ある老人の物語。
私は東京で生まれ、寡黙な父と優しい母親の元ですくすくと育った。
第二次世界大戦が始まる前までは。
幼い頃に始まった戦争で父は兵士として遠くの戦地に行き、母は兵器工場に徴用された。
住んでいる所を引き払い、母と共に工場の近くに引っ越す。
引っ越した家では母が朝早くから夜まで工場に出かけて、一人で家に居ることが多く寂しかった。
でも、同じ様に徴用された家族が多く移り住み、老人や友達と遊ぶことで寂しさも我慢できる。
保育所の様な学校もみんなで通った。
昼の食事は町内で炊き出しをして食べた。
母も交代で炊き出しをしていたので、母の日にはにべったりと引っいていた。
そんな生活を数年間続けた時、近くに防空壕が作られる。
母から避難訓練の話をされ、町内の集会所に集まり説明を受けた。
母が居ない時は避難誘導のために、近所の老人老婆や奥さんを紹介された。
そして避難訓練が始まった。
僕は近所の老人や老婆に手を引かれ防空壕に行く。
時には母に手を引かれる事もあった。
僕と友達は、まるで運動会みたいに楽しく笑いながら集まり、走り、暗い防空壕の中で押しくら饅頭みたいに押し合いしながら遊んだ。
終わった後も集まった友達で遊ぶ楽しい時間だった。
そんな楽しい時間は長く続かなかった。
ある日、避難訓練予定日でも無いのに緊急避難のサイレンが大音響で響く。
一人で部屋の中に居た僕は、ビクリと肩をすくめて周りを伺う、部屋中に響くサイレンの音以外何も無かった。
不安になり怖怖と玄関に進み、戸を開けて外を見ると大人たちが忙しく走り回っていた。
知り合いの老人が僕に駈けて来て「坊主、避難するぞ!」と言われ、急いで玄関にある防空頭巾を掴んで老人に走り寄る。
手を引かれて走り始める時に気がつく「あ、玄関が開けっ放し!」と言って老人を見る。
「そんなのはいい! 避難が先だ!」と老人が手を引いて走る。
防空壕に着くと、既に人がいて奥に案内され壁際に座る。
緊迫した状況の中、いつもの楽しい雰囲気は消えていた。
防空壕の中では皆静かに息を殺して身を潜めていた。
しばらくして警報音が消え、遠くにブロローーーーと幾重にも重なった重低音の音が聞こえてくる。
ドン、ドン、ドンと対空砲の音が遠くに響く。
そしてヒゥーーゥゥーーーーと笛を何百も吹く音が聞こえて、ドドドドドドドドドと立て続けに爆発音が遠くに響く、地面が振動している様に感じて、小さな悲鳴が防空壕の中に幾つも聞こえる。
僕は頭を膝に載せ、頭を抱えて目を瞑り、声を押し殺して震えた。
どれだけ震えていたのか分からない。
いつしか周囲は静かになっても誰も動こうとはしなかった。
防空壕の責任者が「終わった様だ、外を見てくる……」と言って動き始める。
外から大声で「もう大丈夫だ! 出てこい!」
外に出てみると大人達が同一方向を見て騒いでいる、
その方向を見ると遠くに大量の黒い煙が上がっていた。
爆撃による広範囲の火事だった。
その日から数週間や数日起きに緊急避難のサイレンが鳴る。
今でも少ない食料が更に少なくなる。
爆撃は遠い場所や近い場所、場所が分からない日もあった。
ある日、大人達が騒ぐ「おい! こちらに来てる! 大編隊だ!」
そして、大量の爆音と大量のヒューーーーと地面が振動するほどの爆発が防空壕に響き渡る。
名前を呼ばれた気がして顔を上げると、防空壕の入口に母が立って僕の名前を呼んでいた。
僕を見つけ被う様に抱いてて「無事でよかった、よかった……」と呟いていた。
後で聞いた話では、工場の避難指示を無視して僕の所に走って来た様だ。
爆撃が終わって外に出ると、周囲の火事はまばらだが工場地帯は全体が燃えていた。
