多摩川沿いを上流に向かって歩き続けて、どれくらい経っただろうか。
日差しは真上から照りつけ、じりじりと肌を焼く。
額から流れる汗を手の甲で拭いながら、俺は美羽を振り返った。
「大丈夫か? 少し休むか?」
「ううん、まだ平気」
美羽は気丈に答えたが、その顔には疲労の色が隠せない。
無理もない。
ろくな食事も睡眠も取れず、いつ異形に襲われるか分からない状況で歩き続けているのだ。
精神的な消耗も激しいはずだ。
俺自身も、足が鉛のように重かった。
周囲の景色は、都心部のビル群から、次第に住宅地や低い建物、そして緑地が混じる郊外のそれに変わってきていた。
それでも、地震の爪痕は至る所に残り、傾いた家屋やひび割れた道路が痛々しい。
川幅が少し狭まり、開けた河川敷のような場所に出た時だった。
草むらが、ガサガサと不自然に揺れた。
「…!」
俺と美羽は同時に足を止め、武器を構えた。
次の瞬間、茂みの中から、複数の影が飛び出してきた。
それは、鳥のような鋭い嘴と鉤爪を持ちながら、体は鱗に覆われたトカゲのようで、背中には不格好な皮膜の翼を持つ、奇妙な生物だった。
大きさは大型犬ほどだが、動きが異常に素早い。
数が、五匹。
明らかに、俺たちを獲物として認識している。
「くそ、またかよ!」
俺は鉄パイプを握りしめ、美羽を背後に庇うように立つ。
美羽も、角材を両手でしっかりと握っている。
キシャァァァ!
甲高い鳴き声を上げ、異形たちが一斉に襲いかかってきた。
左右から回り込もうとする個体、正面から直線的に突っ込んでくる個体。
連携が取れている。
「美羽、離れるな!」
俺は突っ込んできた一匹に鉄パイプを叩きつけるが、素早く避けられ、腕のあたりを鉤爪で浅く切り裂かれた。
「いっつ…!」
熱い痛みが走る。
このままじゃ、数に押されてやられる。
練習の成果を見せる時だ。
(落ち着け…イメージしろ…!)
回り込もうとしていた一匹の足元。
その地面と、すぐ近くに転がっていた不安定な瓦礫の山を『置換』!
瞬間、異形の足場が崩れ、体勢を崩して転倒した。
よし!
すぐさま、別の異形が横から飛びかかってくる。
その軌道上に、少し離れた場所にあった錆びたドラム缶を『置換』で出現させる!
ガンッ!
異形はドラム缶に激突し、キャン!と悲鳴のような声を上げて地面に転がった。
手応えあり!
「陽太、後ろ!」
美羽の声。
気づくと、別の異形が俺の死角から飛びかかろうとしていた。
まずい、対応できない!
その時、美羽が叫びながら、角材を異形に叩きつけた。
バキッ!と鈍い音がして、異形が怯む。
以前の美羽なら、恐怖で竦んでしまっていたかもしれない。
だが、今の彼女の目には、恐怖を乗り越えようとする強い意志があった。
「陽太、しっかり!」
美羽の檄が飛ぶ。
俺はハッとして、体勢を立て直した。
そうだ、一人で戦っているんじゃない。
一体の異形が、再び美羽に襲いかかろうとしている。
俺は、その異形の頭上と、少し離れた場所にある、手頃な大きさのコンクリートブロックを捉えた。
『置換(リプレイス)!』
コンクリートブロックが異形の頭上に瞬間移動し、落下する。
ゴッ!という鈍い音と共に、異形は頭を砕かれ、動かなくなった。
残りは二匹。
仲間がやられたのを見て、異形たちの動きが明らかに鈍った。
しかし、こちらも限界が近い。
『置換』を連続で使用したせいで、頭がクラクラし、視界が霞む。
体が重い。
これが、能力の代償か…。
「陽太、大丈夫!?」
美羽が俺のそばに駆け寄る。
残りの異形二匹は、俺たちが消耗しているのを見て取ったのか、あるいはこれ以上の損害を嫌ったのか、キシャア、と威嚇するような鳴き声を残して、素早く茂みの中へと逃げていった。
「…はぁ…はぁ…行った、か…」
俺はその場にへたり込んだ。
全身から力が抜けていく。
美羽も、角材を落とし、荒い息をつきながら隣に座り込んだ。
「…やったね、陽太」
「ああ…美羽も、すごかったぞ。
助かった」
俺が言うと、美羽は少し照れたように俯いた。
「陽太こそ…。
あの力、前よりすごい」
「…でも、使うと、かなり疲れるみたいだ。
もっとうまく、効率よく使わないと…」
能力の有効性を実感すると同時に、エネルギー管理という新たな課題が見えた。
そして、美羽の成長。
ただ守られるだけの存在じゃない。
俺たちは、二人で戦っているんだ。
そのことが、何よりも心強かった。
十分ほど休息し、傷口を布で縛って応急処置を済ませてから、俺たちは再び立ち上がった。
幸い、傷は浅かった。
「行こう。
橋は、もうすぐのはずだ」
疲労困憊だったが、異形を撃退できたこと、そして美羽との連携がうまくいったことが、俺たちに新たな力を与えてくれた。
川沿いをさらに歩くこと、三十分ほど。
前方に、橋が見えてきた。
遠目だが、その姿は…崩れていない!
「あっ…! 陽太、見て!」
美羽が歓声を上げる。
俺も、思わず息を呑んだ。
橋だ。
ちゃんと繋がっているように見える。
希望の光が見えた気がした。
「よし…!」
しかし、喜びも束の間、俺たちはすぐに表情を引き締めた。
橋が無事だとしても、渡れるとは限らない。
異形の巣窟になっているかもしれないし、ラジオで聞いたように、危険な能力者グループが封鎖している可能性だってある。
「…慎重に行こう、美羽」
「うん」
俺たちは、逸る気持ちを抑え、周囲を警戒しながら、ゆっくりと希望の橋へと近づいていった。