鉄筋コンクリートのビルの中とはいえ、安心なんてできやしなかった。
夜の間、俺と美羽は交代で短い仮眠を取りながら、物音に怯え続けた。
外から聞こえてくる怪物の咆哮や、時折響く建物の軋む音。
そのたびに、心臓が跳ね上がる。
美羽は俺の隣で、体を小さくして震えていた。
その背中をさすってやることしか、俺にはできない。
朝日が、割れた窓の隙間から差し込んできた。
埃っぽい空気の中で、光の筋がやけに綺麗に見える。
しかし、それは新たな一日、いや、新たな地獄の始まりを告げているだけだ。
「…陽太、お腹、空いたね…」
美羽が小さな声で言った。
俺も同じだった。
昨日、自販機で買ったコーンポタージュは、とっくに飲み干してしまった。
水もない。
「ああ…。
何か探さないとな」
俺たちは立ち上がり、ビルの中を探索することにした。
ここは数階建ての雑居ビルで、いくつかのフロアには会社のオフィスが入っていたようだ。
しかし、地震の影響でドアが開かなかったり、瓦礫で塞がれていたりする場所も多い。
「陽太、見て。
これ、使えるかも」
美羽が見つけたのは、給湯室のような場所だった。
棚には、いくつかの未開封のペットボトル飲料と、スナック菓子の袋が散乱している。
地震で棚から落ちたのだろう。
「おお、ラッキー!」
俺たちは、まるで宝物でも見つけたかのように喜んだ。
水と、ほんの少しの食料。
これで、少しは凌げる。
近くのデスクから、空のリュックサックを二つ見つけ、水と食料を詰め込んだ。
「ラジオとか、ないかな…」
俺は呟きながら、壊れたオフィス機器の間を探した。
情報がなさすぎるのは致命的だ。
しばらく探すと、瓦礫の下から、バッテリー式のポータブルラジオを見つけた。
壊れているかと思ったが、スイッチを入れると、か細いながらも音声が流れてきた。
『…ザー…各地の被害は甚大で…ザー…都心部に出現した…巨大な穴からは…正体不明の…ザー…生物が…確認されており…厳重な警戒を…』
ノイズが酷く、途切れ途切れだが、状況の深刻さは伝わってくる。
やはり、あの怪物は現実で、東京全体が大変なことになっているらしい。
別の周波数に合わせると、個人のものと思われる、弱々しい電波を拾った。
『…誰か聞いてるか? こちら…新宿区…建物の下敷きに…助け…ザー…おい、あれを見ろ! 人が…空を…!? …ザー…』
そこで通信は途切れた。
「人が、空を…?」
美羽が訝しげに繰り返す。
俺も首を傾げた。
聞き間違いか? それとも…。
まさかとは思うが、非現実的な出来事が立て続けに起こっている今、あり得ないとは言い切れない。
もしかしたら、この異常事態の中で、人間にも何か変化が起き始めているのかもしれない。
「とにかく、ここに長居はできないな」
俺はラジオのスイッチを切った。
情報が少ないのは不安だが、今は生き延びることが最優先だ。
「もう少し、使えそうなものがないか探してみよう」
俺たちは、さらに上の階へ向かった。
階段を上っている途中、余震とは違う、鈍い揺れを感じた。
ドンッ…!
ビル自体が揺れるような衝撃。
外で、何かがぶつかったような音だ。
「…まさか、怪物か?」
俺たちは息を潜め、階段の踊り場からそっと外の様子を窺った。
窓ガラスは割れてなくなっている。
見下ろすと、ビルのすぐそばの道路で、小型のトラックほどの大きさがある、カマキリのような姿をした怪物が、別のビルに体当たりを繰り返していた。
「うわ…」
美羽が小さく悲鳴を上げる。
怪物は、俺たちがいるビルにも気づいた様子で、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
複眼が、気味悪く光っている。
まずい、見つかった。
その時、俺たちの頭上の天井の一部が、怪物の衝撃で緩んでいたのか、大きな塊となって剥がれ落ちてきた。
俺の隣にいる美羽の真上だ。
「美羽、危ない!」
咄嗟に美羽を突き飛ばす。
しかし、コンクリートの塊はすぐそこまで迫っていた。
避けきれない!