火事を消す人は居ないし消せる火事では無かった。
誰かが「ここは危ない! 火事の来ない所に避難しろ!」の声で、母に手を引かれて家に行き急ぎ持てる荷物を抱え火事が無い遠くの山の方に走る。
数日間続いた火事が終わり、家のある一帯は全て燃え落ちていた。
その日から母と僕の二人だけの飢餓に近い飢えの放浪が始まる。
終戦まで何とか東京周辺で生きていたが、終戦と共に生活が限界を迎えた。
終戦後も父の行方も分からないまま、東京に居ても生きていけない、父との連絡方法も無い。
だから、父の親族しか宛が無いため、遠く九州にある父の親戚の本家に行く事を決める。
母と二人で食料の無い中働いては移動し、働いては移動を繰り返して数ヵ月掛けて九州の本家に着く。
ボロボロの状態で僅かな伝がある本家の玄関を叩く。
状況を説明して親戚を頼って来ましたと話し、「仕事なら何でもします。働かせて下さい」とお願いするも蹴られ追い出されかけた。
母は「せめて子供だけでもお願いしますと」、二人で土下座してお願いした。
その時、奥より昔に顔合わせをした歳を召したご婦人が現れ二人の前に腰を落とす。。
「まぁ、この人XXXの奥さんよ、この子が息子ね?」
「はい、そうです、そうです」
婦人は振り向き、奥に居る壮年の男に話す。
「いま人手が足りない時、雇ってはいかが?」
その声が切っ掛けとになり、離れの小さな物置の様な一部屋に住むことになった。
母は下女として本家の下働きをする。
僕は一番下の雑用係として働く。
………………
数カ月して、本家の家長が僕を見て
「とても賢い子だ、雑用では勿体ない、学校に行って本家に役に立つ子になって欲しい」
と言って学校に通う事になった。
後で聞いた話だが、本家はこの地方の名士であり、その名士が小さな子供を働かせるている事が外聞に悪くなって学校を勧めたと。
たとえどんな理由が有ろうとも学校に行けるのは嬉しかった。
母も学費や各種費用のためのに給金が増えた。
恩を返す為にも必死に勉強して、学校内主席で卒業した。
その間、本家は地主の力を活かして、食糧難の時代に都会に食料を送り大金を稼ぐ。
その資金を元に働き盛りの男が死んで困窮した農家を次々と買い取り、事業を拡大していた。
そして地方の代議士になる。
本家に使用人として戻った俺は、秘書の雑用係として雇われる。
事業を拡大した本家は、東京と大阪に食品関係の商社を作り、自力の農業生産を足掛かりに事業を拡大していく。
数年後、国政の議員に出馬し当選する。
本家の本拠地が東京に移る。
その時から、東京に行き代議士の秘書となった。
戦後、父の死亡通知は母のもとに来ていたが、信じなかった母に頼まれ、時間を見ては父の行方を探して多くの帰還者に話を聞く。
やはり父は戦地で全滅した部隊にいた事まで分かったが、その先は不明だった。
時を経て、筆頭秘書になり激動の日本を駆け抜けた。
50歳まで筆頭秘書を続け、表も裏も見た。
黒に近い灰色の事を何度もした、激動の時代は綺麗事では前に進めない。
そして、幼少の頃の栄養不足が原因で51歳で秘書を引退し九州本家の執事になる。
体を騙し騙し働き、ついに執事も引退する。
62歳で、本家の離れの一室で過ごし。
本家の子供達の面倒を見ながら共に遊び、偏屈ジジイや賢者ジジイとして過ごした。
離れの部屋の中、65歳の夜に一人、脳内出血で死亡する。
意識が薄れていく中、ああ死ぬんだなと思い、母の思い出や激動の時代が走馬灯のように駆け抜けた。
最後に、ワシは人生を頑張って生き抜いたな、と思い意識を無くす。
はずだったが、此処はどこだ?
訳も分からず二度目の人生? ダンジョンマスター生が始まった。
数日後に攻略本を読む。