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第38話  夏の終わり

:寄り道の理由は、風鈴の音


八月の終わり。うだるような真夏の暑さは幾分か和らぎ、澄んだ青空の向こうに、うっすらと秋の気配が感じられる午後。


車内に広がる冷房の風に包まれながら、氷室澪は後部座席の窓から街の風景をぼんやりと眺めていた。今日は学校行事の一環として、美術館への見学に参加した帰り道だった。


いつもと違うルートを通るその道沿いに、ふとした瞬間、澪の視線がある建物の前で止まった。


――涼しげな風鈴の音。


喫茶店の軒先に吊るされた幾つもの風鈴が、風に揺れては、透き通るような音を奏でていた。その下には、どこか懐かしい雰囲気を漂わせる小さな喫茶店。白いレースのカーテン、木製の看板、そしてテーブル越しに見えるクリームソーダらしきグラス。


「……あそこ、ちょっと素敵ですね」


ぽつりと、思わずこぼれたような澪の呟きに、前席にいた倉子がすぐに反応した。


「喫茶店ですね。少し寄っていきましょうか?」


運転席の真子もバックミラー越しに澪の様子を見つめながら、明るく言った。


「今日はずっと歩きっぱなしでしたし、ちょっと涼みたいっすよね?」


「え……でも……」


戸惑いの表情を浮かべる澪。


彼女は常に護衛されている立場であり、こうして自分から何かを望むことに慣れていない。普段の生活は、自宅と学校の往復だけで構成されていた。無駄な外出はなく、予定されたルート、予定された時間、予定された言動。


それでも、今日の彼女の視線は、確かにあの風鈴に惹かれていた。


倉子は静かに振り返る。


「ご希望があれば、それが最優先です。寄り道をしても、すぐにルートを組み直せます」


その言葉に、澪は一拍置いてから、そっと頷いた。


「……少しだけ、なら」


真子がにっこりと笑った。


「よっしゃ。じゃあ、ちょっと休憩タイムっすね」


車は次の角を右に折れ、喫茶店のそばの駐車場へと滑り込んだ。エンジンが止まり、冷房の風が途切れると、外のセミの声が急に耳に入り始める。


澪がドアを開けると、熱気が一気に押し寄せたが、さっきまで感じていた圧迫感とは違う、どこか心地よい空気だった。


「お気をつけて、足元段差あります」


倉子が先に降りて澪をエスコートする。真子は周囲を警戒しながらも、わざと軽い調子で「この店、当たりっぽいっすよ」と言った。


店の前に立つと、風鈴の音がまた澪の耳をくすぐった。まるで「ようこそ」とでも言っているかのように。


「……音が、きれいですね」


そのつぶやきには、もう先ほどの戸惑いはない。


澪は扉に手をかけ、小さなカウベルの音と共に、店内へと足を踏み入れた。




:喫茶店の午後




「お待たせしました~。アイスティーとクリームソーダになります」


 カラン、と涼しげな音を立てて、レトロなグラスがテーブルに並べられる。窓際の席に座った澪たち三人の前には、それぞれ違った冷たいドリンクが揃った。


 澪は、運ばれてきたクリームソーダをじっと見つめていた。透明なグラスに閉じ込められた、宝石のようなエメラルドグリーン。そして、その上にふんわりと乗った真っ白なアイスクリーム。まるで小さな夏の贈り物だった。


「……可愛い」


 ぽつりとつぶやいた澪の声に、倉子と真子は顔を見合わせてふふっと微笑む。


「どうぞ、澪様。冷たいので、お体を冷やしすぎないようお気をつけて」


 いつもの調子で倉子が丁寧に言うと、澪はこくんとうなずいた。


「はい、ありがとうございます。……でも、今日はちょっと暑くて」


 そう言って、澪はストローを手に取る。口に運んだ瞬間、炭酸の刺激と甘いアイスが口いっぱいに広がった。


「おいしい……」


 ほわ、とした笑顔が浮かぶ。その顔を見た真子が、珍しいものでも見るように目を丸くした。


「澪様がそんな表情されるなんて、ちょっと感動っすね……!」


「へ、変な顔でしたか……?」


「いえいえ、むしろ逆っす。めちゃくちゃ絵になります。あ、スマホ持ってくればよかった~」


「真子、任務中にそんな不用意な発言は禁物です」


 倉子がぴしゃりと言いながらも、どこか優しい声色だった。




 店内には、時折カランカランと風鈴の音が響き、壁際の扇風機が、ゆっくりと空気を撫でていた。昭和レトロな内装がどこか懐かしく、落ち着いた空間を作り出している。


 澪は、ふと窓の外に目をやった。


 夕暮れの気配が少しずつ町を染めていく中、喫茶店の軒先に吊された風鈴が揺れていた。ガラスの球が太陽の光を受けてきらめき、その一つひとつが澪の心にそっと触れてくるようだった。


