廃ビルの中は、しんと静まり返っていた。
壁一枚隔てた外の闇からは、時折、風の音に混じって、得体の知れない生き物の鳴き声のようなものが聞こえてくる。
俺は割れた窓のそばに身を潜め、神経を研ぎ澄ませていた。
眠気は、とっくに吹き飛んでいる。
さっき出会った生存者たちの言葉が、妙に頭にこびりついていた。
『夜に出る、厄介なやつ』。
カサ…
微かな物音。
ビルのすぐ外か? いや、もっと近い。
一階の、店舗だった空間の方からだ。
風で何かが動いただけかもしれない。
だが、嫌な予感がした。
心臓の鼓動が少し速くなる。
俺は息を殺し、耳を澄ませた。
しばらくの間、物音はしなかった。
気のせいだったか…?
そう思った瞬間。
キィ………。
すぐ下の階、二階の廊下から、何かが軋むような、引きずるような音が聞こえた。
ゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてくる。
足音ではない。
もっと粘着質で、不規則な音。
(来た…!)
姿は見えない。
この闇の中では、何も。
だが、気配は感じる。
それは、昼間遭遇した異形たちのような、分かりやすい殺意や飢餓感とは少し違った。
もっと冷たくて、狡猾な、捕食者の気配。
どうする?
鉄パイプを握る手に汗が滲む。
闇雲に飛び出しても、相手の姿が見えなければどうしようもない。
むしろ、音を立てて居場所を知らせるだけだ。
(落ち着け…『置換』を使えるか?)
闇の中で、音を頼りに相手の位置を探る。
音は、俺たちがいる部屋のドアのすぐ外で止まった。
息を詰めるような沈黙。
ドアの向こうに、何かがいる。
俺は部屋の中を見回した。
床に転がっている、手頃な大きさの瓦礫。
そして、ドアから少し離れた廊下の天井。
もし、奴がドアを破って入ってきたら…。
(いや、待て。もっといい方法があるはずだ)
陽動だ。
別の場所で音を立てて、注意をそらせないか?
俺は、部屋の隅に転がっていた空き缶と、ビルの外、少し離れた場所にある、壊れたドラム缶(昼間、場所を確認していた)を頭の中で捉えた。
距離はあるが、空き缶は軽い。
集中しろ。
あのドラム缶の中に、この空き缶を『置換』する!
『置換(リプレイス)!』
精神を集中させ、強く念じる。
瞬間、軽い浮遊感と共に、手元の空き缶が消え、同時に、外から「カラン!」という甲高い音が響いた。
成功した!
ドアの向こうの気配が、明らかにそちらに反応した。
軋むような音を立てて、ゆっくりと遠ざかっていく。
「…ふぅ」
思わず安堵の息が漏れる。
同時に、どっと疲労感が襲ってきた。
やはり、この能力を使うと、精神力をかなり消耗するらしい。
「…陽太?」
背後で、か細い声がした。
美羽が、いつの間にか目を覚ましていた。
「ごめん、起こしたか?」
「ううん…。
何か、いたの…?」
美羽は不安そうに俺を見る。
「ああ。
でも、多分、どっかに行った」
俺は小声で状況を説明した。
美羽は青ざめた顔で、ごくりと唾を飲み込んだ。
「夜は、昼間と違うのが出るって、本当だったんだね…」
「ああ。
油断できない」
俺たちは再び息を潜め、外の気配を探った。
さっきの異形の気配は、もう感じられない。
陽動がうまくいったようだ。
しかし、安心はできなかった。
あの異形が、完全に諦めて去ったとは限らない。
また戻ってくるかもしれないし、別の個体が現れるかもしれない。
「…交代しよう、陽太。
少し休んで」
美羽が言った。
俺は頷き、壁際に移動して目を閉じた。
だが、緊張でなかなか寝付けない。
隣に座った美羽が、俺の腕にそっと触れてきた。
その温もりに、少しだけ心が安らいだ。
どれくらい時間が経ったのか。
うとうとしかけた頃、美羽が俺の肩を軽く揺すった。
「陽太、見て…」
目を開けると、割れた窓の隙間から、東の空が白み始めているのが見えた。
夜明けだ。
「…朝…」
長く、恐ろしい夜が終わった。
俺たちは、互いの顔を見合わせ、安堵の息をついた。
朝日が、埃っぽい部屋の中に差し込み、キラキラと光の筋を作る。
それは、まるで祝福のようにも見えた。
「…生き延びたな」
「うん…」
疲労はピークに達していたが、同時に、生きていることへの強い実感があった。
しかし、感傷に浸っている暇はない。
「このビルも、もう安全じゃない。
明るいうちに、川を渡る方法を探そう」
俺は立ち上がりながら言った。
「どうやって…? 橋は壊れてたのに」
「分からない。
でも、何か方法があるはずだ。
それに、昨日の人たちがどうしてるかも気になる」
あの生存者グループは、無事に夜を越せたのだろうか。
もしかしたら、何か情報を持っているかもしれない。
俺たちは、残っていた最後の水を飲み、リュックを背負った。
鉄パイプと角材をしっかりと握りしめる。
夜の恐怖は去ったが、昼間には昼間の危険が待っている。
「行こう、美羽」
「うん!」