目の前に横たわる橋は、奇跡的にその姿を保っていた。
××橋。
以前、地図で見たことがある名前だ。
都心から少し離れたこの場所にあったことが幸いしたのかもしれない。
しかし、手放しで喜べる状況ではなかった。
橋の上には、何台もの車が乗り捨てられ、大小の瓦礫が散乱している。
まるで、多くの人々がこの橋を渡ろうとして、何らかの理由で放棄していったかのようだ。
異形の姿は見えないが、死のような静寂が、かえって不気味さを醸し出していた。
「…行けるかな」
美羽が不安そうに呟く。
「慎重に行けば、多分…。
でも、何かあるかもしれない。
気を抜くなよ」
俺たちは、橋の手前にある、ひっくり返ったトラックの陰に身を隠し、橋の上の様子を注意深く観察した。
対岸の様子も窺うが、特に動くものは見えない。
ただ、橋の中央付近、ちょうどアーチの一番高い部分あたりに、何か黒い塊が見えた。
瓦礫や廃材が積み上げられた、バリケードのようなものだ。
「あれ…なんだろう」
「誰かが作ったのかもな…。
異形避けか、それとも…」
人間避け、という可能性も頭をよぎる。
ラジオで聞いた、能力者グループによる橋の封鎖。
まさか、ここも…?
「陽太、『置換』で向こうの様子、分からない?」
「やってみる」
俺はバリケードの向こう側、路面に落ちている空き缶のような小さなゴミと、こちら側の足元にあった小石をイメージした。
距離はそこそこあるが、軽いもの同士ならいけるはずだ。
『置換(リプレイス)!』
精神を集中させる。
わずかな疲労感と共に、足元の小石が消え、空き缶が現れた。
成功だ。
しかし、入れ替わった空き缶を見ても、バリケードの向こうに何か特別なものがあるようには見えない。
ただ、風に吹かれて転がるだけだ。
偵察としては、あまり役に立たなかった。
「…よく分からない。
とにかく、行ってみるしかない」
他に道はない。
俺たちは意を決し、トラックの陰から飛び出した。
美羽の手を強く握る。
ひんやりとした彼女の手の感触が、俺自身の緊張を伝えているようだった。
乗り捨てられた車の間を縫うように、できるだけ足音を立てずに進む。
風が橋の上を吹き抜け、ゴォォ…と低い音を立てる。
時折、橋の構造がきしむような音が聞こえ、肝を冷やす。
もし、この橋が突然崩れたら…。
そんな考えを振り払い、俺は前だけを見据えた。
やがて、橋の中央付近、バリケードが見えてきた。
近づいてみると、それは瓦礫や、ひしゃげた車のドア、ガードレールの一部などを、無造作に積み上げただけの粗雑なものだった。
高さは2メートルほどあり、向こう側を完全に見通すことはできない。
その時。
バリケードの向こう側から、微かに、人の話し声のようなものが聞こえた気がした。
俺と美羽は顔を見合わせ、息を殺す。
耳を澄ますが、風の音にかき消されて、はっきりとは聞こえない。
気のせいか…?
「陽太、あれ…」
美羽がバリケードの一部を指差す。
よく見ると、比較的新しい血痕のようなものが付着していた。
乾いて黒ずんでいるが、生々しい。
ここで、何か争いがあったのか…?
バリケードを迂回することはできそうにない。
これを越えるしかない。
俺は『置換』で、積み上げられた瓦礫の一部(手頃な大きさのもの)をどこか別の場所に移動させられないか試みた。
しかし、対象物が他の物と複雑に絡み合っているせいか、あるいは単純に重すぎるのか、うまくいかない。
「…仕方ない。
隙間から行くぞ」
バリケードの端の方に、人が一人、なんとか通り抜けられそうな隙間があった。
俺は先に、その隙間に体を滑り込ませた。
中は暗く、埃っぽい匂いがする。
話し声は、もう聞こえない。
「美羽、こっちだ!」
俺は美羽を手招きし、彼女も慎重に隙間を通り抜けた。
バリケードの向こう側は、こちら側と変わらず、瓦礫が散乱しているだけだった。
人の姿はない。
さっきの話し声や血痕は、一体何だったのか…。
不気味な感覚だけが残った。
バリケードを抜けると、橋の終わりが見えてきた。
あと少しだ。
俺たちは、油断することなく、早足で対岸を目指した。
そして、ついに。
俺たちの足は、対岸の固い地面を踏みしめた。
「…渡った…!」
思わず声が出た。
美羽も、安堵の表情で大きく息をついている。
振り返ると、今渡ってきた橋が、まるで別の世界との境界線のように見えた。
大きな関門を、また一つ乗り越えたんだ。
「やったな、美羽!」
「うん…!」
疲労困憊のはずなのに、達成感で少しだけ体が軽くなった気がした。
しかし、感傷に浸ってはいられない。
対岸の景色は、こちら側と何ら変わりなく、破壊と静寂に満ちている。
俺たちの旅は、まだ始まったばかりなのだ。
「よし、行こう」
俺は美羽に声をかけた。
まずは、この辺りで安全を確保し、情報を集める必要がある。
地図でも見つかればいいのだが。
「次は、どこへ向かうの?」
「まだ分からない。
けど、とにかく西だ。
もっと安全な場所を目指して」