「……こんなふうに、のんびりしたのは久しぶりかも」


「そうですね。最近は試験対策もありましたし、行事も続いていましたから」


「でも、休憩も任務のうちっすよ? 心を整えるの、大事ですから」


 真子の言葉に、澪はくすりと笑った。


「ありがとうございます、真子さん。……それに、倉子さんも」


「いえ、私たちはあくまで護衛です。ですが、澪様がご自身の意思でこうして“休むこと”を選ばれたこと……とても嬉しく思います」


 倉子はきりりとした表情のまま、アイスティーを一口含む。けれど、その眼差しには澪への温かな尊重がにじんでいた。




 これまでは、すべて誰かが決めた日程、誰かが選んだルートの上を歩いてきた。


 けれど――今日は違った。


 喫茶店に入ろうと決めたのは、紛れもなく澪自身だった。


 それがたとえ、わずかな寄り道であったとしても。




「このお店、また来てもいいでしょうか……?」


 少し不安げに尋ねるようなその言葉に、倉子と真子はすぐに答えた。


「もちろんです、澪様」


「次は、パフェとかも試してみましょうよ!」


「……ふふ、いいですね」


 澪の心の中に、小さな“自由”の芽が静かに育っていた。


 喫茶店の窓の外では、蝉の声が、少し遠くへと去っていく。夏の終わりを告げる風が、ゆるやかに店内をすり抜けた。




――そして、束の間の休息が終わろうとしていた。




「そろそろ行きましょうか、澪様。車を回してきます」


「はい……ありがとうございました。お二人とも」


 澪はグラスに残ったクリームソーダを見つめ、そっと立ち上がる。


 その背筋は、以前よりもほんの少し、しっかりと伸びていた。




(……また、来たい)


