真子が後部座席に身を乗り出すようにして、にっこりと笑った。
「任務が終われば、今のようにずっと一緒ってわけにはいかないけど……学生は卒業して終わるかもしれないけど、友達には、卒業はないから」
「そうっす。永遠に友達ッス。世の中には永遠に17歳の人もいますが、友達は誰でも永遠っす」
「真子……途中の例えはいらない」
「失礼っす」
くすくすと、澪が笑った。気づけば、笑っていた。
さっきまで胸の奥に潜んでいた不安が、ふたりの言葉でどこかへ流れていったようだった。
「……ありがとうございます。きっと、今日のこと、忘れません」
「私たちもよ。澪様の笑顔、しっかり記憶しましたから」
「そうっす。記録にも残ってるっすよ、心の中に!」
車窓の外には、夕陽が朱に染まりはじめた空を背景に、ゆらゆらと風鈴が最後の音色を奏でていた。
――澪にとって、それは終わりではなく、始まりだった。
小さな決意が、そっと胸に宿った。
少女の心が、ほんの少しだけ自由になる。
この夏の夕暮れは、そんな変化の兆しを告げる、美しいひとときだった。