クソっ、やっぱりダメか!
トカゲ怪物の一匹が、素早い動きで飛びかかってきた。
俺は咄嗟に鉄パイプで薙ぎ払うが、硬い鱗に阻まれ、浅い傷しか与えられない。
怪物は怯むことなく、さらに距離を詰めてくる。
「陽太、後ろ!」
美羽の叫び声。
振り返る間もなく、別の怪物が俺の背後から襲いかかろうとしていた。
鉄パイプを持つ腕が痺れる。
三対一では、どう考えても勝ち目がない。
「きゃっ!」
美羽が、一番近くにいた怪物に角材で殴りかかった。
怪物は一瞬怯んだが、すぐに怒りの形相で美羽に狙いを定める。
まずい、美羽が危ない!
その瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。
美羽に襲いかかろうとする怪物と、すぐ近くに転がっていた瓦礫の山。
二つのイメージが重なる。
(入れ替われっ!!)
意識が、まるで細い糸を手繰り寄せるように、二つの対象に集中する。
次の瞬間、目の前の光景が歪んだ。
美羽に飛びかかろうとしていたトカゲ怪物が、忽然と姿を消した。
代わりに、その場所に、大量の瓦礫が降り注ぎ、ガシャガシャと音を立てて崩れ落ちる。
そして、消えた怪物は、数メートル離れた瓦礫の山があった場所に、突然出現していた。
何が起きたのか分からず混乱している怪物の頭上から、さらに不安定になっていたビルの外壁の一部が、タイミングよく崩落してきた。
グシャッ!
鈍い音と共に、怪物は瓦礫の下敷きになった。
動かない。
やったのか…?
「陽太…!」
美羽が俺の腕にしがみつく。
残りの怪物二匹は、仲間がやられたのを見て、一瞬動きを止めた。
チャンスだ!
「美羽、走るぞ!」
俺たちは、怪物がいる方向とは逆へ、全力で走り出した。
背後で怪物の怒りの咆哮が聞こえたが、幸い追ってくる気配はなかった。
どれくらい走っただろうか。
息が切れ、足がもつれそうになった頃、俺たちは小さな商店だったと思われる廃墟に転がり込んだ。
ショーウィンドウは割れ、商品はほとんどが略奪されたのか、床に散乱している。
それでも、壁があるだけマシだった。
「はぁ…はぁ…助かった…」
俺は壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
美羽も隣に座り込み、荒い息を繰り返している。
「陽太、さっきの…あれ、なに…?」
美羽が、怯えと好奇の入り混じった目で俺を見た。
もう、隠している場合じゃない。
「…俺にも、よく分からないんだ。
でも、地震の後から、時々…物を、入れ替えられるみたいなんだ」
俺は正直に話した。
ビルでコンクリート塊と消火器を入れ替えたこと。
さっき、瓦礫と怪物を入れ替えたこと。
「物を…入れ替える…?」
美羽は信じられないという顔をしている。
当然だ。
俺だって、まだ半信半疑だ。
「うん…。
でも、うまくコントロールできない。
さっきみたいに、美羽が危ないって思った時とか、強く念じると、たまに発動するみたいだけど…」
俺は自分の右手のひらを見つめた。
この奇妙な力。
いったい何なんだ。
「入れ替える…置換、するってこと?」
美羽が呟く。
「置換…そうか、そういうことか」
物を、空間的に入れ替える。
まさに「置換」だ。
しっくりくる言葉が見つかった気がした。
「なんか、ゲームみたいだね。
スキル名、みたいな」
美羽が少しだけ、緊張を解いて言った。
「スキル名、か…。
じゃあ、俺のは『置換』だな」
言葉にすることで、この得体の知れない力が、少しだけ自分のものになったような気がした。
「置換…英語だと、リプレイス、かな?」
「リプレイス…」
俺は口の中でその言葉を繰り返した。
「よし、決めた。
俺のこの能力は、『置換(リプレイス)』だ」
そう宣言すると、不思議と力が湧いてくるような気がした。
まだ不安定で、ろくに使いこなせてもいないけれど、これは俺の力なんだ。
「でも、なんで陽太にだけ、そんな力が…?」
「さあな…。
ラジオじゃ、他の奴にも能力が出てるって言ってたけど」
「もしかしたら、私にも…?」
美羽は自分の両手を見つめたが、特に何も起こらなかった。
「まだ分からないことだらけだな。
とにかく、今は生き延びないと」
俺たちは、リュックからペットボトルの水を取り出し、少しずつ飲んだ。
乾いた喉に、水が染み渡る。
少し落ち着いてから、俺は再びラジオのスイッチを入れた。
ノイズ混じりだが、今度はもう少し長く、安定した放送を捉えることができた。
『…依然として、都心部および周辺地域では、正体不明の大型生物、通称「異形(いぎょう)」による被害が拡大しています。
自衛隊および警察も出動していますが、通常の火器が効きにくい個体も確認されており、苦戦している模様です…』
異形。
そして、俺の「置換(リプレイス)」。
世界は確実に変わってしまった。
『…また、各地で、異能力、あるいは「スキル」と呼ばれる特殊な能力に目覚めた市民が確認されています。
救助活動や異形との戦闘で活躍する者もいる一方、この混乱に乗じて、能力を悪用し、略奪や暴行などの犯罪行為を行う者、集団も報告されています。
特に、渋谷、新宿などの繁華街では、一部の能力者グループが暴徒化し、無法地帯と化しているとの情報も…』
暴徒化。
能力を持った人間が、牙を剥き始めている。
俺のこの力も、使い方を間違えれば…。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
『…交通網は寸断されており、政府からの正式な避難指示なども届きにくい状況です。
市民の皆様は、可能な限り安全な場所に留まり、むやみに移動することは避けてください。
繰り返します…』
ラジオから流れてくる情報は、絶望的なものばかりだった。
安全な場所なんて、どこにある?
この「置換(リプレイス)」も、怪物や悪意を持った能力者に通用するのか?
「…やっぱり、行くしかないんだ」
俺は呟いた。
「九州に…?」
美羽が不安そうな顔で俺を見る。
「ああ。
ここにいても、ジリ貧だ。
それに、もしかしたら…九州なら、まだマシかもしれない」
何の保証もない。
これから先の道のりは、今日以上に危険なものになるだろう。
異形だけじゃない。
人間も信じられないかもしれない。
「俺のこの『置換(リプレイス)』…まだ全然ダメだけど、無いよりはマシだ。
これで、なんとか…」
俺は自分の右手を握りしめた。
この力で、美羽を守る。
そして、二人で生き延びるんだ。
「うん…わかった。
行こう、陽太」
美羽は、俺の目を見て、しっかりと頷いた。
その瞳には、もう怯えだけではない、強い光が宿っていた。
俺たちは、一人じゃない。
「よし。
とりあえず、日が暮れる前に、もう少しだけ進もう。
まずは、この先の大きな川を渡る方法を探さないと」
俺たちは地図を持っていなかったが、なんとなくの方向は分かる。
まずは、多摩川か荒川か、どちらかの大きな川を越えなければ、西へは進めないはずだ。
短い休息を終え、俺たちは再び立ち上がった。
リュックを背負い直し、武器を握りしめる。
廃墟となった商店を出て、夕暮れが迫る、静まり返った、しかし危険に満ちた街へと、再び足を踏み出した。
名付けたばかりの「置換(リプレイス)」を頼りに、俺は美羽を守りながら、西を目指す。