 澪は心の中で、そう静かに願った。




:帰路 ― 涼風の余韻と静かな微笑み


 夏の終わりの午後。静かなひとときを過ごした喫茶店を出ると、空はほんのり茜色に染まり始めていた。


「……思ってたより、長居しちゃいましたね」


 澪が小さく呟いた声は、夕焼けに溶けるようにやさしかった。


「それだけ、居心地がよかったってことっすよ。あの風鈴、良かったっすね」


 真子が振り返って見上げると、喫茶店の軒先に吊るされた風鈴が、わずかな風に揺れて、かすかな音を立てた。


 倉子は無言で、澪のすぐ隣を歩いている。まるで誰にも邪魔されない空気を壊さないように、その足取りさえ静かだった。


 3人は、少し歩いたところに停めてある車へと戻る。


 倉子が後部ドアを開けると、澪はふっと微笑んで会釈しながら乗り込んだ。シートに体を預けた瞬間、どこか張り詰めていた空気が、すうっと緩んだような気がした。


「本日の目的地から、無事帰還ですなぁ~」


 運転席に座った真子が、軽く手を挙げて言った。


「……大げさです」


 小さく笑う澪の口元には、わずかに紅茶の香りの余韻が残っていた。


 車がゆっくりと発進する。


 窓の外には、夕暮れの商店街。閉店準備を始める店先に、日常の音が戻りつつある。


「澪様」


 ふいに、倉子が後部座席に向けて穏やかに声をかけた。


「はい?」


「本日、少し遠回りにはなりましたが……気晴らしになりましたか?」


 その問いに、澪はしばらくの沈黙のあとで、ゆっくりと頷いた。


「……はい。思ったより、いい時間でした」


 その言葉に、倉子は微かに目を細めた。


「また、気になる場所があれば教えてくださいっす」


 真子が言うと、澪はちらりと運転席に目を向ける。


「……いいんですか?」


「もちろんっすよ。護衛って、守るだけじゃないっすからね。澪様が“ちゃんと生きてる”って実感できる日常も、大事なんすよ」


「真子さん、急にいいこと言う……」


 澪が小さく吹き出し、倉子もくすりと笑う。


「本来、護衛というものは目立たぬことが理想ですが、澪様の笑顔を引き出せたなら、これ以上の成果はありません」


 それは淡々とした口調のなかに、明確な温度を含んでいた。


 車内に、しばしの沈黙が流れる。


 その沈黙は気まずさではなく、むしろ安心に近いものだった。


 外の景色はゆっくりと流れ、住宅街に入ると、聞き慣れた生活音が耳に届く。洗濯物を取り込む音。夕飯の支度をする香り。


「……また行きたいです。ああいうところ」


 澪がぼそりとつぶやくと、真子はすぐに笑顔で応じた。


「了解っす!次は、アイスが美味しい店なんかどうっすか?」


「それ、私がチェックしておきます」


 倉子が真剣な顔で答えると、澪はもう一度笑った。


 その笑顔は、喫茶店で見せたときよりも、ほんの少しだけ柔らかかった。


 車は、いつもの道を走っていく。


 窓の外、街路樹の葉が揺れる。


 今日の風は、夏の名残をほんのり残した、秋の予感をはらんだ風だった。


 澪は目を閉じて、その風の音を感じた。


 それは、自分の意思で踏み出した、ほんの少しの自由。


 たったそれだけのことが、彼女にとっては、とても大きな一歩だったのだ。


「――ただいま」


 口に出したその言葉に、誰も返さなかった。


 けれど、それは確かに、彼女の中で響いた。


 夏の終わり。静かな車内。澪は、少しだけ胸を張って、前を見つめた。


車に戻った澪は、窓の外に揺れる風鈴を見上げていた。喫茶店の軒先で、夕風を受けて微かに音を鳴らすそれは、まるで先ほどまでの時間を名残惜しむように、やさしく揺れていた。


「……あの音、なんだか好きです」


 ぽつりと澪が呟いた言葉に、助手席の真子が振り返る。


「風鈴っすか? なんかこう、懐かしい感じしますよね」


 倉子がエンジンをかけながら、ちらりとバックミラー越しに澪の顔を見る。


「次は買って帰りますか? 窓辺に飾れば、少しは風情が出ます」


「うちのマンション、窓辺に風鈴飾るような感じじゃないですよ」


 くすりと笑った澪の表情は、どこか柔らかい。先ほどまでの喫茶店で過ごした静かな時間が、彼女の内面に小さな変化をもたらしたのだろう。




 夕暮れの街を車は走る。倉子の運転は相変わらず無駄のない滑らかさで、真子がときおり流す音楽に、車内の空気はほどよくリラックスしていた。


「今日は……ありがと。寄り道させてもらって」


 澪が静かに口を開く。


「いえ、澪様のご要望でしたら、どこへでも」


「たまには、ね。必要っすよ。心の栄養、ってやつっす」


「……あの、私、ちょっと聞いてもいいですか」


 急に澪が真剣な口調になった。車内の空気が少しだけ張り詰める。


「お二人は今までの人生で……一番、友達です。親友です。そう思って……いいですか?」


 静かな問いかけだった。


 けれど、それは澪にとって、勇気を振り絞った言葉だった。


 倉子がそっと笑って、言った。


「友達になるのに許可は要らないのよ」


「そうっす。許可が必要なのは、友達とはいわないっす」


 その言葉に、澪は一瞬目を見開き――次の瞬間、安堵したように頷いた。




 そして、再びぽつりと口を開く。


「一つだけ……不安なんです」


「何かしら?」


 倉子がルームミラー越しに優しく目を向ける。


「来年、卒業したら……もう、お別れなのでしょうか?」


 その言葉に、真子が後部座席に身を乗り出すようにして、にっこりと笑った。


「任務が終われば、今のようにずっと一緒ってわけにはいかないけど……学生は卒業して終わるかもしれないけど、友達には、卒業はないから」


「そうっす。永遠に友達ッス。世の中には永遠に17歳の人もいますが、友達は誰でも永遠っす」


「真子……途中の例えはいらない」


「失礼っす」


 くすくすと、澪が笑った。気づけば、笑っていた。




 さっきまで胸の奥に潜んでいた不安が、ふたりの言葉でどこかへ流れていったようだった。


「……ありがとうございます。きっと、今日のこと、忘れません」


「私たちもよ。澪様の笑顔、しっかり記憶しましたから」


「そうっす。記録にも残ってるっすよ、心の中に!」




 車窓の外には、夕陽が朱に染まりはじめた空を背景に、ゆらゆらと風鈴が最後の音色を奏でていた。


 ――澪にとって、それは終わりではなく、始まりだった。


 小さな決意が、そっと胸に宿った。


 少女の心が、ほんの少しだけ自由になる。


 この夏の夕暮れは、そんな変化の兆しを告げる、美しいひとときだった。





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