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第5話 闇夜の攻防と夜明け

廃ビルの中は、しんと静まり返っていた。

壁一枚隔てた外の闇からは、時折、風の音に混じって、得体の知れない生き物の鳴き声のようなものが聞こえてくる。


俺は割れた窓のそばに身を潜め、神経を研ぎ澄ませていた。

眠気は、とっくに吹き飛んでいる。

さっき出会った生存者たちの言葉が、妙に頭にこびりついていた。

『夜に出る、厄介なやつ』。


カサ…


微かな物音。

ビルのすぐ外か? いや、もっと近い。

一階の、店舗だった空間の方からだ。

風で何かが動いただけかもしれない。

だが、嫌な予感がした。

心臓の鼓動が少し速くなる。


俺は息を殺し、耳を澄ませた。

しばらくの間、物音はしなかった。

気のせいだったか…?


そう思った瞬間。


キィ………。


すぐ下の階、二階の廊下から、何かが軋むような、引きずるような音が聞こえた。

ゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてくる。

足音ではない。

もっと粘着質で、不規則な音。


(来た…!)


姿は見えない。

この闇の中では、何も。

だが、気配は感じる。

それは、昼間遭遇した異形たちのような、分かりやすい殺意や飢餓感とは少し違った。

もっと冷たくて、狡猾な、捕食者の気配。


どうする?

鉄パイプを握る手に汗が滲む。

闇雲に飛び出しても、相手の姿が見えなければどうしようもない。

むしろ、音を立てて居場所を知らせるだけだ。


(落ち着け…『置換』を使えるか?)


闇の中で、音を頼りに相手の位置を探る。

音は、俺たちがいる部屋のドアのすぐ外で止まった。

息を詰めるような沈黙。

ドアの向こうに、何かがいる。


俺は部屋の中を見回した。

床に転がっている、手頃な大きさの瓦礫。

そして、ドアから少し離れた廊下の天井。

もし、奴がドアを破って入ってきたら…。


(いや、待て。もっといい方法があるはずだ)


陽動だ。

別の場所で音を立てて、注意をそらせないか?


俺は、部屋の隅に転がっていた空き缶と、ビルの外、少し離れた場所にある、壊れたドラム缶(昼間、場所を確認していた)を頭の中で捉えた。

距離はあるが、空き缶は軽い。

集中しろ。

あのドラム缶の中に、この空き缶を『置換』する!


『置換(リプレイス)!』


精神を集中させ、強く念じる。

瞬間、軽い浮遊感と共に、手元の空き缶が消え、同時に、外から「カラン!」という甲高い音が響いた。

成功した!


ドアの向こうの気配が、明らかにそちらに反応した。

軋むような音を立てて、ゆっくりと遠ざかっていく。


「…ふぅ」


思わず安堵の息が漏れる。

同時に、どっと疲労感が襲ってきた。

やはり、この能力を使うと、精神力をかなり消耗するらしい。


「…陽太?」


背後で、か細い声がした。

美羽が、いつの間にか目を覚ましていた。


「ごめん、起こしたか?」


「ううん…。

何か、いたの…?」


美羽は不安そうに俺を見る。


「ああ。

でも、多分、どっかに行った」


俺は小声で状況を説明した。

美羽は青ざめた顔で、ごくりと唾を飲み込んだ。


「夜は、昼間と違うのが出るって、本当だったんだね…」


「ああ。

油断できない」


俺たちは再び息を潜め、外の気配を探った。

さっきの異形の気配は、もう感じられない。

陽動がうまくいったようだ。


しかし、安心はできなかった。

あの異形が、完全に諦めて去ったとは限らない。

また戻ってくるかもしれないし、別の個体が現れるかもしれない。


「…交代しよう、陽太。

少し休んで」


美羽が言った。

俺は頷き、壁際に移動して目を閉じた。

だが、緊張でなかなか寝付けない。

隣に座った美羽が、俺の腕にそっと触れてきた。

その温もりに、少しだけ心が安らいだ。


どれくらい時間が経ったのか。

うとうとしかけた頃、美羽が俺の肩を軽く揺すった。


「陽太、見て…」


目を開けると、割れた窓の隙間から、東の空が白み始めているのが見えた。

夜明けだ。


「…朝…」


長く、恐ろしい夜が終わった。

俺たちは、互いの顔を見合わせ、安堵の息をついた。

朝日が、埃っぽい部屋の中に差し込み、キラキラと光の筋を作る。

それは、まるで祝福のようにも見えた。


「…生き延びたな」


「うん…」


疲労はピークに達していたが、同時に、生きていることへの強い実感があった。

しかし、感傷に浸っている暇はない。


「このビルも、もう安全じゃない。

明るいうちに、川を渡る方法を探そう」


俺は立ち上がりながら言った。


「どうやって…? 橋は壊れてたのに」


「分からない。

でも、何か方法があるはずだ。

それに、昨日の人たちがどうしてるかも気になる」


あの生存者グループは、無事に夜を越せたのだろうか。

もしかしたら、何か情報を持っているかもしれない。


俺たちは、残っていた最後の水を飲み、リュックを背負った。

鉄パイプと角材をしっかりと握りしめる。

夜の恐怖は去ったが、昼間には昼間の危険が待っている。


「行こう、美羽」


「うん!」

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