朝日が昇り、夜の恐怖を洗い流していく。
とはいえ、街の惨状がより鮮明に見えるようになっただけで、安心できる状況には程遠い。
俺と美羽は、警戒しながらも、昨夜の恐怖から解放されたことに少しだけ安堵しつつ、再び多摩川の川岸を目指した。
あの廃ビル周辺には、幸い、異形の気配は感じられなかった。
「…誰もいないね」
昨夜、生存者グループが焚き火をしていた橋の袂にたどり着いたが、そこには彼らの姿はなかった。
燃え尽きた焚き火の跡と、いくつかの空き缶や包装紙が転がっているだけ。
争ったような痕跡は見当たらない。
彼らも、俺たちと同じように、夜明けと共に行動を開始したのだろう。
少しだけ、ほっとした。
同時に、あのライフルを持った男たちのことを思い出し、油断は禁物だと気を引き締める。
「さて、どうやって渡るか…」
俺は改めて、目の前の大きな川と、無残に崩落した橋を見つめた。
川の流れは、見た目にはそれほど速くない。
だが、泳いで渡るには距離がありすぎるし、水の中に何が潜んでいるか分からない。
対岸を見渡しても、都合よくボートが流れ着いている様子もなかった。
「陽太、『置換』は使えないの…?」
美羽が尋ねる。
「試してみるけど…」
俺は対岸にある手頃な大きさの岩と、こちら岸の瓦礫をイメージして『置換』を試みたが、やはり何の反応もない。
精神を集中させても、まるで分厚い壁に阻まれているような感覚だ。
「ダメだ…。
距離が遠すぎるか、あるいは川自体が何か邪魔してるのかも…」
能力の限界を改めて痛感する。
これでは、川を渡る切り札にはならない。
俺は視線を川岸に向けた。
地震と、その後の増水か何かで打ち上げられたのだろう、大小様々な流木や瓦礫が散乱している。
「…なあ、美羽。
筏(いかだ)、作れないかな?」
「筏?」
「ああ。
ああいう木を集めて、ロープか何かで縛って…」
しかし、言葉にしながらも、すぐにそれが非現実的だと気づいた。
二人だけで、十分な大きさの筏を作るのは途方もない時間がかかる。
それに、木材を縛るための丈夫なロープなんて、都合よく見つかるはずもない。
「…やっぱり、無理か」
俺たちは、再び途方に暮れかけた。
何か、何か方法はないのか…。
その時、少し離れた川岸で、人の声が聞こえた。
見ると、小さな子供を連れた夫婦らしき三人組と、若い男性が一人、身を寄せ合うようにして座り込んでいる。
彼らの手元には、小さなラジオがあった。
俺と美羽は顔を見合わせ、警戒しつつも、ゆっくりと彼らに近づいてみた。
情報が必要だった。
「あの…すみません」
俺が声をかけると、彼らは一様にびくりと体を震わせ、警戒の表情を浮かべた。
特に、若い男性は鋭い目つきでこちらを睨んでいる。
夫婦のうち、夫らしき男性がおずおずと口を開いた。
「…な、なんでしょうか…?」
「俺たちも、この川を渡りたくて来たんですが…何か情報を知りませんか?」
俺はできるだけ敵意がないことを示しながら尋ねた。
夫婦は顔を見合わせた後、妻らしき女性がラジオを指差した。
「ラジオで、断片的にですが…。
この辺りの橋は、ほとんどダメみたいです。
それに…」
女性は声を潜めた。
「少し下流の△△橋は、変な力を持った人たちが封鎖してるって…通ろうとした人が襲われたとか…」
やはり、能力者による危険な動きは現実になっているらしい。
△△橋がダメとなると、他の橋も似たような状況かもしれない。
ラジオからは、ノイズ混じりのアナウンサーの声が聞こえてくる。
『…〇〇地区の市民センターは、現在も避難所として機能していますが、食料、医薬品ともに不足しています…各地で食料を巡るトラブル、暴行事件が発生…能力者による組織化の動きも…「ギルド」を名乗るグループが…』
ギルド…。
まるでゲームだ。
だが、現実に起きていることは、命懸けのサバイバル。
「私たちは、どうしたらいいのか…」
母親が、不安そうに子供を抱きしめる。
彼らも、絶望的な状況にいるのは同じだった。
俺は考えた。
彼らと行動を共にするか?
いや、人数が増えれば目立つし、食料の消費も増える。
それに、互いに疑心暗鬼なこの状況では、集団行動はリスクも高い。
「…情報、ありがとうございます。
助かりました」
俺は礼を言い、美羽に目配せした。
美羽も頷く。
二人で進むしかない。
「俺たちは、もう少し上流の方へ行ってみます。
もしかしたら、渡れる橋があるかもしれない」
夫らしき男性は、「そうですか…お気をつけて…」と力なく言った。
若い男性は、最後まで疑いの目を向けていた。
俺たちは、その場を離れ、川沿いを上流に向かって歩き始めた。
具体的な根拠はない。
だが、じっとしていても何も始まらない。
それに、ラジオの情報によれば、下流は危険な能力者グループがいる可能性が高い。
上流なら、まだ希望があるかもしれない。
「陽太、大丈夫? 疲れてない?」
美羽が心配そうに声をかけてくる。
「ああ、平気だ。
それより、美羽こそ」
「私も大丈夫」
互いに気遣いながら、俺たちは黙々と歩いた。
明確な目標ができたことで、さっきまでの絶望感は少し薄れていた。
道中、俺は時折、足元の小さな石や、邪魔になっている瓦礫を『置換』で移動させる練習を試みた。
成功率は上がってきたが、まだイメージ通りにいかないことも多い。
それに、連続で使うと、やはり頭が重くなるような疲労感がある。
この力をもっとうまく使いこなさなければ、この先、生き残れない。
川の流れは、少しずつ変化しているように見えた。
果たして、この先に、俺たちが渡れる橋は残っているのだろうか。
期待と不安を胸に、俺たちは上流を目指して歩き続けた。