夕焼けの最後の残光が地平線に消え、街は急速に闇に包まれていった。
街灯はもちろん、建物の明かりもほとんどない。
月明かりだけが、瓦礫の山や崩れたビルの不気味なシルエットをぼんやりと浮かび上がらせている。
「…暗いな」
俺の呟きに、隣を歩く美羽は黙って頷いた。
視界が悪いということは、それだけ危険が増すということだ。
異形がどこに潜んでいるか分からない。
昼間よりも、さらに神経をすり減らす必要があった。
俺たちは、時折物陰に隠れて周囲を警戒しながら、できるだけ大きな通りを避け、川を目指して西へと進んだ。
遠くで、獣の咆哮のような異形の声が響く。
そのたびに、美羽の肩が小さく震えた。
俺は、彼女の手を強く握りしめた。
大丈夫だ、と無言で伝えるように。
数時間歩いただろうか。
湿った空気と、水の流れる音が、前方に川が近いことを教えていた。
やがて視界が開け、俺たちは大きな川岸にたどり着いた。
多摩川だ。
子供の頃、施設の遠足で来たことがある。
しかし、目の前に広がる光景に、俺たちは言葉を失った。
いつもなら車のライトが絶え間なく流れているはずの大きな橋が、真ん中から無残にへし折れ、崩落した部分が黒い川面に突き刺さっている。
「…嘘だろ」
他の橋は?
見渡せる範囲には、もう一つ橋が見えたが、そちらも途中で途切れているように見える。
これでは、川を渡れない。
「どうしよう、陽太…」
美羽が絶望的な声を出す。
俺は唇を噛み締めた。
諦めるわけにはいかない。
「…俺の力で、なんとかならないか…」
俺は対岸に目を凝らした。
月明かりの下、小さなボートのようなものが岸に乗り上げているのがかろうじて見える。
あれと、こちら岸にある同じくらいの大きさの瓦礫を入れ替えられたら…。
俺は右手を対岸のボートに向け、意識を集中させた。
『置換(リプレイス)』!
しかし、何も起こらない。
何度か試してみるが、手応えが全くない。
「くそっ…!」
距離が遠すぎるのか? それとも、対象がはっきり見えていないからか?
あるいは、単純に重すぎるのか?
昼間の戦闘で成功したのは、もっと近距離で、対象もはっきりしていた。
それに、精神状態も極限に近いものがあった。
今度は、すぐ近くにある、バスケットボールくらいの大きさの石と、数メートル先の折れた標識の一部を入れ替えようとしてみた。
『置換(リプレイス)』!
今度は成功した。
石と標識の位置が一瞬で入れ替わる。
「…やっぱり、近いもの、軽いものじゃないとダメなのか…?」
あるいは、もっと強い精神的なトリガーが必要なのかもしれない。
まだ、この力の特性が全然掴めていない。
「…陽太?」
美羽が心配そうに俺を見る。
「いや…まだ、この力はうまく使えないみたいだ。
ごめん」
「ううん、謝らないで。
陽太のせいじゃないよ」
美羽はそう言ってくれたが、俺は自分の無力さが歯がゆかった。
その時、崩れた橋の袂、暗がりの方で、人の気配がした。
俺たちは咄嗟に身構え、物陰に隠れた。
よく見ると、数人の男女が、焚き火のような小さな明かりを囲んで座り込んでいるのが見えた。
彼らも、俺たちと同じように、橋が渡れずに途方に暮れているのだろうか。
男の一人がライフル銃のようなものを抱えているのが見え、緊張が走る。
「…どうする?」
美羽が小声で尋ねる。
「…様子を見よう。
下手に近づかない方がいい」
ラジオの情報が頭をよぎる。
能力者による犯罪。
暴徒化。
目の前の彼らがどういう人間かは分からない。
しばらく様子を窺っていると、相手グループの一人がこちらに気づいたようだった。
男が立ち上がり、ライフルをこちらに向けながら、低い声で言った。
「そこにいるのは誰だ。
出てこい」
隠れていても仕方ない。
俺は美羽を背後に庇いながら、ゆっくりと姿を現した。
鉄パイプは、いつでも振るえるように握りしめている。
「…ただの通りすがりだ。
川を渡ろうと思ったんだが…」
俺は警戒を解かずに答えた。
相手の男も、俺たちの姿(武器を持った高校生二人)を見て、少しだけ警戒を緩めたように見えたが、ライフルは下ろさない。
「見ての通りだ。
橋は落ちてる。
他の橋も、無事なところはないって話だぜ」
男は吐き捨てるように言った。
その隣にいた、少し年配の女性が口を開く。
「おまけに、夜になると、昼間とは違う厄介なのが出るからねぇ…。
あんたたちも、早く安全な場所に隠れた方がいいよ」
昼間とは違う、厄介なの…?
嫌な予感がする。
「俺たちは、ここで夜を明かすつもりだ。
お前らも、あまりうろつかない方が身のためだぞ」
ライフルを持った男が、牽制するように言った。
彼らも、俺たちを信用していない。
この状況では当然だろう。
「…わかった。
邪魔して悪かったな」
俺は美羽の手を引き、その場を静かに離れた。
これ以上、彼らと関わるのは危険だと判断した。
「…やっぱり、橋はダメみたいだね」
美羽が力なく呟く。
「ああ。
夜明けを待って、別の方法を探すしかない。
それまで、安全な場所を見つけて休もう」
俺たちは川岸を少し離れ、辺りを見回した。
少し高台になった場所に、窓ガラスが割れているものの、外壁は比較的しっかりしていそうな、三階建てくらいの小さなビルが見えた。
あそこなら、夜を凌げるかもしれない。
俺たちは、周囲を警戒しながらそのビルに近づき、中へと入った。
一階は店舗だったようだが、中は空っぽだった。
二階の一室に入り、バリケード代わりに壊れた家具で入り口を塞ぐ。
「…これで、少しは安心かな」
俺は息をついた。
美羽も、少しだけ表情が和らいだように見えた。
リュックから、昼間手に入れたスナック菓子と水を出し、分け合って食べる。
味なんてほとんどしないが、空腹が満たされるだけでありがたかった。
「交代で見張りをしよう。
俺が先に起きているから、美羽は少し寝てろ」
「でも…」
「いいから。
大丈夫だって」
俺は美羽を促し、壁際に座らせた。
美羽は、しばらく俺の顔を見ていたが、やがてこくりと頷き、リュックを枕代わりにして目を閉じた。
すぐに、疲れていたのだろう、小さな寝息が聞こえてきた。
俺は、割れた窓から外を眺めた。
漆黒の闇の中に、遠くで火の手が上がっているのが見える。
風に乗って、異形の低い唸り声や、得体のしれない音が聞こえてくる。
そして、さっきの生存者たちの言葉が頭の中で反響する。
夜に出る、厄介なやつ…。
『置換(リプレイス)』を、もっとうまく使えなければ、すぐに限界が来るだろう。
どうすれば…。
思考がまとまらないまま、俺はただ、闇に覆われた壊れた東京の夜景を、鉄パイプを握りしめながら見つめ続けていた