(そっちじゃない!)
心の中で、強く叫んだ。
次の瞬間、信じられないことが起きた。
目の前にあったはずのコンクリートの塊が、忽然と消えた。
代わりに、階段の隅に転がっていた、壊れた消火器が、美羽がいた場所に落ちてきて、ガラン!と大きな音を立てた。
そして、消えたはずのコンクリートの塊は、なぜか、俺たちがさっきまで調べていた下の階のオフィスフロアの真ん中に、ドシン!という音と共に現れていた。
「…え?」
何が起こったのか、理解が追いつかない。
俺は、コンクリート塊が落ちてくるはずだった場所と、下の階に現れた塊、そして足元に転がる消火器を、呆然と見比べた。
「…陽太? 今…何が…?」
突き飛ばされた美羽も、何が起きたのか分からず、目を丸くしている。
「わ、わからん…でも、助かった…のか?」
頭の中で、さっきの感覚が蘇る。
『そっちじゃない!』と念じた瞬間の、奇妙な感覚。
まるで、頭の中で二つの物の位置を入れ替えるような…。
まさか。
そんな馬鹿なことがあるか?
俺は試しに、足元に落ちている小さな瓦礫と、少し離れた場所にある空き缶を頭の中で思い浮かべ、『入れ替われ』と強く念じてみた。
すると、目の前で、瓦礫と空き缶の位置が一瞬で入れ替わった。
「…うそだろ…」
俺は自分の手のひらを見つめた。
これが、さっきラジオで聞いた『特殊な力』ってやつなのか?
俺にも、何かが起きたのか?
「陽太…? どうしたの?」
美羽が不安そうに俺の顔を覗き込む。
「いや…なんでもない。
それより、早くここから離れないと!」
能力のことは、まだ美羽には言えなかった。
自分でもよく分かっていないし、信じられない。
それよりも、あのカマキリ怪物が、まだ下にいる。
「よし、準備はできたな。
行くぞ、美羽!」
俺たちは、水と食料を詰めたリュックを背負い、護身用に拾った鉄パイプを握りしめた。
目指すは九州。
途方もなく遠い道のりだ。
俺たちは、怪物がいる道路側とは反対の、ビルの裏手にある非常階段を使って、慎重に地上へと降りた。
幸い、裏通りには怪物の姿は見えない。
しかし、いつどこで遭遇するとも限らない。
「どっちに行く…?」
美羽が尋ねる。
俺は太陽の位置を確認し、西を指差した。
「こっちだ。
行けるところまで行こう」
瓦礫が散乱し、所々で火の手が上がっている街を、俺たちは歩き始めた。
人々は少なく、皆、恐怖と不安に顔を歪ませている。
時折、遠くで銃声のような音や、爆発音が聞こえる。
しばらく歩いた時、前方の交差点の角から、何かが飛び出してきた。
それは、犬くらいの大きさで、全身が鱗のようなもので覆われ、鋭い爪を持つ、トカゲのような怪物だった。
数は三匹。
明らかに、俺たちに気づいている。
「くそっ!」
俺は美羽を庇うように前に立ち、鉄パイプを構えた。
美羽も、拾っていた短い角材を握りしめている。
(落ち着け…さっきの力、使えるか?)
俺はトカゲ怪物の一匹と、少し離れた場所にあるドラム缶を頭の中で捉え、『入れ替われ!』と念じた。
しかし、何も起こらない。
(なんでだ!? くそっ!)
焦れば焦るほど、頭の中が混乱する。
さっきは、もっと咄嗟に、無意識に近い感覚だった。
そうこうしているうちに、トカゲ怪物たちが、低い唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
涎を垂らし、明らかに俺たちを獲物として見ている。
絶体絶命か。